学問空間

「『増鏡』を読む会」、第9回は2月22日(土)、テーマは「上西門院とその周辺」です。

「リヒアルド・ゾルゲの手記(二)」

2017-10-01 | ナチズムとスターリニズム
投稿者:鈴木小太郎 投稿日:2017年10月 1日(日)13時11分29秒

元読売新聞記者の松崎昭一氏は、ネットで検索した限りでは適当な略歴が出てきませんが、「天皇の昭和史」というシリーズで有名な人ですね。
「昭一」だから多分昭和元年生まれなのでしょうが、後で調べてみるつもりです。
リンク先の、

科学研究費成果報告書 「近現代日本の政策史料収集と情報公開調査を踏まえた政策史研究の再構築」
(基盤研究(B)(1)、代表者伊藤隆平成 15・16 年度、代表者伊藤隆、課題番号:15330024)

http://kins.jp/pdf/54matsuzaki.pdf

では松崎氏のいかにも新聞記者らしい語り口が伺えますね。
さて、前回投稿の<「ゾルゲの手記(二)」の中の「私自身の情報の出所」の「(八)陸軍省」のくだり>ですが、「ゾルゲの手記(二)」の概要は後で述べるとして、とりあえず当該部分を『現代史資料(1)ゾルゲ事件Ⅰ』(小尾俊人編、みすず書房、1962)から引用しておきます。(p192以下)

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(ホ)私自身の情報の出所

(一)概説
(二)ドイツ人実業家および技師
(三)東京のナチ党
(四)東京のオランダ人社会
(五)日本にいたドイツ人新聞記者
(六)外国人通信員
(七)同盟通信社および日本人記者
(八)陸軍省
 陸軍省新聞班と私の関係や、オットー少将や「マツキ」大佐の紹介で会った陸軍将校たちと私の関係も、右に述べたところと変りはなかった。近年はこうした人々とはほとんど関係がなかったと言っても差支ない。
 私は、オットーおよび「マツキ」を通じて大島将軍を知るようになり、度々面会した。そして、日独同盟締結後私の新聞に会見記を書くために会ったこともあった。また、当時馬奈木大佐、山県、西郷両少佐、いまの武藤少将、それに名前は忘れたがそのほかにも何人かの将校たちと知り合いになった。陸軍省新聞班の当時の斎藤大佐とは以前にも会ったことがあったが、彼は度々私をほかのドイツ人記者といっしょに招待してくれた。私もドイツ人記者仲間の一人として何度か彼を招待したことがあった。彼の後任者の秋山とはあまり交渉がなかったが、宇都宮大佐とは何度か会い、上海でも一、二度彼を訪ねたことあがった。最後に会ったのは一九四一年の春であった。
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松崎昭一「ゾルゲと尾崎のはざま」

2017-10-01 | ナチズムとスターリニズム
投稿者:鈴木小太郎 投稿日:2017年10月 1日(日)12時29分14秒

NHK取材班・下斗米伸夫『国際スパイ ゾルゲの真実』(角川書店、1992)を入手し、元読売新聞記者・松崎昭一氏の「ゾルゲと尾崎のはざま」を確認してみました。
松崎氏は冒頭でゾルゲ担当の吉河光貞検事が雑誌『法曹』266号に寄稿した「回想」に触れて、その中の「国際諜報団諜報網一覧表」にドイツ大使館と「陸軍参謀本部」が点線で結ばれていることを指摘した上で、『現代史資料(1)ゾルゲ事件』(みすず書房、1962)の「第三十八回訊問調書」を引用しつつ、次のように述べます。(p271以下)

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このか細い点線は、いったい何を意味するのか。「ゾルゲの告白」(第三八回検事訊問調書)をくっていくと、戦慄という言葉のままの隠された事実が次第に明らかになってくる。適宜要約しながら、そのあたりを読んでみよう。

─一九三七年(昭和一二)支那事変勃発から独大使館では日本軍の現状を調査研究しようということになりましたが─オット大使を中心にショル武官と私の三名が集まり、毎月日を定めて会合し『支那事変に関する日本軍』という調査研究に着手したのであります。─オット大使やショル武官の手により、非常に豊富な資料が収集され(傍点筆者)、月々決って報告書が作成されて伝書使によりドイツに通報されたのであります。─
 私はもちろん月々これらの報告書を見ることができましたが、その内容は非常に価値あるものでしたので、その都度これらの報告書を写真に撮影して、そのフィルムはモスコウ中央部に伝送したのであります。

