学問空間

「『増鏡』を読む会」、第9回は2月22日(土)、テーマは「上西門院とその周辺」です。

福田千鶴「江戸幕府の成立と公儀」

2017-07-01 | 渡辺浩『東アジアの王権と思想』
投稿者:鈴木小太郎 投稿日:2017年 7月 1日(土)14時27分31秒

もう十年以上も前になりますが、私は年一回開かれる歴史学研究会大会に何回か通ったことがあって、2001年には『戦国大名と公儀』(校倉書房、2001)という著書を持つ久保健一郎氏(現在は早稲田大学教授)の中世史部会報告を聞いたことがあります。


戦国時代に疎い私は、そのとき初めて「公儀」という史料用語を知り、同時に「公儀」にはなかなか難しい問題があることを知ったのですが、その後、特に「公儀」について調べることもなく今に至っています。
従って以下に引用する福田千鶴氏(九州産業大学教授、1961生)の論文「江戸幕府の成立と公儀」(『岩波講座日本歴史第10巻 近世1』、2014)についても格別な意見はなく、単に興味を持たれた方の参照の便宜として紹介します。(p207)

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はじめに

 慶長三年(一五九八)に天下人豊臣秀吉が伏見城に没するにあたり、遺言で幼少ゆえに天下人たりえない遺児秀頼の補佐体制として五大老・五奉行を任命し、天下人不在のもとで天下の意思を大老・奉行の合議によって決定する公儀の機構を整えた。その五大老筆頭であった徳川家康が公儀を掌握し天下人として君臨し、その天下人の地位を継いだ徳川秀忠が没する寛永九年(一六三二)前後までの江戸幕府の成立過程について、公儀の様相を指標として論じる。
 一般に将軍や大名の支配領域や政治組織を幕府や藩と称えるが、通常は「公儀」と称された。公儀は幕藩権力のもつ公的側面を捉える用語であるから、幕藩制国家論が議論されるなかで注目され(1)、公儀国家論へと研究が進展した。とくに朝尾直弘は公儀の本質は衆議にあるとし、共同体内部に公権の観念がめばえる「下からの道」を示し(2)、幕藩領主による人民支配が領域単位の地域別編成を旨とし、領主と領民との地域における平和「契約」によって公儀が重層的に成立したところに公儀(幕藩)領主制の特質があったと指摘した(3)。これにより、公儀=幕府とみなす中央集権型の江戸時代理解から、公儀=幕府・藩とみなす地方分権型の江戸時代理解へと大きく転回し、藩のもつ地域公権性や幕府から独自の仕置を認められた独立領主権力としての藩の側面が大きく見直されつつある(4)。
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いったん、ここで切ります。
現在の研究水準では、「公儀=幕府とみなす中央集権型の江戸時代理解」は古いものになってしまっていて、「公儀=幕府・藩とみなす地方分権型の江戸時代理解へと大きく転回」しているようですね。
このあたりの変化がいつ生じたのかを知るために、註を見てみると、

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(1)朝尾直弘『将軍権力の創出』岩波書店、一九九四年、深谷克己『近世の国家・社会と天皇』校倉書房、一九九一年、高木昭作『日本近世国家史の研究』岩波書店、一九九〇年、山本博文『幕藩制の成立と近世の国制』校倉書房、一九九〇年。
(2)朝尾直弘「惣村から町へ」(初出一九八八年、註1朝尾前掲書所収)
(3)朝尾直弘「「公儀」と幕藩領主制」(初出一九八五年、註1朝尾前掲書所収)
(4)藤井譲治『幕藩領主の権力構造』岩波書店、二〇〇二年、高野信治『藩国と藩輔の構図』名著出版、二〇〇二年など。
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ということで(p231)、1985年から十年程度の間に「転回」があったと見てよさそうです。
そして、藤井譲治氏により、若干複雑な議論が追加されたようですね。

