学問空間

「『増鏡』を読む会」、第9回は2月22日(土)、テーマは「上西門院とその周辺」です。

「知の地殻変動」

2009-08-19 | ヨーロッパの歴史
投稿者:鈴木小太郎 投稿日:2009年 8月19日(水)23時47分7秒

>筆綾丸さん
今日、『磁力と重力の発見 2 ルネサンス』を入手して200ページほど読み進めましたが、尋常ならざる面白さですね。
圧倒されます。
『十六世紀文化革命』も購入してみました。

第三十回大佛次郎賞受賞記念講演
http://homepage2.nifty.com/ikariwoutae/starthp/yamamoto.htm
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「世界の驚愕」

2009-08-16 | ヨーロッパの歴史
投稿者:鈴木小太郎 投稿日:2009年 8月16日(日)19時05分21秒

フリードリヒ二世も実に興味深い人物ですね。

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 そしてこのマイケル・スコットをパレルモの宮殿で庇護したのが、同時代のイングランドの歴史家マシュー・パリスにより「世界の驚愕」と呼ばれたフリードリヒ二世であった。ホーフェンシュタウフェン家の嫡流ハインリヒ六世と初代シチリア国王ロジェー二世の娘コンスタンツァの間に生まれ、ヨーロッパの異界パレルモで育ち、教皇イノケンティウス三世から帝王学を学んだフリードリヒ二世は、やがて神聖ローマ帝国の皇帝とシチリアとナポリ王国の王、さらにはエルサレムの王位をもかね備えるヨーロッパ最大の実力者になる。しかし彼が「驚愕」と呼ばれる所以は、その権力の大きさもさることながら、むしろその権力行使の思想と実態において時代を超越していることにある。(p193)
-------

『鳥をもちいた狩の技術について』の著者だけに、肖像画にも鷹が一緒に描かれてますね。

http://en.wikipedia.org/wiki/Frederick_II,_Holy_Roman_Emperor
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Villard de Honnecourt

2009-08-16 | ヨーロッパの歴史
投稿者:鈴木小太郎 投稿日:2009年 8月16日(日)18時43分19秒

>筆綾丸さん
『磁力と重力の発見 1古代・中世』、人名をウィキペディアに当たりつつゆっくり読んでみましたが、高度な内容でありながら、議論の進め方は非常に丁寧で、分かりやすい本ですね。

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 それよりも重要なことは、『磁気書簡』第二部に示されているペレグリヌスの研究の目的である。一五五八年にはじめて印刷されたアウグスブルク版のタイトルは『磁石ないし永久運動車輪についての書簡』とあり、そして一九世紀のベンジャミンの書物では、ペレグリヌスが磁石を研究し『磁気書簡』を書いた真の意図は、永久運動機関の製作にこそあったと書かれている。そこまで断言してよいかどうかの判断には立ち入らないにしても、磁力という自然力を動力源に利用することがペレグリヌスの磁石研究のひとつの重要な狙いであったことは疑えない。それは、言うならば、電磁エネルギーの力学的エネルギーへの転換の人類史上はじめての試みであり、成功したか否かにかかわらず─リン・ホワイトの言うように─構想したこと自体が決定的である。そしてこれこそが、ロジャー・ベーコンが「経験学の第三の特権」で目指していたことの具体的な実践に他ならない。(p292)