 スパイされた内容は、兵員の動員状況、その増強の状態、師団数とその番号、参謀本部の作戦用兵の一般、日本軍の損害……というように、中国戦線の日本軍の実体が丸はだかにされている。「諜報団一覧図」によると、ゾルゲはこのほかにも独自に在中国ドイツ大使館、特別軍事使節団、駐日オランダ公使館からも情報を入手しているが、これらへの連絡などいわゆる便宜供与につては大使館、すなわちオット大使(昭和一三年四月から)が最大限に援助したと見て間違いあるまい。
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「非常に豊富な資料」には傍点が振られており、「筆者」とは松崎氏のことですね。
松崎氏は、

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  親独派の台頭

 このように見てくると、この二年後の一九三九年(昭和一四)の五月から八月にかけて日ソ間で戦われた「ノモンハン事件」の日本軍の全滅の損害というのも、ゾルゲ情報によってソ連側は日本軍の装備を知りつくしていて、万全の対応をしていたための勝利といえなくもない。
 では、ドイツ大使館に陸軍の機密情報を流したものはだれかだが、ゾルゲ事件の記録からは特定の氏名は出てこない。わずかに「ゾルゲの手記(二)」の中の「私自身の情報の出所」の「(八)陸軍省」のくだりに「当時、馬奈木大佐、山県、西郷両少佐、いまの武藤少将、それに名前は忘れたが、そのほかにも何人かの将校たちと知り合いになった」と述べられているだけで、あいまい模糊としているが、ともかく固有の氏名が出ているのだから、これを手がかりにして先へ進んでみよう。
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と続けて、四人の略歴を紹介した後、

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 以上でわかるように、いずれも陸軍のエリート将校であり、ドイツと深い関係をもっていた。つまり、ドイツ大使館へはフリーパスで出入りしていただろうし、他方、昭和三年から一年間、名古屋の歩兵第六連隊に隊付勤務の経験をもっているオット武官、のちの大使とはお互いが日、独両方の言葉で自由に意志が通じ合えたろうし、オットのかたわらに机をもったゾルゲとも面識を重ねたことだろう。
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と述べています。
ここで加藤哲郎氏の『ゾルゲ事件 覆された神話』(平凡社新書、2014)の記述を再掲すると、加藤氏は、

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 事件の全貌も、解明されたとは言えなかった。一九三九年のノモンハン事件(ハルハ河戦争)の頃、日本軍内部にゾルゲと親しい軍エリートたちがいた。武藤章少将、馬奈木敬信大佐、山県有光少佐、西郷従吾少佐ら親独派将校は、ゾルゲに日本の軍事情報を流していた可能性が高いが、内務省に属する特高警察は、彼らを密かにリストアップできても、軍部にまで捜査を及ぼすことはできなかった(松崎昭一「ゾルゲと尾崎のはざま」、NHK取材班・下斗米伸夫『国際スパイ・ゾルゲの真実』角川書店、一九九二年)。

として、親独派将校が直接に「ゾルゲに日本の軍事情報を流していた可能性が高い」という書き方をしていますが、松崎氏は「ドイツ大使館に陸軍の機密情報を流していたものはだれか」を問題にしていますね。
もっともゾルゲは「オットのかたわらに机をもった」ほどオット大使に密着していたので、実際には情報の経路が直接的か、それともドイツ大使館を通して間接的か否かは、それほど重要な問題でもなさそうですが。
なお、松崎氏は馬奈木大佐について、次のように書いています。(p275以下)

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 もうかなり以前のことだが、「馬奈木大佐」にお会いして、その「回想」を聞いたことがある。そのなかでとりわけ印象に残った一節。
「当時、参謀本部は東京・三宅坂にあって、その裏門というのが道をはさんでドイツ大使館の裏門と向き合っていた。私自身ドイツとはなにかと関係が深く、そして役所がこんなふうに庭続きみたいなので、なにかあると『おい、オット、いま行くぞ』『オット、めし食わんか』なんて声をかけていた。例の防共協定も、私が陸軍側の実務担当者としてオットと話合っていったんだ」
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ここもあくまで馬奈木敬信とオット大使との関係であって、ゾルゲとの直接の交友を述べている訳ではありませんが、オット・ゾルゲ間が密着しているので、まあ、馬奈木が「ここだけの話だけど」みたいな感じでオットに話した内容は全てゾルゲに筒抜けだったのでしょうね。

馬奈木敬信(1894-1979)
オイゲン・オット(1889-1977)
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