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 さらに藤井譲治は、従来の研究が歴史用語としての公儀に近世と中世では差異があることを指摘しつつも、戦国期から近世前期にかけて政治権力を掌握した法的主体としての公儀を前提として公儀論が公権力論として展開してきたと総括し、公儀=公権力とする予断を排したうえで、公儀の語義には、①「私」「内」に対する「公」の意、あるいは「公」の場・世界、「公」に果たすべき役割の意、②「公」の意向・決定(集団成員を拘束する一定集団の総意)、③将軍(法的主体)、という三つの用法があるが、「近世においても法的主体としての公儀は「天下人」「将軍」一人のものとならず、その構成がどのようなものであれ複数性・合議制という特質を保持したことに繋がっていく」とし、朝尾のいう重層する公儀を幕府公儀・藩公儀という概念を用いて構造的に理解する方法を提起したが(5)、今なお幕府公儀・藩公儀は歴史学上の用語として共有化されるにはいたっていない。その理由は、史料上の「公儀」をア・プリオリに幕府とみなす解釈の誤用を是正すれば、わざわざ幕府公儀・藩公儀を用いなくとも、両者に置き換えられる概念として幕府・藩を歴史学上の用語として定着させても支障が生じないことにあろう。
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註5は細かい内容なので引用しませんが、該当の論文は「「公儀」国家の形成」(初出一九九四年を解題・改稿して、註4藤井前掲書に所収)とあります。
この部分だけだと若干理解が難しい点もありますが、ま、「史料上の「公儀」をア・プリオリに幕府とみなす解釈の誤用」はまずいよね、という点で専門研究者間の共通の合意があるようですね。
そして、このような現在の研究水準を前提とすると、歴史学上の用語として、多くの研究者が「幕府」と呼んでいる対象を「公儀」に置き換えろ、という渡辺浩説は、思想史研究者はともかくとして、普通の近世史研究者の賛同は得られそうもない感じがします。
渡辺浩氏が『東アジアの王権と思想』の初版を出した1997年の時点で、既に近世史学界の動向に若干の後れをとっていた幕府=公儀置き換え論は、同書の増補改訂版の出た2016年において、更に古臭さを増した議論なのではないかと思われます。

>筆綾丸さん
>苅部直氏『丸山眞男 ―― リベラリストの肖像』
未読ですが、ご紹介の銀杏ポエムを見ると、今すぐ読まなくても良い本かなと思います。
正直、丸山眞男は陰気臭くて、未だに崇め奉る人々の気持ちがよく分かりません。

※筆綾丸さんの下記投稿へのレスです。

真夏の死と銀杏の蘖 2017/06/29(木) 18:24:12
小太郎さん
http://www.suntory.co.jp/sfnd/prize_ssah/detail/2006sr1.html
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%B8%B8%E5%B1%B1%E7%9C%9E%E7%94%B7
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%98%96
苅部直氏『丸山眞男 ―― リベラリストの肖像』は、通読する意欲はなく、ざっと眺めてみました。
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 しかし、丸山がむかし教員を務めた大学院研究科で、同じ日本政治思想史を専攻したのだし、教わった方々の多くは、かつてその研究指導をうけたり、授業に出たりしている。研究上の助言を求めれば、紹介してもらえるつてはあったのだが、会おうとは思わず、論文や著書も送らなかった。むだに時間を割かせるのをおそれたほかにも理由はあるけれど、ここに書くべきことがらではない。「私はひとに金を貸せる身分ではありませんが話を分りよくするためこんな例をあげてみます。金を貸してなかなか返さない男が向うから来ます。定めし逢うのがいやだろうとこっちで気を廻して横町へ曲ってしまいます。これが東京っ子の弱気です」(岡本文弥『藝渡世』)。-要するに、わたしもひとりの東京っ子なのである。助教授として法学部のスタッフに加わった同じ月、丸山は亡くなった。朝の新聞で訃報を読んだあと、大学へ来てみると、銀杏並木の大きな樹が一本、ひとりでに根もとから倒れていた。本郷のキャンパスでそういう光景を見たのは、あとにも先にもない。(あとがき)
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要するに、苅部氏に関係なく巨星は堕ちた、と言いたいようですね。丸山眞男の祥月命日(8月15日)は象徴的ですが、本郷のキャンパスの銀杏のある一本が倒れたのは、1996年8月17日ということになりますか。
それはともかく、銀杏という木はしぶとく、鶴岡八幡宮の大銀杏のように、倒れた根元から多くの蘖が叢生するもので、それと同じように、堕ちた巨星のあとから大勢の弟子達がざわざわと育ったのは、誠に以て御同慶の至り、という含意なのかもしれませんね。
蛇足ながら、岡本文弥の文は、小金はあるくせに「私はひとに金を貸せる身分ではありませんが」と一見謙虚なフリをするのが、(山の手の)東京っ子の嫌味だ、と読むべきなんですよ、たぶん。苅部氏のように読むのはウブすぎます。
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「公儀」と師弟愛

