学問空間

「『増鏡』を読む会」、第9回は2月22日(土)、テーマは「上西門院とその周辺」です。

DIA CHRSTOU O GOISTAIS

2009-07-23 | ヨーロッパの歴史
投稿者:鈴木小太郎 投稿日:2009年 7月23日(木)18時29分5秒

>筆綾丸さん
これですね。

http://www.msnbc.msn.com/id/26972493/

Goddio said, "It is very probable that in Alexandria they were aware of the existence of Jesus" and of his associated legendary miracles, such as transforming water into wine, multiplying loaves of bread, conducting miraculous health cures, and the story of the resurrection itself.

まあ、確かに磔の三日後の復活は、魔術といえば魔術ですね。
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連休中

2009-07-22 | ヨーロッパの歴史
投稿者:鈴木小太郎 投稿日:2009年 7月22日(水)01時04分53秒

少し風邪気味で、おとなしくしていました。
投稿をさぼってすみませぬ。

>如月さん
以前は18世紀のフランス思想史と新古今集の研究を並行してやっている如月さんを化け物のような人だと思っていましたが、最近は如月さんのような姿勢が当たり前なんだなあ、如月さんは意外にも普通のことを普通にやっている常識人だったのだなあ、と感じています。
私も日本の中世文学以外の拠点が欲しいので、ここ二三年、地味にヨーロッパ史の基礎を固めてから、どこかに橋頭堡を確保したいものだ、などと思って、とりあえず絵画と建築のあたりを物色中です。

>筆綾丸さん
>ダンテ
Giottoとほぼ同時代人なんですね。

Giottoは赤も独特ですね。
ネットで見ると、私が持っている画集の色とは少し違うのですが。
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Giotto Blue

2009-07-15 | ヨーロッパの歴史
投稿者:鈴木小太郎 投稿日:2009年 7月15日(水)08時57分10秒

一年前から通っている某学校で、今学期は美術史のクラスが定員不足のため開講が危ぶまれていたところ、少し運動して開講してもらえることになりました。
自分の学習計画の危機だったので、助かりました。
↓はそのクラスの講師が推薦するハンガリーのサイトですが、充実しています。

Web Gallery of Art
http://www.wga.hu/index.html

参考資料としてGiottoの画集を購入し、毎日眺めていますが、実にいいですね。

http://en.wikipedia.org/wiki/Giotto_di_Bondone

>筆綾丸さん
いえいえ、今となっては仲間内の笑い話です。

>亀井氏
津和野の殿様ですね。
菩提寺の永明寺には鴎外の墓を見に行ったことがありますが、落ち着いた良いお寺さんでした。

http://blowinthewind.net/koji/yomei.htm
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polychromy

2009-07-12 | ヨーロッパの歴史
投稿者:鈴木小太郎 投稿日:2009年 7月12日(日)18時54分11秒

六本木に行ったついでに国立新美術館のルネ・ラリック展を観てきました。
ジュエリーや超高級ガラス工芸品には全く縁のない私ですが、たまには贅沢な雰囲気に触れるのもよいものです。
ただ、宝石と貴金属以外の素材は経年劣化が目立ち、製作された当時の華麗さを思い浮かべるのには若干の想像力を要するものも多かったですね。

http://www.tokyo-np.co.jp/event/lalique/

大聖堂も今はただの白い、または黒ずんだ石の塊ですが、創建時には外観が非常に華やかな色彩で覆われていたものもあったようですね。
Alain Erlande-Brandenburg氏の"Cathedrals and Castles"は文章が平易で、史料も豊富な入門書ですが、その冒頭に次の一文があります。

-------
When cathedrals were bright with paint, colonnettes, gables, pinnacles, and statues were rich in color. Red, blue, and yellow helped the viewer identify the holy figures and decipher the great book of stone. This application of polychromy, devised by the architect to create a synthesis between structure and sculpture, added a dimension to the finished building that has totally disappeared today. The largest medieval drawing in existence, measuring more than thirteen feet in height, provides exceptional evidence for this. Dating from c.1360-5, it represents the central part of the facade of Strasbourg Cathedral.
-------

