投稿者:鈴木小太郎 投稿日:2017年 7月10日(月)11時53分22秒
要約を終え、ここからが安場保吉氏の評価です。(71以下)
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さて、以上のように本書は在来の暗い徳川社会像に真向から挑戦したものであるが、ハンレー/ヤマムラの挑戦がもっとも成功しているのは、江戸時代には穏やかではあるが経済成長が続き、その速度は人口増加率を超えていたことを示した点である。そして江戸時代を通じて庶民の生活水準が上昇したことにも十分な裏付けが与えられている。
しかし、十九世紀農村の庶民の生活がかつての西欧諸国のそれに近く、一九六〇年代の発展途上国の庶民の生活よりも豊かであったかどうか、あるいは庶民の生活は生存水準よりはるかに高く、少々の飢饉があってもそれに十分耐えられるものであったかどうかということになると論証は決して十分ではない。
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ということで、最初は「十九世紀農村の庶民の生活がかつての西欧諸国のそれに近く、一九六〇年代の発展途上国の庶民の生活よりも豊かであったかどうか」についての検討です。
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ハンレー/ヤマムラは一八四〇年代の代表的な庶民の年間所得として三六〇匁という数字を挙げ、かりに大阪で米を買ったとしてもこの額で五・五石の米を買えるから、当時の下級武士の扶持米が一・八石であったことを思えば、この日雇農民の生活水準は相当なものだったという。
しかし、筆者の管見しえた範囲では、一年季の奉公人の場合、年間賃金は十九世紀に入っても米に直して二・八石~三・三石程度であり、日雇いでは米一升五合(月に二十日働くとして年間三・六石)以下のものが多く、もう少し多数の例にあたってみないことにははっきりしたことはいえない。より決定的なことは、明治時代大阪紡が開業当時賃金を決定するにあたって、男工の場合、一日米二升を基準に初給十二銭とし、女工初給は七銭と定めた事実がある。一日米二升の賃金は農作日雇いの賃金としては高い方に属したと思われるが、紡績女工賃金はその後次第に増額されたにもかかわらず、一九世紀末にはインドや中国の紡績女工賃金以下なのである。以上に挙げた資料からすれば江戸時代末期の庶民の生活は以前よりかなり改善されたとしても、まだとうてい豊かだったとはいえないように思われる。
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ということで、結論は否定的ですね。
ついで、「庶民の生活は生存水準よりはるかに高く、少々の飢饉があってもそれに十分耐えられるものであったかどうか」についての検討です。
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飢饉による大量死亡については盛岡藩の場合かなりの反証を挙げてあるが、それでも疑問は残る。岡山の場合はとりあげられた村の代表性の問題がある。飢饉はかなりローカルな現象だと考えられるから、他の村落、他の地方についても検討がなされるべきであろう。ただし、岡山三村の場合は飢饉の影響が軽微だったにもかかわらず、人口がふえなかったのだから、「合理的」な人口制限が行なわれたにすぎないということはいえよう。
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「飢饉による大量死亡については盛岡藩の場合かなりの反証を挙げてある」というのは、ハンレー/ヤマムラ氏が、盛岡藩の場合は「飢饉による大量死亡」など存在しなかったことを証明しようとして、少なくとも分量的には相当の根拠を示した、という意味なんでしょうね。
しかし、安場氏は「それでも疑問は残る」、即ちハンレー/ヤマムラ氏の「反証」は「説得的」ではなく、盛岡藩ではやはり「飢饉による大量死亡」が存在した可能性がある、と判断されたのでしょうね。
「飢饉はかなりローカルな現象だと考えられるから、他の村落、他の地方についても検討がなされるべきであろう」というのは重要な指摘です。
そして、
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ハンレー/ヤマムラの選んだ村の場合には階層は人口学的指標には影響しなかったか、もししたとしても階層の高い方が死亡率が高いという関係があったのではないかという。これについては、速水、津田、スミスなど多くの人々から反例が示されている。間引きが貧富の差にかかわらず「合理的」に行われていたとは信じ難く、この点についてはさらに調査の必要があろう。
