投稿者:鈴木小太郎 投稿日:2021年 9月 7日(火)21時12分11秒
私は後醍醐と尊氏の関係をあれこれ考えて一応の仮説を立て、自分ではその仮説は当時の各種史料と矛盾していないように感じているのですが、ただ、ちょっと引っかかる古文書があります。
それは森茂暁氏が『足利尊氏』(角川選書、2017)で紹介されている建武二年七月廿日付、葦谷六郎義顕宛の尊氏袖判下文です。
この古文書について、森著以外で何らかの言及をしている文献をご存じの方はご教示願いたく。
当該古文書と森氏の説明は次の通りです。(p85以下)
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足利尊氏袖判下文
もっとも注目されるのは袖判下文である。これが以降の尊氏の政権樹立に直接的につながるのであるが、その最初は、建武二年七月二〇日尊氏が袖判下文でもって配下の武士に勲功の賞としての所領をあてがった事例である。元弘三年一二月二九日以来封印してきた発給をここに再開したのである。文書の具体的な内容は、尊氏が越後国の武士と思われる葦谷義顕に対して勲功の賞として越後国上田庄秋丸村を与えるというもの(『思文閣古書資料目録』233,二〇一三年七月)。これまで知られていなかった新出の史料である。以下に示そう。
(花押〔足利尊氏〕)
下 葦谷六郎義顕
可令早領知越後国上田庄内秋丸村事、
右以人、勲功之賞、所宛行也、早守先例可領掌之状如件、
建武二年七月廿日
建武政権の最高権力者は後醍醐天皇であって、軍功として所領をあてがう権限は天皇に属していたので、勲功賞としての恩賞地給付は当初よりもっぱら後醍醐天皇が綸旨でもってこれを行なっていた。他方、いかに権勢が大きかろうと尊氏は建武政権の構成員である限りこうしたことを行なうことはできなかった。尊氏はこうした行為を意識的に封印していたのである。それが建武二年七月二〇日になって出現しているからには、この間に何かの異変があったに相違ない。一体それは何だったか。筆者はその契機となったのは、この年七月に生起したいわゆる中先代の乱だと考えている。中先代の乱とは、簡単にいえば、鎌倉幕府最後の得宗北条高時の遺児時行が中心となって幕府再興を企て鎌倉を短期間占拠した関東での争乱である。右の袖判下文はそうした軍事状況の中で考えるべきであろう。
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ちなみに私は、中先代の乱に対処するために東下するにあたって、尊氏は「諸国の惣追捕使」としての権限を要求し、後醍醐は「東国」という限定を付した上で当該権限(具体的には守護補任と恩賞給付)を認め、後にそれを撤回したと考えています。
そして、この七月二十日付文書は、尊氏の要求と後醍醐の部分的承認が七月二十日以前だったとすれば私見と矛盾する訳ではありません。
ただ、七月二十日頃は北条時行側と直義側が激戦の真っ最中で、京都にいた尊氏には東国の情報が頻繁に入って来てはいたでしょうが、中先代の乱の帰趨は全く不明な時期です。(時行の鎌倉入りは二十四日)
とすると、やはり何とも早すぎるような印象は否めず、どのように考えるべきか、いささか苦慮しているところです。
私は後醍醐と尊氏の関係をあれこれ考えて一応の仮説を立て、自分ではその仮説は当時の各種史料と矛盾していないように感じているのですが、ただ、ちょっと引っかかる古文書があります。
それは森茂暁氏が『足利尊氏』(角川選書、2017)で紹介されている建武二年七月廿日付、葦谷六郎義顕宛の尊氏袖判下文です。
この古文書について、森著以外で何らかの言及をしている文献をご存じの方はご教示願いたく。
当該古文書と森氏の説明は次の通りです。(p85以下)
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足利尊氏袖判下文
もっとも注目されるのは袖判下文である。これが以降の尊氏の政権樹立に直接的につながるのであるが、その最初は、建武二年七月二〇日尊氏が袖判下文でもって配下の武士に勲功の賞としての所領をあてがった事例である。元弘三年一二月二九日以来封印してきた発給をここに再開したのである。文書の具体的な内容は、尊氏が越後国の武士と思われる葦谷義顕に対して勲功の賞として越後国上田庄秋丸村を与えるというもの(『思文閣古書資料目録』233,二〇一三年七月)。これまで知られていなかった新出の史料である。以下に示そう。
(花押〔足利尊氏〕)
下 葦谷六郎義顕
可令早領知越後国上田庄内秋丸村事、
右以人、勲功之賞、所宛行也、早守先例可領掌之状如件、
建武二年七月廿日
建武政権の最高権力者は後醍醐天皇であって、軍功として所領をあてがう権限は天皇に属していたので、勲功賞としての恩賞地給付は当初よりもっぱら後醍醐天皇が綸旨でもってこれを行なっていた。他方、いかに権勢が大きかろうと尊氏は建武政権の構成員である限りこうしたことを行なうことはできなかった。尊氏はこうした行為を意識的に封印していたのである。それが建武二年七月二〇日になって出現しているからには、この間に何かの異変があったに相違ない。一体それは何だったか。筆者はその契機となったのは、この年七月に生起したいわゆる中先代の乱だと考えている。中先代の乱とは、簡単にいえば、鎌倉幕府最後の得宗北条高時の遺児時行が中心となって幕府再興を企て鎌倉を短期間占拠した関東での争乱である。右の袖判下文はそうした軍事状況の中で考えるべきであろう。
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ちなみに私は、中先代の乱に対処するために東下するにあたって、尊氏は「諸国の惣追捕使」としての権限を要求し、後醍醐は「東国」という限定を付した上で当該権限(具体的には守護補任と恩賞給付)を認め、後にそれを撤回したと考えています。
そして、この七月二十日付文書は、尊氏の要求と後醍醐の部分的承認が七月二十日以前だったとすれば私見と矛盾する訳ではありません。
ただ、七月二十日頃は北条時行側と直義側が激戦の真っ最中で、京都にいた尊氏には東国の情報が頻繁に入って来てはいたでしょうが、中先代の乱の帰趨は全く不明な時期です。(時行の鎌倉入りは二十四日)
とすると、やはり何とも早すぎるような印象は否めず、どのように考えるべきか、いささか苦慮しているところです。