2017-07-01 | 渡辺浩『東アジアの王権と思想』
投稿者:鈴木小太郎 投稿日:2017年 7月 1日(土)12時53分42秒

6月27日の投稿で、「渡辺氏のような、特定の概念だけに偏執的なこだわりを見せる変人が「幕府」ではなく「公儀」と呼ぶべきだと主張しても、ま、結局は誰からも相手にされずに終わるのではないかと思います」とか書いてしまいましたが、『「維新革命」への道─「文明」を求めた十九世紀日本』において、渡辺氏の弟子である苅部直氏は律儀に「公儀」を使っておられますね。
例えば、

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 ここでいったん、その否定対象となった儒学の歴史観についてふりかえってみよう。渡辺浩『近世日本社会と宋学』(東京大学出版会、増補新訂版二〇一〇年)などの研究が説くように、徳川時代においてはその初期から、公儀が支配権力を正当化するイデオロギーとして儒学(朱子学)を普及させたという理解は、現在ではほぼ否定されている。
 むしろ太平の世において、民間で活躍した儒者たちによって朱子学が広まり、伊藤仁斎や荻生徂徠に見られるような、朱子学を批判する独自の儒学思想も大きな影響を知的世界にもたらすようになった。その結果、十八世紀後半から、各地の大名が藩校を設立し、江戸の公儀も昌平坂学問所を設けて朱子学を講じさせることを通じて、儒学は「官学」と化し、知識人がものを考え、論じるさいの共通の前提となったのである。
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といった具合です。(p85)
他にも「公儀や大名家」(p120、125)、「公儀と諸大名による世襲統治」(p198)、「公儀の蕃書和解方」(p214)、「徳川の公儀」(p234)などとありますね。
そして幕府という表現を用いる場合には全て「幕府」とカギカッコ付きです。(p43、54、55)
ただ、「公儀」で徹底しているかというとそうでもなく、「徳川政権」というような曖昧な表現もありますね。
「徳川政権」は「徳川政権が崩壊」(p43)、「徳川政権最後の公方、徳川慶喜」(p43)、「徳川政権の崩壊」(p46)、「徳川政権の「瓦解」」(p47)、「徳川政権が成立」(p49)、「徳川政権から明治政府への交代」(p51)といった感じで用いられています。
徳川幕府の最初と最後に「徳川政権」を用いるのが苅部氏のこだわりなんですかね。
なお、「徳川政権最後の公方、徳川慶喜」という表現に見られるように、苅部氏は普通の人が「将軍」とするところを一貫して「公方」としており、この点も律儀に渡辺先生の教えに従っておられるようです。
さて、渡辺先生と苅部直氏の麗しい師弟愛はともかくとして、「公儀」はもともと江戸時代より前から用いられている史料用語で、しかも時代に応じて多様な変化をしていますから、講学上の用語として「公儀」(=幕府)を用いる人は決して多数派ではない、というかかなり珍しい部類に入るのではないかと思います。
このあたりの事情は近世史に疎い私には難しいので、次の投稿で、たまたま最近読んだ福田千鶴氏の「江戸幕府の成立と公儀」(『岩波講座日本歴史第10巻 近世1』、2014)を少し引用してみます。
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