 このようにペレグリヌスの『磁気書簡』のスタンスはきわめて近代的で、中世キリスト教社会の精神的世界に超越しているように見えるけれども、それでもやはりそれが生まれるだけの基盤は存在していたのであり、時代の背景のなかで理解されなければならないものである。実際リン・ホワイトの著書によると、一三世紀にヨーロッパの技術者を熱中させていたのは、重力で駆動する時計の製作だとある。動力の問題は技術者の共通の関心事であった。そんなわけで、ペレグリヌス自身が上記の引用ではっきり認めているように、この時代に永久運動機関を考案した技術者は彼以外にもいた。
 技術史家ギャンペルによれば、この時代には巨大な大聖堂が数多く建設され、一一世紀のロマネスク様式の巨大石造教会建築のはじまり以来、一三世紀のゴシック建築の最盛期にいたるまで、フランスでは八〇の大聖堂、五〇〇の大教会堂、数万の教区教会堂が建てられたという。同時にその時代は築城ラッシュの時代でもあった。そんなわけで、当時建築技術者は相当の学識と技能を要求され、それなりに社会的に高い地位にあったようである。そのような建築技師の一人で、ペレグリヌスと同郷のピカールディーにほぼ同時代に生まれたヴィラール・ド・オクヌールが描いた『画帳』が遺されている。(中略)そしてその中に「工匠たちは車を自転するようにさせることについて何日も論じあった。ここに奇数個の木槌もしくは水銀をもちいてするその方法を示す」とキャプションをつけた重力を動力とする永久運動車輪の図が描かれている。(p295-6)
-----------

ヴィラール・ド・オクヌールの『画帳』はキリスト像のような真面目な作品もどこかユーモラスで、眺めていると時間を忘れそうです。

http://www.cgagne.org/villarcg.pdf
http://en.wikipedia.org/wiki/Villard_de_Honnecourt
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「玄妙不可思議な磁力」(p91)

2009-08-14 | ヨーロッパの歴史
投稿者:鈴木小太郎 投稿日:2009年 8月14日(金)23時11分14秒

>筆綾丸さん
レスが遅れてすみませぬ。
『イタリア海洋都市の精神』序章で紹介されていたW.H.マクニール『ヴェネツィア-東西ヨーロッパのかなめ、1081-1797』を読了後、『磁力と重力の発見』を最初から読み始めました。
古代ギリシア・ヘレニズム・ローマ帝国を経て、やっと中世キリスト教世界に入ったところで、明日には『磁気書簡』に辿り着きたいと思います。
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「商業上の秘密」

2009-08-09 | ヨーロッパの歴史
投稿者:鈴木小太郎 投稿日:2009年 8月 9日(日)15時49分8秒

更に筆綾丸さんが紹介されている部分をはさんで、少し後の記述です。(p181以下)

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 現在知られているかぎりで、ヨーロッパでの航海用コンパスとしての磁針の使用に最初に言及したのは、聖アルバンの僧イギリス人アレクサンダー・ネッカム(一一五七-一二一七)、フランスの詩人で聖職者プロヴァンスのジオット(一一八四-一二一〇)、そしてエルサレム王国の都市アッコンの司教ジャック・ド・ヴィトリ(一一六五-一二四〇)のものと言われている。
(中略)
 コンパスについてのこれらの記述は、そのどれもが新たに見出された事実として語られているのではない。(中略)いずれも磁針についての知識を前提としてそれを引き合いに出しているにすぎない。そのことは磁針がすでに以前から使用されていたことを強く示唆している。
 それはそうだろう。そもそも当時の船乗りたちには、自分たちの仕事内容について何かを書き残すという習慣はほとんどなかったと考えられる。それだけではない。ソーンダイクによれば、一三世紀のカンタンプレのトマス(一二〇一-七二)は、航海用コンパスにふれて、磁石が魔術的力を持つと記しているとのことで、そのため「航海用コンパスの秘密の所有者は、魔術の嫌疑がかかるのを懸念してその秘密をあかすのを長いあいだ怖れていた」とある。この点については、ソーンダイクのように魔術一般ではなく、もっぱら航海用コンパスの製作と使用の歴史をめぐって古代・中世の文献を丹念に調べあげたミッチェルもまた、まったく同趣旨の指摘をしている。あまつさえ磁気羅針儀の使用は、貿易業者にとっては当初は商業上の秘密であったということも考えられる。それやこれやで、どのみち船乗りたちはコンパスの使用を積極的に公表しようとしなかったことは確かであろうから、ヨーロッパの船乗りたちが磁針の使用を開始したのは、聞き知った僧侶たちがそれについて書き残すより相当以前のことと推察される。いずれにしても、その発見が北海やバルト海あるいは地中海でのヨーロッパ人の活動が活発になっていった時期であることは、まず間違いがない。
----------

