自室のストーブの前、ボロボロ、分解しそうな66年前のハードカバーを膝の上に載せ、読んでいる。
本は1952年(昭和27年)配本が開始された角川書店、昭和文学全集の第14巻、宮沢賢治集(昭和28年配本)の一篇、銀河鐵道の夜。
戦後の混乱期から経済成長の時代に向かう頃の空前の全集出版ブーム、我が家でも角川書店から出版予定の昭和文学全集を父が予約、
配本される都度、重そうに数冊本を抱えて会社から帰ってくる、そんな父の姿を今でも覚えている。
全60巻の配本が終わった頃、粗末な組み立て式の書架が送られてきた。
だが、その書架に全巻揃うことはなかった。家族6人、誰かが自分の好みの本を手元に持っていって返さない。
小学校3,4年生だった私は宮沢賢治に夢中だった。爾来、その本は66年間ずっと私の手元にあり続けている。
風の又三郎、ポラーノ廣場、クスコーブドリの傳記、だが断然私は銀河鐵道の夜が好きだった。
当時、賢治といえば風の又三郎だった時代、正字、旧仮名遣い、ルビなし、細かい活字の三段組の本に小学生がなぜ?
黄金きんと紅でうつくしくいろどられた大きな苹果・・・苹果を読み、理解し得たのであろうか?
賢治の思想、哲学、教養、宗教、科学のすべてを織り込んだ銀河鐵道の夜、小学生の私が理解し得たのか?
だが、通俗を嫌うマセガキ、現実と幻想の世界、夢想する少年、繰り返し読んだ少年期の私の深層心理に言い知れぬインパクトを与えたことは確かであろう。
文献学的研究がなされてない時代に出版された本、遺稿には頁数さえなく、紛失稿もあり、研究の進んだ現在出版されている本とだいぶ違う。
だが、私にはこの不完全な本、形而上学的深い意味を含むブルカニロ博士の登場の結末で終わる銀河鐵道の夜でなければならないのだ。
平易な結末では満足できない、この本の銀河鐵道の夜を心から愛する。
改めてよく見れば 全部ではないが初めて出てくる苹果にりんごとルビが振ってある