学問空間

「『増鏡』を読む会」、第9回は2月22日(土)、テーマは「上西門院とその周辺」です。

「家族改宗」

2012-06-21 | 網野善彦の父とその周辺
投稿者:鈴木小太郎 投稿日:2012年 6月21日(木)09時34分18秒

>筆綾丸さん
今、ちょっと時間がないので後でまとめて書きますが、墓誌にいう「家族改宗」とはキリスト教への改宗なんですね。
以下、八田政季氏「水底の翳」よりの引用です。

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 祖父徳兵衛(1857~1937)は、下神内川村における「豪農」であった。山梨県においては、幕末・明治以降の養蚕業、製糸業の発展に呼応して地主制が一挙に拡大した。農民の8割が自・小作農または小作農民であり、小作地率は全国最上位 に近かった。中澤家は自作地ももつ中堅地主(所有農地約4.5ヘクタール)であった。染色業、運送業等も営み、地域の人望が厚かった。
 1877年、南巨摩都南部村にあった近藤喜則設立の「蒙軒学舎」にカナダ・メソジスト教会のC.S.イービーが招かれ、翌年には甲府に入った。81年までの布教活動のなかで山中笑、平岩宣保、結城無二三等の有能な牧師、伝道師が育てられ県内各地に「受洗」者が増えていった。
 徳兵衛は、結城が日下部村八日市場或いは八幡村に開いた聖書講義所に出席し、八幡村の飯島信明とともに山中笑によって受洗している。1889年、32歳である。土塚村(現一宮町)の古屋いちとは、その数年前に結婚していたと思われる。

1889年というと明治22年ですので、墓地移転の相当前ですね。

※筆綾丸さんの下記投稿へのレスです。

未来成仏うたがひなき恋の手本となりにけり 2012/06/21(木) 04:24:47
小太郎さん
中澤家の墓誌を素直に読むと、「先代の徳兵衛」(明治3年没)の遺骸は等々力萬福寺に残したままで、その妻「きん子」(明治39年没)の遺骸は西称院に別に葬った、ということになり、そうすると、明治3年と明治39年の間に断絶があって、浄土真宗から浄土宗への改宗(?)にゴタゴタがあったような感じがしますね。
墓石に十字架を刻むことくらい、寛容で好い加減な浄土真宗であれば認めてくれたのではないか。なんで、わざわざ、似たような宗派の浄土宗に改宗しなければならぬのか。徳兵衛さんは、萬福寺の住職とくだらぬ喧嘩をしたのかもしれない。そう邪推して、あらためて墓誌を読んでみると、この文体、やはり、どこか変ですね。これは浄土真宗(萬福寺住職)への捨台詞ではないか。

http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%9B%BD%E6%A0%B9%E5%B4%8E%E5%BF%83%E4%B8%AD
徳兵衛というと、私は、『曽根崎心中』を思い出します。
コメント
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