同書にはこの Strasbourg Cathedral の図面も出ているのですが、聖人像など、確かに非常に色彩豊かだったようです。
ネットで画像を探してみたのですが、なかなか見当たらず、紹介できないのが残念です。
ただ、アメリカのアマゾンの「Look inside」を使うと少し見ることができますね。
何で日本版はだめなのか。

http://www.amazon.com/Cathedrals-Castles-Building-Middle-Ages/dp/0810928124

Cathédrale Notre-Dame de Strasbourg
http://fr.wikipedia.org/wiki/Cath%C3%A9drale_Notre-Dame_de_Strasbourg
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ファースト・インプレッション

2009-07-12 | ヨーロッパの歴史
投稿者:鈴木小太郎 投稿日:2009年 7月12日(日)11時31分51秒

鹿島茂氏はサントリー学芸賞の選考委員なので、『ゴシックとは何か―大聖堂の精神史』に関する一文は書評ではなく、選考理由なんですね。

http://www.suntory.co.jp/sfnd/gakugei/si_reki0046.html

鹿島氏は同書を実に正確に要約されていて感心しますが、特に「ゴシック大聖堂の地下を掘ってゆくとケルト信仰の聖所に行き当たる」との記述は、酒井氏の思い込みを見事に凝縮しています。
私としては、バタイユのような特異な思想家の研究から出発し、文章が非常に感情的・感傷的な酒井氏の歴史研究者としての能力には若干の不安を覚えます。
「森を恐れないシトー会修道院」の役割は本当に酒井氏が言われるようなものだったのか。
「マリア信仰と大聖堂の建立は、じつは民衆の地母神崇拝と森への畏怖をキリスト教的に解釈し直すことで、自分たちの権威を強化しようと考えたカトリック教会と国王が生み出した表象的代理物にほかならなかった」という主張は、カトリックへの洞察を欠いたあまりに軽薄な断定ではないのか。
イエス像は本当に「元気のいい『勝利のキリスト』から、脇腹から血をしたたらせる『苦悩のキリスト』」に変容しているのか。
変容しているとして、その理由は本当に酒井氏の言われるようなものなのか。

酒井氏の基本的発想で一番変なのは、農民的心性の過度の重視ですね。
大聖堂の建設を企画・実行したのは最高レベルの聖職者・富裕な都市商工業者等のパトロン、そして最先端の技術者であった建築家ですが、建築家も急速に社会的地位を上昇させて、特権的階層の仲間になっています。
そのような人々が大聖堂建設の主体であり、農民は基本的には単なる観客ですね。
農民的心性が大聖堂に直接反映することは考えにくいと私は思います。

研究を始めるにあたって、ファースト・インプレッションはもちろん重要ですが、そのインプレッションが本当に正しいものなのかは、常に事実に基づいて検証しなければならないはずです。
酒井氏の議論は、私にはファースト・インプレッションに適合する材料だけを拾い集めて積み上げた、「おどろおどろしさ」と「崇高さ」に満ちたゴシック風建築物のように思われます。
ただし、数百年の歴史を誇る本物の大聖堂と異なり、基礎が弱くて、構造計算もきちんとなされていない建築物ですね。
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ランスの大聖堂

2009-07-11 | ヨーロッパの歴史
投稿者:鈴木小太郎 投稿日:2009年 7月11日(土)12時39分19秒

>筆綾丸さん
私は酒井健氏が訳したバタイユの『ランスの大聖堂』(ちくま学芸文庫)を購入し、少し読んでみました。
冒頭にバタイユが21歳のときの処女作で、カトリック信仰時代の唯一の作品とされている「ランスのノートル・ダム大聖堂」が載っていますが、これは非常に良いですね。

