学問空間

「『増鏡』を読む会」、第9回は2月22日(土)、テーマは「上西門院とその周辺」です。

『大正十五年の聖バレンタイン─日本でチョコレートをつくったV・F・モロゾフ物語』(その1)

2017-10-27 | ナチズムとスターリニズム
投稿者:鈴木小太郎 投稿日:2017年10月27日(金)09時30分2秒

『自壊する帝国』を読み終えてから、久しぶりに川又一英氏の『大正十五年の聖バレンタイン─日本でチョコレートをつくったV・F・モロゾフ物語』(PHP研究所、1984)を手に取ってみました。
「プロローグ」から少し引用してみます。

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 物語の主人公はワレンティンという名である。フル・ネームはワレンティン・フョードロヴィチ・モロゾフと少々長い。名のとおりロシア人であるが、滞日すでに六十年になるから準日本人と呼んでもさしつかえあるまい。
 ワレンティンは英語読みではヴァレンタイン、今日の日本語表記ではバレンタインとすることが多い。そこで同人もみずからをバレンタイン・F・モロゾフと名乗っている。
 ひょっとして<バレンタイン・デー>に関係があるのではないか。勘のするどい読者は、ワレンティン(バレンタイン)の聖名〔クリスチャン・ネーム〕をもつ主人公に、そう思われるかもしれない。語り手〔わたし〕はここで結論を出すのは控えておく。
 ひとつだけ申し添えておくと、ワレンティンは日本におけるチョコレート菓子の創始者〔パイオニア〕として知られており、その手になる<コスモポリタンのチョコレート・キャンディ>といえば、今日高級洋菓子の代名詞ともなっている。それゆえ、チョコレートが飛び交う二月十四日〔バレンタイン・デー〕の珍現象もまんざら迷惑ではないことは容易に想像がつこう。
 さて、ワレンティンは大正十五年、父とともに洋菓子店を開業して以来、神戸に住んでいる。経営するコスモポリタン製菓の工場も本店も神戸にある。しかし毎年、バレンタイン・デーだけは上京して銀座支店の店頭に立つ。これはある新聞に<クラーク・ゲーブルとグレゴリー・ペックを足して二で割ったような>と書かれたワレンティンの恒例行事となっている。昭和四十九年のバレンタイン・デーすなわち二月十四日もそうであった。
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ということで、同日、投宿先の帝国ホテルでソルジェニーツィンがソ連政府によって西ドイツのフランクフルトに追放されたという新聞記事を見たワレンティンが、宛先も知らないままソルジェニーティンに無事の出国を祝福する電報を打とうとするエピソードが紹介されます。
次いで、

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 ワレンティンには国籍がない。いまは亡き父も母も同様である。一家は帝政ロシアに国籍を残したまま、二度と故国に戻らない亡命者〔エミグラント〕であった。亡命者にとって喪った故国の重みがどんなものか、島国で国家の保護下に生きてきた語り手〔わたし〕には想像の域を超える。
 われらの主人公がなぜ見ず知らずの作家ソルジェニーツィンに電報を打たずにはいられなかったか。語り手〔わたし〕はチョコレートとシャンパンの話をして以来、温厚な紳士に問いただしたことはない。
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との説明の後、ワレンティンの出生地について、

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〔カスピ海から〕この中部ロシアの大動脈ヴォルガ河を遡ること緯度にして十度弱、樺太の最北端に当たる地点にウリヤーノフスクという町がある。町出身の革命家レーニンの姓をとって現在はこう名づけられているが、革命前まではシンビルスクと呼ばれていたヴォルガ河畔有数の町である。
 物語の主人公ワレンティンが生まれたのは、このシンビルスク郊外にあるチェレンガという田舎町である。奇しくも愛の守護聖人ヴァレンティヌスと同じ聖名をなづけられたロシア少年がいかにしてチョコレート造りを始めるようになるか。またなぜ、地球を四分の一も東漸し、日本で暮らすようになるか。
 話はロシア革命が勃発した一九一七年、シンビルスクの町に遡る─。
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とあって、「プロローグ」が終わります。

ウリヤノフスク
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%A6%E3%83%AA%E3%83%A4%E3%83%8E%E3%83%95%E3%82%B9%E3%82%AF
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