投稿者:鈴木小太郎 投稿日:2017年10月 1日(日)13時11分29秒
元読売新聞記者の松崎昭一氏は、ネットで検索した限りでは適当な略歴が出てきませんが、「天皇の昭和史」というシリーズで有名な人ですね。
「昭一」だから多分昭和元年生まれなのでしょうが、後で調べてみるつもりです。
リンク先の、
科学研究費成果報告書 「近現代日本の政策史料収集と情報公開調査を踏まえた政策史研究の再構築」
(基盤研究(B)(1)、代表者伊藤隆平成 15・16 年度、代表者伊藤隆、課題番号:15330024)
http://kins.jp/pdf/54matsuzaki.pdf
では松崎氏のいかにも新聞記者らしい語り口が伺えますね。
さて、前回投稿の<「ゾルゲの手記(二)」の中の「私自身の情報の出所」の「(八)陸軍省」のくだり>ですが、「ゾルゲの手記(二)」の概要は後で述べるとして、とりあえず当該部分を『現代史資料(1)ゾルゲ事件Ⅰ』(小尾俊人編、みすず書房、1962)から引用しておきます。(p192以下)
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(ホ)私自身の情報の出所
(一)概説
(二)ドイツ人実業家および技師
(三)東京のナチ党
(四)東京のオランダ人社会
(五)日本にいたドイツ人新聞記者
(六)外国人通信員
(七)同盟通信社および日本人記者
(八)陸軍省
陸軍省新聞班と私の関係や、オットー少将や「マツキ」大佐の紹介で会った陸軍将校たちと私の関係も、右に述べたところと変りはなかった。近年はこうした人々とはほとんど関係がなかったと言っても差支ない。
私は、オットーおよび「マツキ」を通じて大島将軍を知るようになり、度々面会した。そして、日独同盟締結後私の新聞に会見記を書くために会ったこともあった。また、当時馬奈木大佐、山県、西郷両少佐、いまの武藤少将、それに名前は忘れたがそのほかにも何人かの将校たちと知り合いになった。陸軍省新聞班の当時の斎藤大佐とは以前にも会ったことがあったが、彼は度々私をほかのドイツ人記者といっしょに招待してくれた。私もドイツ人記者仲間の一人として何度か彼を招待したことがあった。彼の後任者の秋山とはあまり交渉がなかったが、宇都宮大佐とは何度か会い、上海でも一、二度彼を訪ねたことあがった。最後に会ったのは一九四一年の春であった。
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元読売新聞記者の松崎昭一氏は、ネットで検索した限りでは適当な略歴が出てきませんが、「天皇の昭和史」というシリーズで有名な人ですね。
「昭一」だから多分昭和元年生まれなのでしょうが、後で調べてみるつもりです。
リンク先の、
科学研究費成果報告書 「近現代日本の政策史料収集と情報公開調査を踏まえた政策史研究の再構築」
(基盤研究(B)(1)、代表者伊藤隆平成 15・16 年度、代表者伊藤隆、課題番号:15330024)
http://kins.jp/pdf/54matsuzaki.pdf
では松崎氏のいかにも新聞記者らしい語り口が伺えますね。
さて、前回投稿の<「ゾルゲの手記(二)」の中の「私自身の情報の出所」の「(八)陸軍省」のくだり>ですが、「ゾルゲの手記(二)」の概要は後で述べるとして、とりあえず当該部分を『現代史資料(1)ゾルゲ事件Ⅰ』(小尾俊人編、みすず書房、1962)から引用しておきます。(p192以下)
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(ホ)私自身の情報の出所
(一)概説
(二)ドイツ人実業家および技師
(三)東京のナチ党
(四)東京のオランダ人社会
(五)日本にいたドイツ人新聞記者
(六)外国人通信員
(七)同盟通信社および日本人記者
(八)陸軍省
陸軍省新聞班と私の関係や、オットー少将や「マツキ」大佐の紹介で会った陸軍将校たちと私の関係も、右に述べたところと変りはなかった。近年はこうした人々とはほとんど関係がなかったと言っても差支ない。
私は、オットーおよび「マツキ」を通じて大島将軍を知るようになり、度々面会した。そして、日独同盟締結後私の新聞に会見記を書くために会ったこともあった。また、当時馬奈木大佐、山県、西郷両少佐、いまの武藤少将、それに名前は忘れたがそのほかにも何人かの将校たちと知り合いになった。陸軍省新聞班の当時の斎藤大佐とは以前にも会ったことがあったが、彼は度々私をほかのドイツ人記者といっしょに招待してくれた。私もドイツ人記者仲間の一人として何度か彼を招待したことがあった。彼の後任者の秋山とはあまり交渉がなかったが、宇都宮大佐とは何度か会い、上海でも一、二度彼を訪ねたことあがった。最後に会ったのは一九四一年の春であった。
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