投稿者:鈴木小太郎 投稿日:2017年10月16日(月)10時44分49秒
法政大学教授・下斗米伸夫氏は、『図説 ソ連の歴史』(河出書房新社、2011)において、スターリン夫人の亡骸の写真に付されたキャプションで、
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アリリュエバの自殺
スターリン夫人アリリュエバは革命15周年記念日後の1932年11月9日に夫の女性関係などがあって自殺したが、背景にリューチンなどスターリン反対派との関係など政治的なものがあったといわれる。
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と書かれていますね。
夫の女性関係云々はフルシチョフの証言などを元にしているのでしょうが、リューチン云々については何が根拠なのか。
ま、死因はともかくとして、彼女が死んだ時期は本当に微妙ですね。
『図説 ソ連の歴史』の記述を少し引用してみると、
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深まる飢饉
食糧危機は労働者のあいだにも広がり、一九三二年四月にはイワノボの繊維工がストを起こし、配給の破綻と飢餓に対抗してデモを敢行した。党員も労働者と連帯、労働組合活動家も参加した。首都モスクワの繊維工による同情ストを当局は警戒した。スターリンはこのこともあって三二年春に政策を緩和、コルホーズ市場も五月に解禁した。だが緩和策は幻想だった。穀物は当時最大の外貨獲得手段であって、スターリンは輸出強化を指示し、国家や公共の所有物は神聖不可侵であるという、悪名高い社会主義財産保護法を八月自ら執筆した。飢餓のなかコルホーズや輸送途中の穀物を奪取する者から公園の花を折った者までが極刑になった。
一九三二年秋には飢饉がいっそう深刻化し、ウウクライナ【ママ】で党幹部が調達計画を緩めた。危機感を深めた政治局が強硬策をとることに決めた。一一月モロトフ首相が飢餓のウクライナに派遣され、調達を督促した。このため飢饉はウクライナ民族主義の撲滅をねらったものだという説がソ連崩壊後にウクライナ政府側から出された。実際には飢饉はカザフ共和国、ボルガ河沿岸などすべてのソ連農民を痛打した。カガノビッチ書記はロシア南部のクバン地方でコサック村を一六も追放することを決定、こうして調達を渋った農民は極北などに追放された。多くの農民が生死の境におかれ、わずかな付属地で糊口をしのいだ。
この強硬策は農村党員やスターリン支持派だった地方党書記にすら疑問を抱かせた。飢饉のさなかの穀物輸出は行き過ぎだった。ドン出身の作家ミハイル・ショーロホフが緩和策をスターリンに提言したが、彼も農民ではなく馬が抑圧されたと注意しただけだった。結局第一次五カ年計画は目標からはるかに下回り、一九三〇年代末まで達成されなかった。予定された党大会すら延期された。三三年一月党総会では、中央直轄の非常機関である政治部を機械トラクター・ステーションに設置、これが飢饉の農村での支配のてことなり、また地方党官僚を粛清(チストカ)した。指導者スターリンに対する懐疑が再燃、三二年なかばには書記長解任を主張したリューチン綱領が密かに回し読みされた。だが三二年後半から旧右派が逮捕され、ルイコフ、トムスキーら旧右派、ジノビエフら左派も譴責された。こうしたなか、革命一五周年記念日にはスターリン夫人ナデジダ・アリリュエバが自殺する事件が起きたのは偶然ではなかった。
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といった具合です。(p39以下)
私は「飢饉はウクライナ民族主義の撲滅をねらったものだという説」はそれなりに説得力があるように思うのですが、下斗米氏は、「飢饉1930-1934」という資料の写真のキャプションに、
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2008年プーチン政権は、1932-34年飢饉の原因をめぐるウクライナ政府との責任論争に関し史料公開を行い、ロシアや中央アジアも被害を受けたという反論を行った。その公開史料集。
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と記していて、プーチン政権の説明に納得されているようですね。
他でもいっぱい死んでいるからウクライナだけを狙った訳ではないのだ、というプーチン政権の反論はなかなか豪快ですが、これを機会にウクライナ民族主義を根絶やしにしてやれ、という意図はなかったと言い切れるのですかね。
ホロドモール
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%9B%E3%83%AD%E3%83%89%E3%83%A2%E3%83%BC%E3%83%AB