--------------
 私もまた、この古い都に住んでいたときに、このような天国の夢のごとき美しい光景を目にしたものだった。当時、新市街の通りは喧騒で満ちていた。喧騒と華やかな光が溢れていたのだ──しかしいつも大聖堂がいてくれた、いつも大聖堂が勝ち誇る石のなかで息づいていた。大聖堂の左右の鐘塔は百合の束のようになって大空に向けまっすぐに伸び、また愛想のよい民衆のイメージが入口(ポーチ)に飾られた一群の聖人たちの表情のなかに忍び入っていた。この聖人たちの彫刻は、聖衣をまとって永遠の身振りを誇り、他方でかつて石がここまで微笑んだことがあろうかと思えるほどに嬉々とした表情を浮かべていた。そして、大きな冠をかぶった中央扉口の聖母マリア像は、王のようでありまた母親のようでもあったので、群れなす信者たちはみな子供や兄弟のごとくに楽しげにならないわけにはいかなかった。要するに大聖堂の石のすべてが母性的で神的な善意に包まれていたのだ。
 そして今私はこう考えている。生きてゆくためにはこのような光が輝いているのを見たということが必要なのだ、と。我々の間にはあまりに多くの苦痛と暗闇がある。我々の間ではすべてのことが死の影のなかで大きくなってゆく。自分の声と希望で満ちていたジャンヌ・ダルクも投獄され火あぶりにされてしまった。我々自身も涙の日々を経験することになるだろうし、そもそも我々の死の日は前々から我々のことを盗人のように窺っている。それ故我々は慰めに飢えた者になっている。たしかに神の光は我々すべてのために輝いているのだが、我々は、冷たい部屋の埃に似た、十一月の霧に似た毎日の不幸のなかをさまよっている。ところである日、私はみすぼらしくこの不幸を嘆いていたときに、友人から「ランスの大聖堂を忘れるな」と言われ、すぐさま大聖堂を思い出したのだったが、そのとき追憶のなかの大聖堂はあまりに崇高であったため、私は、自分自身の外へ、永遠の新しい光のなかへ、投げ出されたような気がしたのだった。このとき私は、たとえ廃墟になっても大聖堂は我々のなかで、死にゆく者のための母親として在り続けるだろうと思ったのである。(後略)

http://en.wikipedia.org/wiki/Notre-Dame_de_Reims
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「犠牲」の混乱

2009-07-08 | ヨーロッパの歴史
投稿者:鈴木小太郎 投稿日:2009年 7月 8日(水)18時48分51秒

酒井健氏の『ゴシックとは何か』に戻ると、「ケルト人のカルヌート族の聖所であったシャルトル(Chartres の名は Carnutes に由来)の大聖堂の敷地には、大地母神へ通じる深い井戸が掘られていて、犠牲が次々に投じられていたという。」との文章は、かなり変ですね。
シャルトルに深い井戸があったとしても、ケルト人が自らの宗教儀礼としてそこに「犠牲」を次々に投じたのではなく、反キリスト教のローマ総督がキリスト教徒を虐殺して井戸に投げ込み、後になってからキリスト教徒が殺された人々を弾圧の「犠牲」になった殉教者として祭っただけですね。
だいたい、狭い井戸に死体をどんどこ投げ込めば井戸として機能しなくなるのは明らかで、井戸の機能を必要としない人がそんなことをするわけです。
柳宗玄・遠藤紀勝著『幻のケルト人』は未読なので、泉の周辺で犠牲を捧げる儀礼があったのか、その場合、犠牲をささげる場所と泉の距離はどの程度離れているものなのかはまだ確認していませんが、少なくともそれで貴重な泉の機能が失われるようなことはないはずですね。
シャルトルの深い井戸とケルトの森の泉の話を結びつけるのは、イメージ操作としては効果がありますが、論理的とはいいがたいですね。
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Potentian and Modesta

2009-07-05 | ヨーロッパの歴史
投稿者:鈴木小太郎 投稿日:2009年 7月 5日(日)23時06分18秒

ピッツバーグ大学のサイトにシャルトル大聖堂の写真集があり、その充実ぶりはちょっとした驚異です。
そこに聖女モデスタ像も出ていますね。

---------
Potentian and Modesta
Potentian (haloed, bearded, dressed as a bishop) was a disciple of Peter who, with his comrade Savinian, were sent to convert Gaul to Christianity.
Modesta was the daughter of the Roman governor, Quirinus. She was converted to Christianity, and begged her father to spare the life of Potentian when he was tried by her father. She was martyred, and her body was thrown down the sacred well in the crypt at Chartres.
Kidson argues on stylistic grounds that these two statues were "among the latest and most accomplished of all the large-scale statues at Chartres." (Kidson, Chartres, p. 54)
The story of Savinian, Potentian and Modesta is also shown in a window in the choir
(Deremble-Manhes no. 17, Delaporte window no. 43)