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ということで、この点でもハンレー/ヤマムラ氏の説明は「説得的」ではないと判断された訳ですね。
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最後に、これは宗門改帳を利用した研究一般についていえることだが、前回から当回の宗門改めの間に死亡した一歳児が脱落していることや数え歳が使われていることから来るバイヤスが十分に認識されていないように思う。本書では現代風(満)の年齢の数え方と旧式(数え年)の数え方の差を調整するため、年齢別死亡率や平均余命の計算にあたって数え年から二をひいているが、これは正しくない。
宗門改めは毎年三月に行われたから、ゼロ歳児の幼児死亡については当年の一月から二月の間に生れて三月以降次年の二月までに死亡したものだけが数え上げられるのに対して、一歳児はその前の一年間に生れて一年前の宗門改めから次年の宗門改めまでの期間に死んだもの全員が数えあげられる。年齢別死亡率の表で〇歳児の死亡率が一歳児の死亡率より大幅に低いという異常な結果がでているのはこのためである。
宗門改めのデータだけで訂正を行うことはできないので須田圭三氏の過去帳の研究によってゼロ歳児の死亡者数を試算し、それによって大ざっぱな調整を行うと、たとえば速水融氏の横内村の場合、出生率は二五・五ではなく三二・二に、死亡率は二一・八ではなく二八・五になり、〇歳平均余命は三一歳となる。従って著者の徳川史観は大幅な改訂を迫られるであろう。
以上、問題点は少なくないが、本書は日本の多くの歴史家、とくにマルクス主義を奉ずる歴史家の史観に挑戦するという点ではかなり成功している。日本の歴史家が本書を頭から無視するのではなく、本書の主張の妥当快【ママ】を検証することによって近世史の理解がさらに深められることを期待したい。
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結論として、安場氏は『前工業化期日本の経済と人口』を「問題点は少なくないが、本書は日本の多くの歴史家、とくにマルクス主義を奉ずる歴史家の史観に挑戦するという点ではかなり成功している」と高く評価されたものの、盛岡藩において「飢饉による大量死亡」はなかったとの主張は「問題点」のひとつとして残る、と判断された訳ですね。
要約を終え、ここからが安場保吉氏の評価です。(71以下)
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さて、以上のように本書は在来の暗い徳川社会像に真向から挑戦したものであるが、ハンレー/ヤマムラの挑戦がもっとも成功しているのは、江戸時代には穏やかではあるが経済成長が続き、その速度は人口増加率を超えていたことを示した点である。そして江戸時代を通じて庶民の生活水準が上昇したことにも十分な裏付けが与えられている。
しかし、十九世紀農村の庶民の生活がかつての西欧諸国のそれに近く、一九六〇年代の発展途上国の庶民の生活よりも豊かであったかどうか、あるいは庶民の生活は生存水準よりはるかに高く、少々の飢饉があってもそれに十分耐えられるものであったかどうかということになると論証は決して十分ではない。
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ということで、最初は「十九世紀農村の庶民の生活がかつての西欧諸国のそれに近く、一九六〇年代の発展途上国の庶民の生活よりも豊かであったかどうか」についての検討です。
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ハンレー/ヤマムラは一八四〇年代の代表的な庶民の年間所得として三六〇匁という数字を挙げ、かりに大阪で米を買ったとしてもこの額で五・五石の米を買えるから、当時の下級武士の扶持米が一・八石であったことを思えば、この日雇農民の生活水準は相当なものだったという。
しかし、筆者の管見しえた範囲では、一年季の奉公人の場合、年間賃金は十九世紀に入っても米に直して二・八石~三・三石程度であり、日雇いでは米一升五合(月に二十日働くとして年間三・六石)以下のものが多く、もう少し多数の例にあたってみないことにははっきりしたことはいえない。より決定的なことは、明治時代大阪紡が開業当時賃金を決定するにあたって、男工の場合、一日米二升を基準に初給十二銭とし、女工初給は七銭と定めた事実がある。一日米二升の賃金は農作日雇いの賃金としては高い方に属したと思われるが、紡績女工賃金はその後次第に増額されたにもかかわらず、一九世紀末にはインドや中国の紡績女工賃金以下なのである。以上に挙げた資料からすれば江戸時代末期の庶民の生活は以前よりかなり改善されたとしても、まだとうてい豊かだったとはいえないように思われる。