法政大学教授・下斗米伸夫氏は、『図説 ソ連の歴史』(河出書房新社、2011)において、スターリン夫人の亡骸の写真に付されたキャプションで、
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アリリュエバの自殺
スターリン夫人アリリュエバは革命15周年記念日後の1932年11月9日に夫の女性関係などがあって自殺したが、背景にリューチンなどスターリン反対派との関係など政治的なものがあったといわれる。
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と書かれていますね。
夫の女性関係云々はフルシチョフの証言などを元にしているのでしょうが、リューチン云々については何が根拠なのか。
ま、死因はともかくとして、彼女が死んだ時期は本当に微妙ですね。
『図説 ソ連の歴史』の記述を少し引用してみると、
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深まる飢饉
食糧危機は労働者のあいだにも広がり、一九三二年四月にはイワノボの繊維工がストを起こし、配給の破綻と飢餓に対抗してデモを敢行した。党員も労働者と連帯、労働組合活動家も参加した。首都モスクワの繊維工による同情ストを当局は警戒した。スターリンはこのこともあって三二年春に政策を緩和、コルホーズ市場も五月に解禁した。だが緩和策は幻想だった。穀物は当時最大の外貨獲得手段であって、スターリンは輸出強化を指示し、国家や公共の所有物は神聖不可侵であるという、悪名高い社会主義財産保護法を八月自ら執筆した。飢餓のなかコルホーズや輸送途中の穀物を奪取する者から公園の花を折った者までが極刑になった。
一九三二年秋には飢饉がいっそう深刻化し、ウウクライナ【ママ】で党幹部が調達計画を緩めた。危機感を深めた政治局が強硬策をとることに決めた。一一月モロトフ首相が飢餓のウクライナに派遣され、調達を督促した。このため飢饉はウクライナ民族主義の撲滅をねらったものだという説がソ連崩壊後にウクライナ政府側から出された。実際には飢饉はカザフ共和国、ボルガ河沿岸などすべてのソ連農民を痛打した。カガノビッチ書記はロシア南部のクバン地方でコサック村を一六も追放することを決定、こうして調達を渋った農民は極北などに追放された。多くの農民が生死の境におかれ、わずかな付属地で糊口をしのいだ。
この強硬策は農村党員やスターリン支持派だった地方党書記にすら疑問を抱かせた。飢饉のさなかの穀物輸出は行き過ぎだった。ドン出身の作家ミハイル・ショーロホフが緩和策をスターリンに提言したが、彼も農民ではなく馬が抑圧されたと注意しただけだった。結局第一次五カ年計画は目標からはるかに下回り、一九三〇年代末まで達成されなかった。予定された党大会すら延期された。三三年一月党総会では、中央直轄の非常機関である政治部を機械トラクター・ステーションに設置、これが飢饉の農村での支配のてことなり、また地方党官僚を粛清(チストカ)した。指導者スターリンに対する懐疑が再燃、三二年なかばには書記長解任を主張したリューチン綱領が密かに回し読みされた。だが三二年後半から旧右派が逮捕され、ルイコフ、トムスキーら旧右派、ジノビエフら左派も譴責された。こうしたなか、革命一五周年記念日にはスターリン夫人ナデジダ・アリリュエバが自殺する事件が起きたのは偶然ではなかった。
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といった具合です。(p39以下)
私は「飢饉はウクライナ民族主義の撲滅をねらったものだという説」はそれなりに説得力があるように思うのですが、下斗米氏は、「飢饉1930-1934」という資料の写真のキャプションに、
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2008年プーチン政権は、1932-34年飢饉の原因をめぐるウクライナ政府との責任論争に関し史料公開を行い、ロシアや中央アジアも被害を受けたという反論を行った。その公開史料集。
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と記していて、プーチン政権の説明に納得されているようですね。
他でもいっぱい死んでいるからウクライナだけを狙った訳ではないのだ、というプーチン政権の反論はなかなか豪快ですが、これを機会にウクライナ民族主義を根絶やしにしてやれ、という意図はなかったと言い切れるのですかね。
ホロドモール
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%9B%E3%83%AD%E3%83%89%E3%83%A2%E3%83%BC%E3%83%AB