University of Pittsburgh photo collection
http://images.library.pitt.edu/cgi-bin/i/image/image-idx?c=chartres&page=index

http://images.library.pitt.edu/cgi-bin/i/image/image-idx?sid=17adf1b76abab45db01d2f22877a4694;q1=modesta;rgn1=chartres_all;size=20;c=chartres;lasttype=boolean;view=entry;lastview=thumbnail;subview=detail;cc=chartres;entryid=x-fcsp22938100;viewid=FCSP22938100.TIF;start=1;resnum=3
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サン・フォールの井戸

2009-07-05 | ヨーロッパの歴史
投稿者:鈴木小太郎 投稿日:2009年 7月 5日(日)22時47分36秒

馬杉宗夫氏の『シャルトル大聖堂―ゴシック美術への誘い』(八坂書房,2000年)から、少し引用してみます。(p57以下)

---------------
ジュリアス・シーザーの『ガリア戦記』(前52-前51頃)の中に、「一年間のある時期にガリア(今日のフランス)の中心地と思われているカルヌーテース(carnutes)族の領地の神聖な場所に会合する。争いのあるものは、すべて各地からここに集まって僧侶の裁決を待つ」(近山金次訳)と記されているが、シャルトルの地名は、このカルヌーテースからきているのである。そして、会合に選ばれたこのカルヌーテース族の神聖なる場所こそ、今日大聖堂が建つ所なのである。(中略)

シャルトル大聖堂は、「フランスのアクロポリス」と呼ばれたように、あくまで平らなボース平原の一番高い丘の上に建ち、そこには地下の泉があったのである。(中略)

今日大聖堂が建つ小高い地、そこがキリスト教化される以前のガリア人たちの巡礼の地であった。大聖堂はその上に建てられたにすぎない。そこには、地下の泉があった。人々は自然の恵みを得るため、地下の泉に遠隔の地からやって来た。(中略)

大聖堂外陣南側入口からクリプト(地下聖堂)に入れば、そこは別世界である。シャルトルの古い歴史は、地下に埋没しながらなお生き続けている。冷たい石肌をした大きな石組の一つ一つに、歴史の重みが伝わってくる。霊気がただようような薄暗い空間を右手に進むと、アーチに囲まれた井戸が見えてくる。それが「サン・フォールの井戸」と呼ばれ、ガリア人によって崇拝された泉である。かつて人びとは、この地下の泉に、病気の治癒を求めてやってきた。十七世紀、泉に対する一般の崇拝を嫌った聖職者が、この井戸を埋め立ててしまったが、一九〇一年に再び発見された。四世紀に遡るこの井戸は、地面から三十三メートルにもわたる深さの中に、深い謎を秘めている。
 伝説によれば、シャルトル地方のローマ総督クイリヌスは、最初の教会堂を破壊させたうえ、多くのキリスト教徒を殺し、自分の娘聖女モデスタを含めて、洞窟の近くにあった井戸の中にその屍を投げ込んでしまった。そして、それ以降、この井戸は「聖なる勇者たち(サン・フォール)の井戸」と呼ばれたという。この物語を裏付けるように、北袖廊扉口に立つ聖女モデスタの台座の上には、「サン・フォールの井戸」が表現されているのである。
---------------

>筆綾丸さん
>聖骸布
その記事をエキサイト翻訳でイタリア語から日本語に翻訳したらわけが分からず、次いで英語に翻訳してみて一応理解しましたが、それでも肝心な聖骸布の描き方はわからないですね。

http://www.excite.co.jp/world/italian/
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Archangel Saint Michael

2009-07-03 | ヨーロッパの歴史
投稿者:鈴木小太郎 投稿日:2009年 7月 3日(金)01時51分30秒

リンク先がなくなってしまうと困るので、念のため保存しておきます。

※写真
http://6925.teacup.com/kabura/bbs/5055

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What's Michael?