山本氏は「磁気羅針儀の使用は、貿易業者にとっては当初は商業上の秘密であったということも考えられる」とあっさり書かれていますが、競争相手を出し抜いて独占的に巨額の利益を獲得できる極秘ノウハウですから、魔術の嫌疑の懸念などより、こちらが記録が残らなかった最大の理由じゃないですかね。
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「ヨーロッパはヨーロッパで独自に発見」

2009-08-09 | ヨーロッパの歴史
投稿者:鈴木小太郎 投稿日:2009年 8月 9日(日)15時36分3秒

>筆綾丸さん
山本義隆氏の本、私には難しすぎるように思えたのですが、思い切って購入しました。
筆綾丸さんが紹介されている箇所の直前の部分、引用してみます。(p179以下)

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 中世ヨーロッパにおける磁力理解を大きく拡げ変化させた直接の契機は、航海用コンパス(磁気羅針儀)の使用の始まり、すなわち磁化された鉄針の指向性、ひいては磁石そのものの指向性の発見にあった。
 磁石で擦られた鉄の針が南北を指すことは、ニーダムとミッチェルによれば、中国では宋の時代(一〇八八頃)に沈括という人物が書いた『夢渓筆談』に記されているとあり、これが残されている確かな記録としてはもっとも古いようである。
 それにたいしてヨーロッパ人が磁針や磁石の指向性をいつ知ったのか、また磁針を航海用コンパスに使用しはじめたのがいつなのか、これらの点は正確にはわかっていない。本書は磁力の認識が力概念の発展になにをもたらしたのかを主要な問題とするものであり、羅針儀の使用がいつ・どこで始まったかの穿鑿を事とするものではないが、ヨーロッパ人がその知識を得るにいたった消息を窺うために、残されているドキュメントにたよって遡及しておこう。
 ギルバートはマルコ・ポーロが航海用コンパスの知識を中国から持ち帰ったのがその発端のように書いているが、実際にはマルコ・ポーロが一二九五年に帰国するほぼ一世紀前にはすでにコンパスはヨーロッパで使用されていた。またその知識が中国からイスラーム社会経由でヨーロッパに伝えられたという説も通史にはよく見られるが、その説を確実に証拠立てるものはなく、むしろヨーロッパはヨーロッパで独自に発見したという方が真相に近いようである。というのも羅針儀についての記載が見出されるのは、イスラームの文献よりも西欧の文献のほうが早いからである。
---------

私は「その知識が中国からイスラーム社会経由でヨーロッパに伝えられたという説」が定説だと思っていましたので、ちょっと驚きました。
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「再構成」

2009-08-07 | ヨーロッパの歴史
投稿者:鈴木小太郎 投稿日:2009年 8月 7日(金)08時50分38秒

陣内氏共著の『図説西洋建築史』(彰国社、2005)p58には、アマルフィのドゥオモのファサードについて、「今のものは19世紀後半の再構成で実現したものとはいえ、元々のアラブ風の外観を理想化して造形されたものである」とありますね。
『南イタリア都市の居住空間―アマルフィ、レッチェ、シャッカ、サルデーニャ』 (中央公論美術出版、2005)も確認したのですが、少しわかりにくい点があり、後で整理してから書いてみます。
ちなみに、この本は47250円というお手ごろな値段です。
買った訳ではありませんが。

http://bookweb.kinokuniya.co.jp/htm/4805504870.html
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兄or弟

2009-08-06 | ヨーロッパの歴史
投稿者:鈴木小太郎 投稿日:2009年 8月 6日(木)01時12分57秒

『イタリア海洋都市の精神』p167には、次の一文があります。

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 ちなみに、この町の守護聖人、聖アンドレア(アンデレ)は、聖ペテロの弟で、二人とも漁師であった。この兄弟がガラリアの海辺で海に網を打っている際に、通りかかったイエスに「私についてきなさい。あなたがたを、人間をとる漁師にしてあげよう」と呼びかけられ、彼らは網を捨て、イエスにしたがって、その弟子となった。マタイ伝はそう伝える。このように漁師の象徴でもある聖アンドレアを聖人としていただくというのも、アマルフィが海と結びついた都市であることを物語る。
-----------

