投稿者:鈴木小太郎 投稿日:2017年 6月25日(日)10時37分52秒
結婚つながりで、ちょっと気になったエピソードを『矢内原忠雄 戦争と知識人の使命』から引用してみます。(p139以下)
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雑誌『嘉信』とならぶ、もうひとつの軸が「自由ヶ丘集会」である。矢内原のもっとも身近にいたのが、その会員たちである。会員数は三七年には二〇人あまりで、その後もすこしずつ増加している。
矢内原によれば、自由ヶ丘集会は「家庭集会」であり、「誠実を誓つた同志の集り」である。矢内原はその会員を「養子、養女」、みずからを「父」とみなしている。そのため、会員はたがいに「兄弟姉妹の家庭的関係」にあるとされる。会員の結婚についても矢内原の許可が必要であり、矢内原がしばしば仲介し、世話をしている。
会員の資格としては、かなりきびしい条件が設けられていた。まず、矢内原が「思ふ存分叱り得る」よう、基本的には矢内原よりも一〇歳以上年下の者に限る、とされる。そして、矢内原と生死をともにする覚悟があること、本人の意思だけでなく両親の許諾があることなどが求められた。
警察による監視がつづいていたため、矢内原の発言などが漏れる危険を防ぐために、出席者は外部に対しては秘密を守ることとされた。また、同じ理由から傍聴などは許されなかった。三七年秋には矢内原が講師を務めた聖書講習会の出席者が警察に取り調べを受けていた。そのため、矢内原の集会の会員であることは警察の監視対象になる可能性が高かった。
集会は厳格な秩序のもとでおこなわれた。定刻になると玄関は閉ざされ、一分でも遅れたら入ることができなかった。無届欠席は認められず、やむなく欠席するときには事前に届けを出すこととされた。
集会のプログラムは讃美歌、聖書朗読、祈祷、聖句暗唱、聖書講義といったものであった。司会は矢内原が次週の担当者を指名した。矢内原は聖書講義について次のように書いている。「私の聖書講義は、預言者イザヤが教(おしえ)を弟子の中に「閉ぢこめる」と言つた気概を以て行はれた。私は若い人々の胸を切り開いて、その中に聖言を押しこんで、私亡き後において私の志を受けつがせようと期待したのであつた」。
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矢内原忠雄が筆禍により東京帝国大学を辞職したのは1937年(昭和12)ですから、そういう時代背景を考えると秘密結社並みの厳しい運営が必要だったのも理解できない訳ではありませんが、「会員の結婚についても矢内原の許可が必要」みたいな統制の仕方は、正直、ちょっと気味が悪いですね。
矢内原は若い頃はそれなりにユーモアを解する人だったそうで、長男の伊作が生まれたときには、伊作を抱いて「おはつにおめにかかります。不肖ながら私があなたの父親です。どうかよろしく」と挨拶して周囲の人を笑わせるようなこともあったそうです。(p37)
しかし、
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矢内原は、満洲事変以後の状況に危機感を抱くなかで、みずからの使命を強く意識するようになっている。同時に、次第に矢内原の性格として、その厳格さが目立つようになる。それ以前の矢内原は、生真面目ではあるが、おだやかでユーモラスな人物であった。しかしこのころから、矢内原は信仰上の弟子や家族に対して厳格な態度で接するようになり、家庭の食卓でも私語を許さなくなる。
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そうですね。(p109)
林健太郎だったか、『矢内原忠雄全集』の月報で、戦後、東大教養学部長時代の矢内原が些細なことでブルブル手を震わせながら激怒する姿を描いていて、正直、私などはそれを読んで一種の狂人ではないかと思ったりもしました。
結婚つながりで、ちょっと気になったエピソードを『矢内原忠雄 戦争と知識人の使命』から引用してみます。(p139以下)
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雑誌『嘉信』とならぶ、もうひとつの軸が「自由ヶ丘集会」である。矢内原のもっとも身近にいたのが、その会員たちである。会員数は三七年には二〇人あまりで、その後もすこしずつ増加している。
矢内原によれば、自由ヶ丘集会は「家庭集会」であり、「誠実を誓つた同志の集り」である。矢内原はその会員を「養子、養女」、みずからを「父」とみなしている。そのため、会員はたがいに「兄弟姉妹の家庭的関係」にあるとされる。会員の結婚についても矢内原の許可が必要であり、矢内原がしばしば仲介し、世話をしている。
会員の資格としては、かなりきびしい条件が設けられていた。まず、矢内原が「思ふ存分叱り得る」よう、基本的には矢内原よりも一〇歳以上年下の者に限る、とされる。そして、矢内原と生死をともにする覚悟があること、本人の意思だけでなく両親の許諾があることなどが求められた。
警察による監視がつづいていたため、矢内原の発言などが漏れる危険を防ぐために、出席者は外部に対しては秘密を守ることとされた。また、同じ理由から傍聴などは許されなかった。三七年秋には矢内原が講師を務めた聖書講習会の出席者が警察に取り調べを受けていた。そのため、矢内原の集会の会員であることは警察の監視対象になる可能性が高かった。
集会は厳格な秩序のもとでおこなわれた。定刻になると玄関は閉ざされ、一分でも遅れたら入ることができなかった。無届欠席は認められず、やむなく欠席するときには事前に届けを出すこととされた。
集会のプログラムは讃美歌、聖書朗読、祈祷、聖句暗唱、聖書講義といったものであった。司会は矢内原が次週の担当者を指名した。矢内原は聖書講義について次のように書いている。「私の聖書講義は、預言者イザヤが教(おしえ)を弟子の中に「閉ぢこめる」と言つた気概を以て行はれた。私は若い人々の胸を切り開いて、その中に聖言を押しこんで、私亡き後において私の志を受けつがせようと期待したのであつた」。
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矢内原忠雄が筆禍により東京帝国大学を辞職したのは1937年(昭和12)ですから、そういう時代背景を考えると秘密結社並みの厳しい運営が必要だったのも理解できない訳ではありませんが、「会員の結婚についても矢内原の許可が必要」みたいな統制の仕方は、正直、ちょっと気味が悪いですね。
矢内原は若い頃はそれなりにユーモアを解する人だったそうで、長男の伊作が生まれたときには、伊作を抱いて「おはつにおめにかかります。不肖ながら私があなたの父親です。どうかよろしく」と挨拶して周囲の人を笑わせるようなこともあったそうです。(p37)
しかし、
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矢内原は、満洲事変以後の状況に危機感を抱くなかで、みずからの使命を強く意識するようになっている。同時に、次第に矢内原の性格として、その厳格さが目立つようになる。それ以前の矢内原は、生真面目ではあるが、おだやかでユーモラスな人物であった。しかしこのころから、矢内原は信仰上の弟子や家族に対して厳格な態度で接するようになり、家庭の食卓でも私語を許さなくなる。
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そうですね。(p109)
林健太郎だったか、『矢内原忠雄全集』の月報で、戦後、東大教養学部長時代の矢内原が些細なことでブルブル手を震わせながら激怒する姿を描いていて、正直、私などはそれを読んで一種の狂人ではないかと思ったりもしました。