学問空間

「『増鏡』を読む会」、第9回は2月22日(土)、テーマは「上西門院とその周辺」です。

間違い探し

2008-02-27 | 勝軍地蔵と良助法親王
投稿者:鈴木小太郎 投稿日:2008年 2月27日(水)00時11分58秒

愛宕山の勝軍地蔵とむらじさんに導かれて、黒田智氏の『中世肖像の文化史』p356に戻り、少し多めに引用してみます。

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二、勝軍地蔵の化身としての鎌足
1.甲冑の異人─良助法親王
 「日輪御影」は、多武峯冬野とのきわめて密接な関係を推測させる絵図である。冬野についてさらに詳しく調べてみると、『多武峯略記』静胤本の注記に行き当たる。すなわち、「冬野寺」に付された「亀山天皇皇子良助法親王、破戒の後、冬野に居し、自ら憂婆塞と称す」なる割り注である。
 良助法親王。その生涯は謎に包まれている。
 『皇胤紹運録』や『諸門跡譜』によれば、良助法親王は、亀山天皇皇子で天台座主、青蓮院門跡の地位にあった。後年、多武峯清浄院に移り住み、還俗して冬野の四軒茶屋に隠棲して、もっぱら著述にふけった。文保元年(一三一七)八月一八日に多武峯で死去したという。
 ところが、『華頂要略』門主伝や『与願金剛地蔵菩薩秘記』所収の『良助座主私記』なる記録では、まったく異なる事実が収載されている。
 奇妙なことに、良助法親王は亀山天皇皇子でありながら、鎌倉幕府六代将軍宗尊親王の猶子であり、太政大臣西園寺実兼の養子であったという。後年、良助法親王の述作に使用された典籍類の多くは、西園寺実兼が孫の竹園院禅師のために購入し、禅師早世後に養子であった良助法親王に譲与したものといわれる。
 そして良助法親王は、天台座主の地位にあった嘉元元年(一三〇三年)、富士山清見関遊覧中の遠江国江内を発する際に、義父であった宗尊親王謀反連座の嫌疑によって鎌倉幕府に捕らえられた。叡山へは遠江での頓死をよそおって人知れず還俗し、世をはばかり大和多武峯に隠棲したという。良助法親王は、そののち六十年余の余命をたもち、その間多武峯冬野の地にあって多くの著述を書き残した。延文年間(一三五六~六一)に死去したといわれ、遺骸は冬野に埋葬されたという。
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さて、ここで問題です。
以上の記述には、歴史的事実としては明白な誤りがいくつかあります。
いったいどの部分でしょうか。また、何箇所あるでしょうか。
なお、黒田氏ももちろん気づいています。念のため。

参考:勝軍地蔵
http://www15.plala.or.jp/timebox/top/07sinsi/fukuda/inosisi/inosisi-3.html


>亜季多さん
サンキュです。
宝篋印塔も中国ではやってから日本で流行するまで、タイムラグがありますね。
猫ひぢりさんの研究も、上川通夫氏の問題意識に関連づけて考えてみると、また面白そうですね。

>筆綾丸さん
>珍宮
いいですね~。

>NAO4@吟遊詩人さん
春近についての私が書いたことは不正確でしたので、まず井原今朝男氏が書かれた『日本史大事典』(平凡社)の「春近領」を見て、その参考文献を当たってください。
コメント
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