学問空間

「『増鏡』を読む会」、第9回は2月22日(土)、テーマは「上西門院とその周辺」です。

春祈祷

2012-06-30 | 東北にて
投稿者:鈴木小太郎 投稿日:2012年 6月30日(土)21時49分36秒 編集済

斎藤さん

いらっしゃいませ。

あの方は前副講長さんだったのですか。
調子に乗って無茶苦茶なことを書きまくってしまいました。
自分の投稿を見直したら部分的に手直しすることは不可能みたいなので、後でお詫びの言葉とともに若干の追記をさせていただきます。
春祈祷の様子もブログの方に載せておきます。

波伝谷に最初に伺ったとき、道路脇の焼け焦げた立木がまるで観音像のようだなと思ったのですが、地元でもそんな話があったそうですね。
私は防災庁舎だとか民宿の上に乗った船だとかを記念に残そうという考え方には反対で、津波の記憶は映像・写真などで保存すれば十分だと思っているのですが、あの立木はお寺さんかどこかで保存してもらえたらいいなあと思っています。

※下記投稿へのレスです。

波伝谷の獅子舞について 2012/06/30(土) 11:11:51
偶然にこのサイトを見ました波伝谷の地区民です。鈴木小太郎様が波伝谷の獅子舞について投稿されていたので、補足説明させていただきます。鈴木様がデン助(仮称)とお呼びになった方は、波伝谷契約講の前の副講長さんです。今は役員を退任され普段着での参加でしたのでチャラく見えたかもしれません(笑)。あの方がやっていたのは「囃し方」といって獅子舞をリードする役ですが、獅子と向かい合うため、基本として覚えた足のステップが逆になるため、かなり難しいと聞きます。またご指摘の通り獅子をリードするには独自の才能も必要なためか後継者が育たないのが現状です。当日も前副講長さんが見るに見かねて飛び入り参加したものと思われます。実は後継者として小6の子がいたのですが、今回の津波で犠牲になったのは悼ましい限りです。それと舞のレベルが低いのは仕方がないと思っております。見せる為の伝統芸能と違って、悪魔払いとして約80軒の地区全体を回りますので、あまり手の込んだ舞では無理です。私は舞手ではありませんが一日で80軒はかなりキツイそうです。そうゆう意味では、外部から見に来た方々はもの足りなく感じるのも致し方ないと思っております。今後復興しても波伝谷地区に昔のように80軒も残らないだろうし、本来の獅子舞の形態に戻るのは難しいような気がします。いずれにしても皆様のご支援で道具が準備できて、当日は沢山の方々に来ていただき獅子舞を盛り上げて下さったことに感謝しております。ありがとうございました(^-^)
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柴田町

2012-06-30 | 東北にて
投稿者:鈴木小太郎 投稿日:2012年 6月30日(土)08時30分48秒

>筆綾丸さん
柴田町は私が今住んでいる大河原町の隣なのですが、いつでも行けるからと思っているうちに一年経ってしまって、町内はあまり歩いていませんでした。
船岡城址には行きましたが、震災後、暫く修復工事をやっていて、有名な樅の木には近づけず、未だに未見です。
来られるのだったら、やはり桜の季節が良いですね。
白石川の堤防に「一目千本桜」という桜並木があり、残雪の蔵王を背景に満開の桜の眺めるのは至福の時間です。


それと、原田甲斐の一件ほど有名ではありませんが、「白鳥事件」も興味深いですね。
平川新氏の『伝説の中の神─天皇と異端の近世史』にも詳しく紹介されています。

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明治元年(1868)、その白鳥をめぐって、戊辰の役後、進駐してきた官軍兵士と柴田家中との間で起きた事件は、柴田家の運命を大きく変えた「白鳥事件」 として今もなお人々に語り継がれている。
この事件の発端は、仙台藩降伏後、領内において官軍兵士が信仰の対象である白鳥を捕殺したことに端を発している。
その場に居合わせた柴田家中4名の内の一人が白鳥を守ろうと兵士に向かって発砲。その後この事件は仙台鎮撫使の知るところとなり事件に関与した家中たちは 処刑。事件の責任を取って柴田家14代当主意広も切腹した。
事件後、柴田家臣の多くが、苦悩の選択のなか、現在の北海道伊達市に移住を決定。新天地での新しいあゆみを始めた。