これは別に陣内氏の独自の見解ではなく、アマルフィについて語られた文章にはよく出てくるものですが、ただ、キリスト教の素養が全くない私が短時間で調べた範囲の知識で言うと、マタイ伝には聖アンデレと聖ペテロが兄弟であると書かれているだけで、どちらが年上かは明確ではないようです。
次の例のように、アンデレが兄だとするサイトも散見します。

Fisherman and disciple of Jesus Christ. Andrew was the elder brother of Simon Peter (Saint Peter). Although having no connection with the country while alive, St. Andrew is the Patron Saint of Scotland and St. Andrew's Day is celebrated by Scots around the world on the 30th November.

http://www.geo.ed.ac.uk/scotgaz/people/famousfirst2.html

よく分かりませんが、聖アンデレを守護聖人とする地域・国のナショナリズムの発露なんですかね。
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エキゾチックなイタリア

2009-08-05 | ヨーロッパの歴史
投稿者:鈴木小太郎 投稿日:2009年 8月 5日(水)00時55分57秒

陣内秀信氏の『イタリア海洋都市の精神』を読み始めたところ、少しショッキングな記述がありました。(p192以下)

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グランドツアーと近代のアマルフィ

 広場の平面的な形態はその段階でできたとはいえ、今のように教会前に大階段が設けられたのは、一八世紀のことであり、階段の下にあたる場所に、一三世紀にはアラブ式の公衆浴場が、後の一四世紀終わりには五軒の店舗があったことが知られている。古い時代には、人々は鐘楼の裏を回りこむようにして、ドゥオモに横からアプローチしていた。現在見ているアマルフィの華麗なる都市空間ができ上がるまでには、いくつもの段階があったことを忘れてはならない。
 大聖堂のイスラーム様式による美しいファサードは、中世からずっと続いてきたものだと思いがちだが、実は違う。一九世紀後半の地震で大きく亀裂が入り、その修復の際に、部分的に残っていたイスラーム様式の装飾を手掛かりに再構成された近代の産物なのである。
一八世紀には、古代文化を受け継ぎ、その再生によって先進的ルネサンス文化を創り上げ、建築や都市空間の魅力を発信していたイタリアは、イギリス、ドイツ、フランスなど、アルプス以北のヨーロッパの国々の人にとっては憧れの地だった。この世紀に、永遠の都ローマの真ん中で、古代広場フォロ・ロマーノの発掘が進み、またポンペイが発見され、発掘によって古代都市がその姿を現したのも大きな刺激となり、はるばるアルプスを越えて南下し、このイタリア各地の都市を訪ねる「グランドツアー」という動きが活発になった。ヨーロッパ各地から、大勢の芸術や文学を志す人々が危険を覚悟で苦労しながら旅を続け、多くの刺激を自国に持ち帰り、新しい文化の創造に貢献したのである。
 彼らの訪問先はせいぜいナポリまでで、ナポリからシチリアに船で渡るルートはあったものの、カンパーニア地方の南までがツアーの対象となることはなかった。だが、南のパエストゥムのギリシア都市遺跡が再発見され、評判になると、人々の流れは南に向かった。当時、ギリシアの地はオスマン帝国に支配され、古代のギリシア文明に対するヨーロッパ人の関心が大きくなっても、実際にアテネのアクロポリスなどを訪ねることは極めて困難だった。南イタリアに受け継がれた古代ギリシアの神殿建築や劇場、都市の遺構がおおいに人々を触発したのである。
 その影響が一九世紀初めにはアマルフィにまでおよび、アルプス以北のヨーロッパ人が多くこの地を訪ねるようになっていた。ただしここで彼らが惹かれたのは、古代文化ではなく、イスラームやビザンツのエキゾチックな文化だった。ヨーロッパの人々の間に、中世の文化に惹かれ、ピクチャレスクな風景に魅せられる新たな感性が生まれつつあった。本来国際感覚をもっていたアマルフィの人たちも、そのことを強く意識したのであろう。中世の誇らしい歴史の中で育まれたそのオリエンタルな美意識を、自分たちの文化的アイデンティティとして強く自覚したのである。海洋都市ならではの賢明な選択だった。
-------------