2009-07-02 | ヨーロッパの歴史
投稿者:鈴木小太郎 投稿日:2009年 7月 2日(木)18時33分22秒

最近亡くなった歌手の名前は大天使マイケル(ミカエル)に由来しますが、リンク先の絵はザフラというスペインの町に残されたマイケル像です。
レコンキスタの最前線で、イスラム教徒と戦ったマイケルですね。
この絵に描かれた怪物たちは、サルバドール・ダリにも影響を与えたそうです。

http://3.bp.blogspot.com/_vey-ZOy4yx8/SXcBfgcLo0I/AAAAAAAAAvs/jXMyLVJxIIE/s1600-h/SanMiguelMaestroZafra.jpg
http://elojoenlamano.blogspot.com/2009_01_01_archive.html

大天使マイケル
http://en.wikipedia.org/wiki/Michael_(archangel)

ミケランジェロは「Michel angelo」ですから、天使そのものですね。

http://en.wikipedia.org/wiki/Michelangelo

>筆綾丸さん
シャルトル大聖堂はケルトの聖地の上に建っているようです。
馬杉宗夫氏の『シャルトル大聖堂―ゴシック美術への誘い』に若干の言及がありましたので、後で少し引用したいと思います。
「うますぎ」さんというのは、ちょっと珍しい名字ですね。

>Akiさん
お久しぶりです。

>本性坊
妙にリアルですが、『笠置寺絵縁起』に基づいているようですね。

http://www.kasagidera.com/rekishi/r9.html
http://www.kasagidera.com/
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シャルトル佐助

2009-06-30 | ヨーロッパの歴史
投稿者:鈴木小太郎 投稿日:2009年 6月30日(火)18時54分35秒

>筆綾丸さん
>酒井氏の文体
思い入れが強すぎて、確かに少し鬱陶しいです。
パリのノートルダム大聖堂には、Pillar of the Boatmen以外に何かケルトの遺跡でもあるんでしょうか。
特にそんなものがないとしたら、酒井氏の見解は空中楼閣となりますね。
また、シャルトル大聖堂に関する「ケルト人のカルヌート族の聖所であったシャルトル(Chartres の名は Carnutes に由来)の大聖堂の敷地には、大地母神へ通じる深い井戸が掘られていて、犠牲が次々に投じられていたという」という記述も、若干疑わしい感じがします。
ネットでは次のブログが参考になりますが、少し詳しく調べたいですね。

http://library666.seesaa.net/article/38066856.html

>ちょっと情けない名ですね。
愛知県には足助(あすけ)という町がありましたね。
今は豊田市に合併されてしまったようですが。

http://www.mirai.ne.jp/~asuke/
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Pillar of the Boatmen

2009-06-28 | ヨーロッパの歴史
投稿者:鈴木小太郎 投稿日:2009年 6月28日(日)16時28分23秒

>筆綾丸さん
酒井健氏の『ゴシックとは何か』には以下のような記述があります。(ちくま学芸文庫版、p61以下)

-----------
 それにしても、犠牲(いけにえ)としてのイエスは、何に捧げられたのだろうか。「我らの女主人(ノートル・ダム)」に献じられた聖所(ゴシックの大聖堂)のなかでイエスの供儀はおこなわれたのだ。ということは、イエスは、「我らの女主人」に、聖母に、いや聖母の姿をした大地母神に、自然に、捧げられたということではないだろうか。
 パリの大聖堂の地下からはケルト神話の大神で大地の神エスス=ケルヌノスの石像が発掘されたが、この神は人間の犠牲を欲し、しかも人間が樹に吊るされて供されるのを望んだという。他方、古代ローマの詩人ルカヌス描くところのケルト人の神聖な森はこうだ。「太陽はまったく差し込まず、豊富な水が薄暗い泉から湧き出ていた。〔中略〕野蛮な神々の礼拝はここで行われ、神々をまつる祭壇にはいまわしい犠牲(いけにえ)が積み上げられ、あらゆる木々には人間の血が注がれていた」(柳宗玄・遠藤紀勝著『幻のケルト人』より)。
 また、ケルト人のカルヌート族の聖所であったシャルトル(Chartres の名は Carnutes に由来)の大聖堂の敷地には、大地母神へ通じる深い井戸が掘られていて、犠牲が次々に投じられていたという。そしてまた、ゲルマンの神話世界では、男性神のように旅や戦(いくさ)で移動しない大地母神こそ人間の犠牲が供される対象になっていた。
 とすれば、石柱の林立するゴシックの大聖堂に集った新都市住民たちは、十字架上のイエスの処刑に、森林のなかの供儀を感じていたのではなかろうか。「苦悩のキリスト」に自分たちを重ね合わせて、この"母の子”とともに母のなかへ束の間還ってゆこうとしたのではないだろうか。生みまた滅ぼす自然のサイクルに一瞬乗って、都市に出て失った根を、喪失した深いアイデンティティを、回復しようとしたのではなかったか。
-----------