※筆綾丸さんの下記投稿へのレスです。

樅の木は残った 2012/06/30(土) 03:49:13
小太郎さん
http://mytown.asahi.com/gunma/news.php?k_id=10000001206210001
庭山市議の話は知りませんでしたが、群大の某先生と同じような「由紀」という名で、同類のようですね。

拝殿の右の絵は、平泉の衣川館のような感じですね。真中の床几様のものに座すのが義経、左の達磨風の男は弁慶、右は静で、これから自刃するところでしょうか。
「大正三年五月十五日」というと、絵のテーマとは無関係でしょうが、第一次世界大戦勃発の直前ですね。
柴田町は原田甲斐宗輔に関係深い所なんですね。『樅の木は残った』は好きな作品なので、一度は行ってみたいですね。
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鈴木三郎重家と東北

2012-06-30 | 東北にて
投稿者:鈴木小太郎 投稿日:2012年 6月30日(土)06時49分28秒

「鈴木三郎重家」で検索すると、いろいろ出てきますね。
和歌山県海南市藤白に鎮座する藤白神社に関係する「藤白鈴木会」サイトによれば、

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藤白神社に隣接している所に「鈴木屋敷」がある。藤白神社にある鈴木氏の系図によれば、「イザナギノミコト」からはじまって鈴木重吉(故人)氏まで百二十二代続く。いわば全国の鈴木氏の総本家ともいえる鈴木氏の屋敷がここにある。鈴木屋敷は平安期にこの地に作られたといわれており、鎌倉時代には、有名な源義経も幼年のころ度々この鈴木屋敷に訪れたそうだ。その関係で鈴木三郎重家という武将が義経の家臣となり、最後には奥州衣川で討ち死にする。この鈴木三郎重家こそ鈴木氏の誉れであり、全国に散在する鈴木氏の精神的支柱となっている。

とのことですね。
鈴木三郎重家は『義経記』に登場しますが、その内容は「みやぎ観光Navi」サイトで見ることができます。
そして宮城県栗原市金成には重家の館跡と伝えられている大原木舘跡があり、また、南三陸町志津川には「重家の妻小森御前」の墓があるそうです。

秋田県能代市の「富根報徳番楽」に関するサイトにも鈴木三郎重家の説明がありますが、このサイトは全体として非常に充実していますね。

ちなみに鈴木三郎重家には「鈴木小太郎重染」という息子もいたそうで、岩手県江刺市には義経・重家・重染の供養塔がありますね。
これは以前、「鈴木小太郎」で検索していたときに気付きました。

まあ、こちらは供養塔とはいっても、つい最近、観光協会によって建てられたものだそうですが。

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源義経・鈴木三郎重家・鈴木小太郎重染供養塔は義経の家臣だった鈴木三郎重家の子供の重染が建てたと云われる「鈴木山重染寺」の跡地にあります。
文治5(1189)年閏4月30日、源義経は衣川館において藤原泰衡の軍勢により自害したと言われています。家臣の鈴木三郎重家も同所で戦没しました。
その後、建久年間(1190~1198)に鈴木三郎重家の子、鈴木小太郎重染は、父の敵を討つため故郷の紀伊国から陸奥国に入り、この地に到った時、敵の顔に似た人面石を見て覚るところがあり、亡君源義経と亡父鈴木三郎重家のため追福のため一寺を建立して鈴木山重染寺(れいぼくさんちょうぜんじ)と称したと伝えられています。
平成17(2005)年4月30日、大河ドラマ「義経」放映にあわせて江刺市観光物産協会がこの伝承によってここ重染寺跡へ源義経、鈴木三郎重家、鈴木小太郎重染の供養塔を建立したものです。
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「源義経の臣鈴木三郎重家」

