前回の続きです。
生まれた木造二階建ての「引き揚げ者住宅」は、建て替えられ鉄筋コンクリートの4階建てに変わったのです。建て替えで引っ越したのが小学校3~4年?でしたから、いまから50数年前の事です。
そして、いま、建て替えられたアパートは解体され、また新たに建て替え工事が始まろうとしているのです。それにしても、鉄筋コンクリートも50数年の寿命ですか?そういう私も、そろそろ寿命?
着工予定が平成28年6月1日となってます。いまは平成29年ですから半年以上も遅れているの?それとも解体工事の開始が着工?
それにしても、施工者の欄には未定とあります。と云う事はやっぱり着工は遅れているの?何だかよく判りません。
それにしても、地名が坂下2丁目となっていました。私が居た頃は蓮根町でした。坂下はもっと、もっと遠くで、ホントに坂の下の近辺だけが、坂下と云う町名でした。
それにしても、建築主は、あの“舛添要一”と書かれているのには、世の移ろいを感じるのであります。今頃はあのお方、何処で、何を考え、何をしているのでしょうか?築地市場移転問題で百条委員会に呼ばれたりするかも?
まあ兎に角、生まれた木造アパートは影も形も在りません。それと、“引き揚げ者住宅”とこれまで書いてきましたが、これは父から聞いた話しで確証はありません。それと、我が家族は引き揚げ者でもありません。何か、区議会議員の口利きで入居したように聞いています。
まあ、それは、それとして、家の目の前は広い公園だったのです。ホントのところは公園と云うよりも、単なる広場?と云うか、野球場だったような?
広場には対角線上にバックネットが2面あっただけで、後は何も無い空き地のような公園でした。城北公園となっていますが、あの頃そんな名前で呼んでいたな?いなかったような?まあ、あまりハッキリとした記憶はありません。
今もあの頃と同じようにバックネットが2面あり、公園と云うよりも野球場です。野球で、何故か突然記憶が蘇ったのです!ここで大人が野球をしているのを、私はよくボンヤリ見ていたのです。
そして、その野球チームの名前を思い出したのです。ユニホームの胸に「イワツキ」とありました。志村坂上にあった包帯とか脱脂綿の会社だった記憶が蘇ってきました。いまネットで調べたら今もイワツキは志村坂上にありました。
何故、イワツキとか包帯とか脱脂めんとか覚えていたのか?たぶん、当時、ユニホームなど着ているチームが珍しかったので、イワツキの名前が幼いこころに記憶されたのかも?それにしても会社の業務内容までどうして?
それは、たぶん、イワツキの工場がある志村坂上には、悪ガキ達と連れだって時々“遠征”していたのです。そのときに見た工場の煙突に「岩月・包帯・脱脂めん」と描かれていた記憶がうっすらとあります。
兎に角、幼い頃の記憶が、芋づるしきに引き寄せられ、蘇ってきます。脳の中に過去のすべてが記憶されているのでしょう。
幼い頃と云えば、未だに、時々思い出すのですが、ある日家の前の公園に、当時としては珍しかった観光バスが、それも何台も何台も並んで駐まっている光景です。
一台でも珍しいのに、それが、何台も、何台もですから、驚きです!ビックリです!でも、この記憶は、とても、とても、不思議なのです。
不思議と云うのは、このことを思い出したのは、十数年前に見た夢からなのです。その時の夢は、過去の現実が夢で蘇ったのか?それとも、そういう事実は無く、別の体験と組み合わされて夢に現れたのか?ハッキリしないのです。
それ以来、夢の光景を、時々、ふと思い出す事があるのです。公園の隣は志村第六小学校ですから、たぶん、遠足とか、社会科見学とか、そんなことで、観光バスが集まっていた可能性があります。
幼い頃の私には、色とりどりの、大きな観光バスが、何台も、何台も並ぶ光景は、夢のようだったと思うのです。驚きと不思議とで、こころにしっかりその光景が刻まれただと・・・・・・・。
そして、その光景は、40数年の歳月を経て、夢として蘇る、まあ、そんな事では無いかと思いつつ、脇を見ると、バスが置かれていました。観光バスではなく、路線バスで、昭和40年代?の頃に走っていたような車体。
おぼろげな記憶を辿りつつ、過去の想い出の欠片を見つけつつ、夢と幻の狭間に漂いつつ、蓮根の街を歩きまわっています。
まだ、まだ、続く、幼かった過去を探し求める夢と幻の旅。
それでは、また。