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ということで、結論は否定的ですね。
ついで、「庶民の生活は生存水準よりはるかに高く、少々の飢饉があってもそれに十分耐えられるものであったかどうか」についての検討です。
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飢饉による大量死亡については盛岡藩の場合かなりの反証を挙げてあるが、それでも疑問は残る。岡山の場合はとりあげられた村の代表性の問題がある。飢饉はかなりローカルな現象だと考えられるから、他の村落、他の地方についても検討がなされるべきであろう。ただし、岡山三村の場合は飢饉の影響が軽微だったにもかかわらず、人口がふえなかったのだから、「合理的」な人口制限が行なわれたにすぎないということはいえよう。
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「飢饉による大量死亡については盛岡藩の場合かなりの反証を挙げてある」というのは、ハンレー/ヤマムラ氏が、盛岡藩の場合は「飢饉による大量死亡」など存在しなかったことを証明しようとして、少なくとも分量的には相当の根拠を示した、という意味なんでしょうね。
しかし、安場氏は「それでも疑問は残る」、即ちハンレー/ヤマムラ氏の「反証」は「説得的」ではなく、盛岡藩ではやはり「飢饉による大量死亡」が存在した可能性がある、と判断されたのでしょうね。
「飢饉はかなりローカルな現象だと考えられるから、他の村落、他の地方についても検討がなされるべきであろう」というのは重要な指摘です。
そして、
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ハンレー/ヤマムラの選んだ村の場合には階層は人口学的指標には影響しなかったか、もししたとしても階層の高い方が死亡率が高いという関係があったのではないかという。これについては、速水、津田、スミスなど多くの人々から反例が示されている。間引きが貧富の差にかかわらず「合理的」に行われていたとは信じ難く、この点についてはさらに調査の必要があろう。
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ということで、この点でもハンレー/ヤマムラ氏の説明は「説得的」ではないと判断された訳ですね。
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最後に、これは宗門改帳を利用した研究一般についていえることだが、前回から当回の宗門改めの間に死亡した一歳児が脱落していることや数え歳が使われていることから来るバイヤスが十分に認識されていないように思う。本書では現代風(満)の年齢の数え方と旧式(数え年)の数え方の差を調整するため、年齢別死亡率や平均余命の計算にあたって数え年から二をひいているが、これは正しくない。
宗門改めは毎年三月に行われたから、ゼロ歳児の幼児死亡については当年の一月から二月の間に生れて三月以降次年の二月までに死亡したものだけが数え上げられるのに対して、一歳児はその前の一年間に生れて一年前の宗門改めから次年の宗門改めまでの期間に死んだもの全員が数えあげられる。年齢別死亡率の表で〇歳児の死亡率が一歳児の死亡率より大幅に低いという異常な結果がでているのはこのためである。
宗門改めのデータだけで訂正を行うことはできないので須田圭三氏の過去帳の研究によってゼロ歳児の死亡者数を試算し、それによって大ざっぱな調整を行うと、たとえば速水融氏の横内村の場合、出生率は二五・五ではなく三二・二に、死亡率は二一・八ではなく二八・五になり、〇歳平均余命は三一歳となる。従って著者の徳川史観は大幅な改訂を迫られるであろう。
以上、問題点は少なくないが、本書は日本の多くの歴史家、とくにマルクス主義を奉ずる歴史家の史観に挑戦するという点ではかなり成功している。日本の歴史家が本書を頭から無視するのではなく、本書の主張の妥当快【ママ】を検証することによって近世史の理解がさらに深められることを期待したい。
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結論として、安場氏は『前工業化期日本の経済と人口』を「問題点は少なくないが、本書は日本の多くの歴史家、とくにマルクス主義を奉ずる歴史家の史観に挑戦するという点ではかなり成功している」と高く評価されたものの、盛岡藩において「飢饉による大量死亡」はなかったとの主張は「問題点」のひとつとして残る、と判断された訳ですね。