2012-06-30 | 東北にて
投稿者:鈴木小太郎 投稿日:2012年 6月30日(土)06時04分8秒

>筆綾丸さん
宮城県神社庁の「県内神社紹介」で「八雲神社」を調べると、宮城県内に全部で34の八雲神社があるそうですが、入間田の八雲神社は次のように紹介されています。

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鎮座地: 宮城県柴田郡柴田町大字入間田字古内24
主祭神: 武速須佐廼男命
例祭日: 新暦4月9-10日(今宵の祭、神幸、浦安の舞奉納)、旧暦6月10日今宵の祭、元旦祭、1月14日ドント
由緒:
入間田に鎮座。八雲神社の旧称号は、祇園宮(除屋敷等控帳、入間田村風土記御用書出)、牛頭天王社(除屋敷等控帳、入間田村風土記御用書出)、祇園牛頭天王(入間田村鎮座祇園社別当大正院歴代家系)。当社の創立は第82代後鳥羽天皇の御代文治5己酉年(1189)陰暦6月10日、源義経の臣鈴木三郎重家の家臣水原平兵衛重氏の勧請するところにして、重家は紀州熊野藤代郡の産なり。源頼朝、藤原氏をして義経を討たしめんと聞き、義経の知遇の厚かりしを知り、弟の亀井六郎重保(シゲヤス)とともに国を出て、山伏の姿となり辛うじて平泉に至りし頃は、文治5年閏陰暦4月28日にして、義経兵力悉くつき、翌日衣川の舘、遂に陥り、義経以下戦死せり。兄弟今はこれまでと、共勇戦して討ち死にす。家臣水原平兵衛重氏、主の遺命令により鈴木氏の氏神祇園牛頭天王のご神体を背負い来たり。現在の地を卜して住民と力を合わせて山岳を切り開き祠を創祀せるなり。慶長13年(1608)聖護院宮興意法親王、諸国御巡行の砌、当社に御参拝の上(社参し)御一泊なされ、その際、寺山号を医王山大泉寺と賜わる。文化年中藩主伊達氏の武運長久を祈願。爾後、毎年正月3日祈祷をなし、御附を献上せり。伊達氏より三貫文田を封じられ社領に充てられた(地頭伊達勝三郎より社領3貫文田寄進)。明治4年(1871)2月8日八雲神社と改められ村社格に加列(列せられる。)。同7年6月郷社に昇格。同40年(1907)3月1日、神饌幣帛料供進神社に指定さるる(社領文書)。宗教法人により昭和21年5月25日届出、同年6月10日承認さるる。
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ご指摘のように、確かに左の色黒の人物は弁慶っぽいですね。とすると、中央はもちろん義経。
問題は右の人物ですが、他の二人より小さく描かれているものの、眼が細く鋭い感じで、男みたいですね。
そして山伏姿です。
義経の前に食卓があり、様々な食べ物が置かれています。
弁慶・義経は横一列に並んでいますが、右の人物は90度ずれて食卓の右側に位置し、左を向いているように描かれていますね。
神社の由来と照らし合わせてみると、どうも右の人物は「源義経の臣鈴木三郎重家」みたいですね。

宮城県神社庁

※筆綾丸さんの下記投稿へのレスです。

樅の木は残った 2012/06/30(土) 03:49:13
小太郎さん
http://mytown.asahi.com/gunma/news.php?k_id=10000001206210001
庭山市議の話は知りませんでしたが、群大の某先生と同じような「由紀」という名で、同類のようですね。

拝殿の右の絵は、平泉の衣川館のような感じですね。真中の床几様のものに座すのが義経、左の達磨風の男は弁慶、右は静で、これから自刃するところでしょうか。
「大正三年五月十五日」というと、絵のテーマとは無関係でしょうが、第一次世界大戦勃発の直前ですね。
柴田町は原田甲斐宗輔に関係深い所なんですね。『樅の木は残った』は好きな作品なので、一度は行ってみたいですね。
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