うーむ。
「部分的に残っていたイスラーム様式の装飾を手掛かりに再構成」となると、実際に残っていたのは分量的には非常に僅かだったのではないか、とゆーか、古いカケラを参考に全く新たに作ったのでは、という疑いすら生じて来ます。

>筆綾丸さん
>「金羊毛騎士団」の一員
政教分離を厳密に考えると、憲法上の問題がありますね。
ガーター騎士団については、憲法の教科書で見た覚えがあります。
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スコットランドの聖遺物

2009-08-04 | ヨーロッパの歴史
投稿者:鈴木小太郎 投稿日:2009年 8月 4日(火)00時32分39秒

スコットランドの守護聖人でもあるSaint Andrewの聖遺物はEdinburghのSt Mary's RC Cathedralに保管されているそうですが、こちらは二つのうち、ひとつは、

In 1204, French and Venetian Crusaders sacked Constantinople. The French removed many relics. (including the Shroud), to Western Europe. To protect the relics of the Apostle, Cardinal Peter of Capua, the Papal Legate to the East, brought the body of St Andrew to his home town, Amalfi, in southern Italy.

On the restoration of the hierarchy in Scotland in 1878, St Andrews and Edinburgh was made the Metropolitan See of Scotland. In 1879 Archbishop Strain received from the Archbishop of Amalfi a large portion of the shoulder of the Apostle Andrew. It was placed in a silver gilt shrine donated by the Marquess of Bute.

ということで、1878年にアマルフィからもらったもの。
もうひとつは、

The second relic was given by Pope Paul VI to the newly created Scottish Cardinal Gordon Joseph Gray, in St Peter’s Rome, in 1969, with the words ‘Peter greets his brother Andrew’. Cardinal Gray was the first Scottish Cardinal in four hundred years.

ということで、1969年にローマ法王からもらったもの。
うーむ。
聖遺物の贈答は19世紀、20世紀になっても行われているんですね。

http://www.stmaryscathedral.co.uk/standrew.html
http://www.stmaryscathedral.co.uk/
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アマルフィの聖遺物

2009-08-04 | ヨーロッパの歴史
投稿者:鈴木小太郎 投稿日:2009年 8月 4日(火)00時01分5秒

アマルフィの守護聖人は十二使徒の一人のSaint Andrew(聖アンデレ)ですが、ウィキペディアによると、

http://en.wikipedia.org/wiki/Saint_Andrew

The purported relics of the Apostle Andrew are kept at the Basilica of St Andrew in Patras, Greece; the Duomo di Sant'Andrea, Amalfi, Italy; St Mary's Cathedral, Edinburgh, Scotland; and the Church of St Andrew and St Albert, Warsaw, Poland. There are also numerous smaller reliquaries throughout the world.
St Jerome wrote that the relics of St Andrew were taken from Patras to Constantinople by order of the Roman emperor Constantius II around 357 and deposited in the Church of the Holy Apostles. The head of the saint was given by the Byzantine despot Thomas Palaeologus to Pope Pius II in 1461. It was enshrined in one of the four central piers of St Peter's Basilica in the Vatican.

だそうですね。
ただ、この文章と、少し後に続くアマルフィがらみの文章との関係がいまひとつ分かりません。

In 1208, following the sack of Constantinople those relics of St Andrew which remained in the imperial city were taken to Amalfi, Italy, by Pedro, cardinal of Capua, a native of Amalfi.
The Amalfi cathedral (Duomo), dedicated to St Andrew (as is the town itself), contains a tomb in its crypt that it maintains still contains the rest of the relics of the apostle.
On 8 May 2008 the relic believed to be Andrew's head was returned to Amalfi Cathedral.

いったい、Saint Andrewの遺体の、具体的にどの部分がどのように移転したのか。
リンク先のブログはある程度整合的な説明をしていますが、いまひとつすっきりしないですね。
もちろん、各地に伝わる聖遺物の伝承・伝説を、すべて整合性が取れるように理解する必要があるはずもありませんが。

http://idlespeculations-terryprest.blogspot.com/2006/11/skull-of-saint-andrew.html
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アラブ=シチリア様式?

