盛岡藩(南部藩)の人口について、速水融氏が何か書かれているのではないかなと思って探してみたところ、『歴史人口学研究 新しい近世日本像』(藤原書店、2009)の「第12章 近世─明治期奥羽地方の人口趨勢─農村における「近世」と「近代」─」に出ていました。
初出時の原題は「近世奥羽地方人口の史的研究序論」で、『三田学会雑誌』75巻3号、1982年6月ということですから、ハンレー/ヤマムラ『前工業化期日本の経済と人口』が出たのと同じ年ですね。
結論として、盛岡藩の公式統計資料は信頼性が乏しく使えない、その理由は不明、ということですが、歴史人口学者がどのように資料を取り扱っているのかを知るための参考として、関係部分を引用しておきます。(p367以下、図・注記省略)
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各藩領の人口
奥羽地方の各藩は、他地方に比較して、人口減少という問題に直面したからか、藩領を単位とした人口調査をしばしば行い、人口維持政策を実施し、幸い記録も多く残されている。すでにこれらの資料を用い、高橋梵仙氏は浩瀚な業績を公刊されており、数値自身について再掲する必要はないだろう。すなわち、南部藩、一ノ関藩、仙台藩、中村(相馬)藩、泉(磐城)藩、会津藩、秋田藩の各例が明らかにされている。また、同氏の業績以外にも、二本松藩、米沢藩について、かなり長期間にわたる数値系列が得られ、津軽藩、八戸藩に関しても藩領人口を知ることができる。おそらく、一つの地方で、藩領人口をこれだけ知ることのできるところは他にはないだろう。さらに藩領以外にも、天領人口について、会津の南山御蔵入領の事例も得ることができる。
ただ、これらの数値の内容は、決して一様なものではない。武士身分の人口が含まれる場合があったり、藩領域の変更によって、対象地域に変化が生じたり、さらには、南部藩のように、そのままではどうみても事実とは首肯し難いケースを含んでいる。また、カヴァーする年代や、密度もまちまちで、統一的な把握は著しく困難である。しかし、それらに目をつぶり、比較的長期の数値シリーズを得られる藩領人口の推移を図12-5にまとめた。ここで、今まで最も多く取り上げられてきた南部藩領の人口を掲げなかったのは、その数値に疑問が多いからである。すなわち、南部藩領人口は『南部家雑書』(南部藩の日誌)から承応二(一六五三)年─天保一一(一八四〇)年の間、二〇〇年近くにわたって記録されているのであるが、宝暦二(一七五二)年以降は、記載人口数にあまりにも変動が少なすぎる。すなわち文化一三(一八一六)年を除いて三五万人台を維持し続けているのである。この間には宝暦・天明の飢饉があり、南部藩領は奥羽地方でも最も大きな被害を出した地方と考えられ、事実、宝暦五(一七五五)年の飢饉による餓死者は、約五万二〇〇〇人、天明三(一七八三)年の飢饉では餓死・病死約七万五〇〇〇人に達したという報告もある。したがって、この間に人口は大きく落ち込み、おそらく三〇%前後の減少をみたのではないかと想像される。しかし、藩の公式記録にはそのようには記述されていない。『盛岡市史』の著者、森嘉兵衛氏は、そこに「何か政治的意図があってこの減少を隠そうとしたのではないかと見られる」とされている。南部藩人口の研究に力をそそがれた高橋梵仙氏の解釈は、宝暦飢饉による領内人口の減少を幕府の眼から隠すべく、従来人口数にカウントされていなかった水呑・名子を、それ以後加算することによって数字の辻つまを合わせたのではないか、とされている。しかしこの解釈にはいささか無理があるのではなかろうか。というのは、天明飢饉の影響が全く出ていないことが説明できないし、記録上、人口数が固定してしまったのは宝暦二(一七五二)年で、宝暦五(一七五五)の飢饉前のことだからである。ここではやはり森嘉兵衛氏の解釈をとっておきたい。なお、宝暦・天明の飢饉による死者数を、公式人口数から差し引いた領内人口の推計(宝暦三─寛政一〇年、一七五三─一七九八)が行われている。しかしこれも、元の数値に疑問があるし、また、寛政一〇(一七九八)年以降の人口をどう考えるか、問題が多い。
さらに、南部藩の公式人口記録に対する疑問は、その男女比率についてである。安永六(一七七七)年から寛政二(一七九〇)年に至る一四年間、一年を除いて性比は、一一二・九に固定されている。この間には天明飢饉もあり、男女数が全く変化しないまま推移したとはとうてい考えられない。やはり、折角高橋氏によって「白眉」とされた南部藩の公式人口記録も、信頼性の点では問題の多い資料なのである。ただし、このことは、この記録が全く利用するに値しないということを意味するものではない。武家人口や郡別人口の記載もあり、他に利用の方法はいくつか考えられる。また、逆にそれでは他藩の人口記録は信頼できるのか、ということになると、積極的な回答はできない。ただ今のところ、はっきりとした否定的な証拠はないので、本稿では南部藩の資料は用いないが、他藩のそれは利用した。また、利用可能な数値の少ない藩領・蔵入領人口の数値を図12-6に示した。
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森嘉兵衛(1903-81)
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%A3%AE%E5%98%89%E5%85%B5%E8%A1%9B
森嘉兵衛(盛岡市公式サイト内「盛岡の先人たち」)
http://www.city.morioka.iwate.jp/shisei/moriokagaido/rekishi/1009526/1009629/1009639.html