学問空間

「『増鏡』を読む会」、第9回は2月22日(土)、テーマは「上西門院とその周辺」です。

亀甲萬の城下町

2008-02-29 | その他
投稿者:鈴木小太郎 投稿日:2008年 2月29日(金)00時58分6秒

>如月さん
お久しぶりです。
如月さんが来られると、何だか格調が高くなったような感じがして、嬉しいですね。

>NAO4@吟遊詩人さん
いえいえ。
私はちゃんと理解してませんので。
愛宕の話も、何がなんだかわかりませんでした。
この掲示板のすべての投稿を理解するのは、まず無理だと思いますね。
早めにあきらめて、自分の得意な話題だけ参加するのが長続きのコツだと思います。
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間違いさがし・解答編

2008-02-29 | 勝軍地蔵と良助法親王
投稿者:鈴木小太郎 投稿日:2008年 2月29日(金)00時39分30秒    

明白な誤りがいくつかありますと書きましたが、よく考えたら「明白」といえるのは筆綾丸さんが指摘された一箇所だけみたいですね。
出題者が間違っていたようです。

>筆綾丸さん
そうですね。
宗尊親王は文永三年(1266)に鎌倉を追放されて、文永十一年(1274)には没しているので、約三十年後の嘉元年間に謀反を起こすのは無理ですね。
訳が分からない話です。

>むらじさん
>延文年間(1256~61)で六十余才というのはちょっと計算が合いませんね。
伝承では、多武峯に隠棲後、60年以上年を重ねて90代まで長生きしたのだそうです。

>「良助親王御自筆記」
うーむ。
これは下で紹介する「良助私記」と同じものなんですかね。
後で調べてみます。


思わせぶりな書き方をしておいて恐縮ですが、良助法親王の話には特に結論めいたものはなくて、いろいろ紹介した後で、なんだかよく分かりませんでした、で終わる予定です。
今日は首藤善樹氏「勝軍地蔵信仰の成立と展開」(『龍谷大学大学院紀要』一、1979)から、また少し長めに引用してみます。

※「乙」というのは、『蓮華三昧経』に甲系統・乙系統の写本があるうちの「乙」本ということです。また、「良助私記」については、首藤氏は原文に返り点をつけて引用されていますが、掲示板での読みやすさを考えて、私が適宜読み下してみました。

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 そもそも『与願金剛地蔵菩薩秘記』は『蓮華三昧経』(乙)を主材料として著されたものであり、『蓮華三昧経』(乙)の伝来を次のように記している。[中略・・・・弘法大師・伝教大師・慈覚大師・智証大師も授けられることがなかった云々・・・]それが日本に渡ったのは、前太政大臣西園寺入道(公経)が孫の竹園院禅師のために、三千五百両の金をもって、清涼山大聖竹林寺より求めたものだとする。そして竹園院禅師が「予」に譲ったのである。この「予」は、「予が養父西園寺入道」あるいは「予五十余年之昔、■(なまじひに)居天台座主職」とも記されており、西園寺公経の猶子天台座主某が『蓮華三昧経』(乙)の付属を受け、すなわち『与願金剛地蔵菩薩秘記』を撰したことになる。おそらくは仮託であろうが、本文中に記されるところである。
 また、『与願金剛地蔵菩薩秘記』には、巻尾に奇怪な「良助私記」が添えられている。

良助座主の私記に云く、吾昔天台座主位に居し、富士山清見が関遊覧の為に、遠州江内本領たるを以て発向の処、関東より武官来て云く、余を養父宗尊親王謀叛の跡と称し、愚老を執て妄に外浜に遷さんと欲す、青蓮院の宮、天台の座主流さるること其の例無きことを悲歎して、座主遠州に於て頓死するの旨を以て、山門に披露し玉へり、愚老入滅せること今既に六十年に及へりと、華洛皆焉を思へり、然りと雖も百年の余命猶存するに及て、深く其の名を隠して、左遷の昔の還俗の姿を改めずして、世間に流落す、談峰(たふのみね)の衆徒我を憐て、終焉の雲を待つのみ、茲に於て困誠に地蔵薩埵信ずるの人あり。蓮華三昧経の秘密を願ふ、凡そ秘法伝授の時、印信血脈を伝ふれば、其の名を載するに憚り有りと雖も、本名を載て今之を録す、正安の古、天台座主三品親王良助<亀山院第三皇子成就院>宗尊親王猶子、記録して以て地蔵尊擁護禅門安富道行に伝ふ、愚老齢九旬に及び、老朦尤も甚し、筆の誤り多かるべし、ゆめゆめ外見に及ぶこと莫れ。
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