この「エスス=ケルヌノスの石像」というのは、紀元1世紀に建てられた「Pillar of the Boatmen」の一部のようです。
ただ、ウィキペディアによると、

The main dedication is to Jupiter, alongside Mercury, Mars, Fortuna, Castor and Pollux and Vulcan. Gaulish deities mentioned are Esus, Tarvos Trigaranos (the Bull with the three Cranes), Smertios and Cernunnos.

ということで、この石柱に描かれた神々はギリシャ・ローマとケルトのごちゃ混ぜであり、エスス、ケルヌノスはケルト側の四つの神のうちの二つですね。
また、

Original Location
The Gaulish town of Lutetia was built on the Île de la Cité, an island in the middle of the Seine; a good defensive position and well suited to controlling trade along the river (Carbonnières pp.13–15, 35-40). It is mentioned by Julius Caesar in the Gallic Wars. The Gallo-Roman town extended onto the south bank of the river, but the island remained the heart of the city and it was here that the forum and several temples were built. The pillar was erected outside one of these temples.

History of the Pillar
Some time in the third century, the stone blocks that formed the pillar were broken into two and used to reinforce the foundations of the walls along the riverbank. Over time, the island grew slightly so that the third-century wharfs are nw a dozen metres from the banks of the modern river (Kruta 1883).The Christian cathedral of St. Etienne was founded by Childebert in 528 on the site of the Gallo-Roman temple; Notre-Dame de Paris was in turn built over this in 1163.

ということで、もともとローマ帝国の時代に、ある寺院の外側に立てられていた石柱が、いつしか単なる石材として壁の基礎に用いられ、それがノートルダム大聖堂に転用されただけですから、「パリの大聖堂の地下からはケルト神話の大神で大地の神エスス=ケルヌノスの石像が発掘された」というのは、学者の文章としては、あまりに慎重を欠く表現のように思います。

http://en.wikipedia.org/wiki/Pillar_of_the_Boatmen
http://fr.wikipedia.org/wiki/Pilier_des_Nautes
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森の怖さ

2009-06-25 | ヨーロッパの歴史
投稿者:鈴木小太郎 投稿日:2009年 6月25日(木)19時28分47秒

>筆綾丸さん
今日はまた浮気して、酒井健氏の『ゴシックとは何か-大聖堂の精神史』を読んでいます。
聖遺物の怖さは森の怖さにつながるのかなあ、などと思いつつ。

以下は鹿島茂氏による同書への批評です。

--------------
マリア信仰と大聖堂の建立は、じつは民衆の地母神崇拝と森への畏怖をキリスト教的に解釈し直すことで、自分たちの権威を強化しようと考えたカトリック教会と国王が生み出した表象的代理物にほかならなかったからである。ゴシック大聖堂の地下を掘ってゆくとケルト信仰の聖所に行き当たるし、聖堂の内部は、失われた聖なる森のイメージで作られていて、異教徒だった農民の信仰心を呼び起こすのに役立ったのである。

http://www.suntory.co.jp/sfnd/gakugei/si_reki0046.html
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シュライン

2009-06-24 | ヨーロッパの歴史
投稿者:鈴木小太郎 投稿日:2009年 6月24日(水)09時03分23秒

>筆綾丸さん
>『伊勢神宮―魅惑の日本建築』
神宮は「shrine」と訳されることが多いですが、華麗な家型聖遺物容器もシュラインなんですね。
死穢を忌避する空間と死が満載された空間が同じ言葉で表現されているのも、少し妙な感じです。

「三王のシュライン」
http://www.nttdata-getronics.co.jp/profile/spazio/spazio67/akiyama/main.htm
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