2009-08-02 | ヨーロッパの歴史
投稿者:鈴木小太郎 投稿日:2009年 8月 2日(日)20時37分27秒

>筆綾丸さん
言われてみれば、確かに六角形ですね。

Metropolitan France has a vaguely hexagonal shape. In French, "L'hexagone" sometimes refers to the European mainland of France aka the "metropole" as opposed to the overseas territories such as Corsica, Martinique or French Guiana.

metropolitanには「(植民地ではなく)本国の」という意味もあるんですね。
Tokyo Metropolitan Universityは、石原慎太郎氏の願望としては「本国大学東京」だったりして。

>ドゥオモのファサード
確かに美しいですね。

http://eritokyo.jp/independent/aoyama-col8301.htm

ウィキペディアには「アラブ=シチリア様式」とありますが、この言葉で検索しても、アマルフィ関係の記事しか出てきません。
少し不思議なので、陣内秀信氏の『イタリア海洋都市の精神』を読んでみます。

http://shop.kodansha.jp/bc2_bc/search_view.jsp?b=2807084
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666の謎

2009-07-31 | ヨーロッパの歴史
投稿者:鈴木小太郎 投稿日:2009年 7月31日(金)18時23分25秒

Hexakosioihexekontahexaphobia (literally, "fear of [the number] six hundred sixty-six") is the fear that originated from the Biblical verse Revelation 13:18 which indicates that the number 666 is the Number of the Beast, linked to Satan or the Anti-Christ.

http://en.wikipedia.org/wiki/Hexakosioihexekontahexaphobia

「666恐怖症」とでも訳すべきでしょうか。
私にとっては、数字よりも"Hexakosioihexekontahexaphobia"という言葉の方がなんだか怖いですね。
数えてみたら29文字もありました。

2007年12月には、米国ルイジアナ州で、ある町の市外局番「666」が変更されたそうな。

A town in the US state of Louisiana is to be allowed to change its telephone prefix so that residents can avoid a number many associate with the Devil.

Mayor Scott Walker said CenturyTel's decision was "divine intervention".
However, he admitted it helped that Louisiana's two senators had also lobbied for the change with the phone company and the state Public Service Commission.

http://news.bbc.co.uk/2/hi/americas/7163767.stm

"divine intervention"は神の関与=ミラクルという意味だと思いますが、ルイジアナ州の二人の上院議員の関与もあった訳ですね。
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Amalfi

2009-07-31 | ヨーロッパの歴史
投稿者:鈴木小太郎 投稿日:2009年 7月31日(金)01時18分21秒

今日は勉強をサボって「アマルフィ」を見に行ってしまいました。
最初からそれほど期待していた訳ではないのですが、東京で平凡に暮らしていた看護婦さん(天海祐希)が、いくら子供を人質にとられたからといって、いきなりテロリストの仲間に入って銃を持って暴れる、という展開は無理がありますね。
それも本隊と離れて一番重要な場所をたった一人で襲撃、というのはあんまりです。
おまけに、そのあんまりな犯罪者・天海祐希に、それまでクールに決めていた外交官の織田裕二が唐突に加担してイタリア警察相手に大立ち回りとなると、どうにもシュールすぎて忍耐の限界を超えます。
ま、それでもローマとアマルフィは美しく、観光地めぐりとしては楽しめました。

http://en.wikipedia.org/wiki/Amalfi

>筆綾丸さん
>獣の数字
英語版の方はすごい分量ですね。

In May 2005, it was reported that scholars at Oxford University using advanced imaging techniques had been able to read previously illegible portions of the earliest known record of the Book of Revelation(a 1,700 year old papyrus), from the Oxyrhynchus site, Papyrus 115 or P115, dating one century after Irenaeus. The fragment gives the Number of the Beast as 616 (chi, iota, stigma), rather than the majority text 666 (chi, xi, stigma). The other early witness Codex Ephraemi Rescriptus (C) has it written in full: hexakosiai deka hex (lit. six hundred sixteen).

