学問空間

「『増鏡』を読む会」、第9回は2月22日(土)、テーマは「上西門院とその周辺」です。

東京帝大国史学科の「副手」

2014-01-15 | 丸島和洋『戦国大名の「外交」』
投稿者:鈴木小太郎 投稿日:2014年 1月15日(水)09時26分44秒

脱線ついでに『永原慶二の歴史学』を読んで生じた、本当に小さな疑問をひとつ。
「私の中世史研究」の冒頭に、

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私は東大(東京帝国大学)の国史学科(当時の呼称)に入ってから今年(二〇〇一年)で五九年ですが、その前の年、旧制高校の三年生の一九四一年の秋、進学を決めねばならないわけで、その時に文学部の国史学科へ行こうということを決めたわけです。そらから言うとちょうど六〇年。ずいぶん長い年月がたちました。なぜ国史学科を選んだのかということはちょっと何とも説明のしようがないので、コメントはご勘弁をいただきまして、東大に入ったのは一九四二年四月です。戦争のため大学も非常に変則で、その年の十月には繰上げという形で二年生になった。それから一年間は二年生でしたが、四三年の十月に三年生になると、その十二月にいわゆる「学徒出陣」という美名で呼ばれる徴兵になりました。ですから一年半しか大学にいなかったんですね。(中略)
東大の国史学科にはよく言われるように、そのころは平泉澄さんのような皇国史観の先生がいて、助手にその弟子でのちに教科書調査官として強引な検定をやった有名な村尾次郎さんがいました。そのもうひとつ下に副手というポストがありましたが、それも平泉さんの弟子でした。人事は平泉さんが支配していたといえる。実際にはそのほかに三人くらいの専任の先生がいて、その中のお一人が戦後の中心となった坂本太郎さん。助教授でした。先生方の陣営はざっと分ければ実証主義派と皇国史観派であった。私は八〇年代の初めに『皇国史観』(岩波書店、一九八三年)というブックレットを書いたもので、教室全体が皇国史観に支配されているように思われがちですけど、そうでもなくってね。実証主義史学というのはやはり東大国史学科ができた初代の教授である重野安繹・久米邦武・星野恒先生の時代からの基本的な流れです。(後略)
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とありますが、「副手というポスト」も「平泉さんの弟子でした」という箇所、私は平田俊春氏のことだと思って、何で名前を出さないのだろう、名前も出したくないようなトラブルでもあったのだろうか、と妄想を逞しくしたのですが、平田俊春氏の略歴を見たら、昭和15年(1940)に佐賀高等学校教授に転じたそうなので、永原氏とは直接の接点はないみたいですね。
とすると、この時期の「副手」は誰なのか。
ま、記録を調べれば出てくるでしょうけど、ご存知の方がいれば教えてください。

平泉澄氏に気に入られていた平田俊春氏は、世が世なら当然に東京帝大教授として栄華を誇ったのでしょうが、敗戦後、公職追放で佐賀高等学校を免職となり、大阪府立図書館員として暫く食いつないだ後、防衛大学校で地味な研究生活を送られたようですね。
まあ、東京帝大に比べれば防衛大学校は歴史学界の傍流のそのまた傍流、吉野の山奥のような存在でしょうが、御著書も多数あって、それなりに幸せな学者生活だったみたいですね。
私は個人的に平田俊春氏の「舞御覧記」に関する論文に多大な恩恵を受けているので、生前に一度お話を聞きたかったなあと思っています。

平田俊春(ウィキペディア)

平田俊春 『吉野時代の研究』「自序」
平田俊春 「増鏡の成立に関する一考察-舞御覧記との関係について-」
コメント
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