正直、どっちでもいいんじゃないの、という感じもするのですが、論争に参加している学者は気合が入ってますね。

http://en.wikipedia.org/wiki/Number_of_the_Beast
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ヴァザーリ『芸術家列伝』

2009-07-28 | ヨーロッパの歴史
投稿者:鈴木小太郎 投稿日:2009年 7月28日(火)00時41分12秒

ジォット研究の出発点となるのは、何といってもヴァザーリ『芸術家列伝』ですね。
その雰囲気を味わうために、佐々木英也氏の訳文を少し引用してみます。
(ヴァザーリ『芸術家列伝』研究-38-フィレンツェの画家,彫刻家,建築家ジォット」、雑誌『心』1979.06)

------------
 画家たちは自然から恩恵を受けている。自然の最良最美の部分から良きものを引き出して模写模倣に努力している画家たちに対し、つねづね自然は手本の用を勤めてくれるためであるが、私の信ずるところ、これと同じ恩恵を彼らはフィレンツェの画家ジォットからも受けている。なぜなら、戦争による災禍のもと、優れた絵画を描くための方法やそれらの絵の様相が長年にわたって人目に触れずに居った時代に、彼ひとりが、いまだ無能なる芸術家たちの間に生まれ乍ら、その天与の才によって道を踏外していた芸術を甦えらせ、良好と呼び得る状態にまでこれを引き戻す役割を果たしたからである。あの粗野にして無能な時代にジォットがあれほど制作の諸般に通暁し、彼の手によって当時の人々がほとんど、いや全くもって認識していなかった造形(ディセーニョ)の理法が完全に息を吹き返したとは、まことに大いなる奇蹟としか呼びようがない。かくも偉大なこの人物の出生を問えば、彼はフィレンツェから十四哩の周辺の周辺の地にある田舎の村ヴェスピニャーノで、一二七六年に生を享けた。父はボンドーネという質朴な農夫で、この息子を儲けるとジォットと名付け、境遇が許すかぎり躾よく育てた。
 ジォットは十歳になると、やることなすこと未だ子供らしい中にも、驚くべき利発さ、才気煥発ぶりを示して、父親ばかりでなくこの子を知る村の内外のすべての人々に可愛がられたものだったが、父のいいつけで羊の番をさせられると、羊に草を食ませるためにあちこち牧草地を経めぐりながら、ディセーニョの芸術への天成の好みに促されて、平らな石や砂の上に、目に映った自然の事物あるいは胸に泛んだ空想を、絶えず描いているのであった。さてある日のこと、チマブーエが所用のためにフィレンツェからヴェスピニャーノにやって来て、ジォットの姿を目に留めた。羊が草を食べている間、少し尖きのとがった石でもって平らなすべすべした石の上に自然以外の何ものからも学ぶことなく、一匹の羊の写生をしていたのである。チマブーエは驚嘆して立ち止り、一緒に自分のところへ行ってみないかね、と訊ねると、父ちゃんがウンというならついて行きたいな、と少年は答えた。そこでチマブーエはボンドーネにその旨を頼みこむと、父親は心優しく承諾し、息子がフィレンツェに連れていってもらえることを喜んだ。こうしてフィレンツェにやって来ると、己が天稟に助けられまたチマブーエの教導よろしきを得て、少年はたちまち師の手法様式に匹敵するところまで上達し、そればかりか、きわめて優れた自然の模倣者となってかのぶざまなギリシャ様式を完全に放逐し、実在の人間を巧みにそのまま写し出すという二〇〇年以上も前から廃れていた画法を導入することによって、近代的な良き絵画をつくる技術を再興させた。この実物写生の方法は、前述のように誰かがすでに試みていたとしても、首尾よい結果を生んではいなかったし、成功してもジォットほどにゆかなかったものである。(後略)
---------

>筆綾丸さん
>Goddio
私は何となくGiottoのアナグラムみたいな名前だな、と思いました。
ご紹介のウィキペディアの解説にWilliam Blakeの作品が載っていますが、不思議な絵ですね。

http://it.wikipedia.org/wiki/William_Blake
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