投稿者:鈴木小太郎 投稿日:2021年 9月28日(火)13時10分40秒
『承久記』に描かれた北条義時は傲然たる独裁者ですが、『吾妻鏡』での義時は長老の意見をあちこち伺って最後には政子に決めてもらう事務方の役人みたいな感じで、特に落雷エピソードは何とも情けない話です。
上杉氏は「義時はこの出来事を、朝廷を打ち負かした報いではないかと恐れ」云々と書かれていますが、六月八日なので京都攻防戦はまだ始まっておらず、「朝廷を打ち負かした」と過去形で語ることはできません。
正確を期すため、『現代語訳吾妻鏡8 承久の乱』(吉川弘文館、2010)で今野慶信氏の訳を参照させてもらうと、
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同じ日の戌の刻に鎌倉で雷が義時の館の釜殿に落ち、人夫一人がこのために死亡した。亭主(義時)はたいそう恐れて大官令禅門(覚阿、大江広元)を招いて相談した。「泰時らの上洛は朝廷に逆らい奉るためである。そして今この怪異があった。あるいはこれは運命が縮まる兆しであろうか」。広元が言った。「君臣の運命は皆、天地が掌るものです。よくよく今度の経緯を考えますと、その是非は天の決断を仰ぐべきもので、全く恐れるには及びません。とりわけこの事は、関東ではよい先例です。文治五年に故幕下将軍(源頼朝)が藤原泰衡を征討した時に、奥州の陣営に雷が落ちました。先例は明らかですが、念のため占なわせてみて下さい」。(安倍)親職・(安倍)泰貞・(安倍)宣賢らは、最も吉であると一致して占なったという。
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といった具合いです。(p114)
ただ、よくよくこの話の経緯を考えてみると、果たしてこれは事実の記録なのか。
文治五年(1189)当時、「家子専一」、即ち頼朝の親衛隊長のような存在だった二十七歳の義時はもちろん奥州合戦に参加していますが、四十二歳の広元はずっと鎌倉にいました。
奥州合戦の陣中の出来事については義時は直接に見聞きした立場ですから、その義時に対して広元があれこれ教えるというのもずいぶん妙な話で、結局、このエピソードがある程度史実を反映しているとしたら、それは精神的に不安定だった義時を、広元が「まあまあ、落ち着いて下さいな。奥州合戦のときも陣中に落雷があったと聞いていますが、結果的には大勝だったではありませんか」と宥めた程度の話ではないか、と思われます。
なお、『現代語訳吾妻鏡8 承久の乱』には、注71で「文治五年八月七日条参照」とあるので同日条を見ると、
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二品着御于陸奥國伊逹郡阿津賀志山邊國見驛。而及半更雷鳴。御旅館有霹靂。上下成恐怖之思云々。
http://adumakagami.web.fc2.com/aduma09-08.htm
ということで、落雷は阿津賀志山での出来事のようですね。
二つの落雷エピソードは、「怪異」がどうしたこうした、という話が大好きな研究者には面白いのかもしれませんが、私には、義時もつまらない奴だな、という感想しか浮かんできません。
しかし、敢えてこのようなエピソードを載せた『吾妻鏡』の編者の意図は何だったのか。
あるいは広元の偉大さを強調するために、義時をダシに使っているのか。
ま、それはともかく、上杉著の続きです。(p165以下)
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また、京都の泰時からの報告を受けて上皇方の貴族たちの罪名が検討されることとなった六月二十三日の評議に際し、広元は「文治元年の沙汰の先規」を調べ上げている。いうまでもなく文治元年の先例とは、広元自身が実務にあたった、治承・寿永の内乱終結後の戦後処理を指している。広元の指揮の下に作成された謀叛人処罰に関する朝廷への要求書は、二十九日に六波羅に届けられている。
広元は、承久の乱における最大の功労者の一人であった。特に義時にとっての広元の存在は、有能な文官官僚であるのみならず、精神的支えともなるかけがえのない宿老であったといえよう。乱後、後鳥羽方についた親広は処刑を免れ、父の所領の一つである出羽国寒河江に隠れ住むことになるが、幕府に戦いを仕掛けるという重罪を犯した親広が命を長らえることができたのは、まさに広元の多大な功績がなせるわざであるというしかない。
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『吾妻鏡』の六月二十三日条には、
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去十六日。武州飛脚今夜丑刻到着鎌倉。合戰無爲。天下靜謐次第。披委細書状。公私喜悦。無物取喩。即時有卿相雲客罪名以下洛中事之定。大官令禪門勘文治元年沙汰先規相計之。整事書。進士判官代隆邦執筆註文云々。
http://adumakagami.web.fc2.com/aduma25-06.htm
とあって、十六日発の飛脚が二十三日着というのはちょっと遅いような感じがしないでもありませんが、この報告を受けて「卿相雲客」(公卿・殿上人)以下の罪名が直ちに決定されます。
この決定の中心にいたのは「大官令禅門」大江広元で、広元は「勘文治元年沙汰先規」を勘案して「事書」を整えます。
ただ、「卿相雲客」の処分は先例があるとしても、三上皇配流・今上帝廃位については先例はありません。
先例どころか、律令法のどこを探しても、臣下がこのような処罰を行なえる規定があるはずもなく、軍事的勝利そのものより、むしろ三上皇配流・今上帝廃位の戦後処理の方がよほど革命的です。
この革命的な戦後処理は誰が発案し、誰が主導して決定したのか。
自邸への落雷に「泰時らの上洛は朝廷に逆らい奉るためである。そして今この怪異があった。あるいはこれは運命が縮まる兆しであろうか」と怯える義時に、このような戦後処理の発案・決定ができたのか。
『承久記』に描かれた北条義時は傲然たる独裁者ですが、『吾妻鏡』での義時は長老の意見をあちこち伺って最後には政子に決めてもらう事務方の役人みたいな感じで、特に落雷エピソードは何とも情けない話です。
上杉氏は「義時はこの出来事を、朝廷を打ち負かした報いではないかと恐れ」云々と書かれていますが、六月八日なので京都攻防戦はまだ始まっておらず、「朝廷を打ち負かした」と過去形で語ることはできません。
正確を期すため、『現代語訳吾妻鏡8 承久の乱』(吉川弘文館、2010)で今野慶信氏の訳を参照させてもらうと、
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同じ日の戌の刻に鎌倉で雷が義時の館の釜殿に落ち、人夫一人がこのために死亡した。亭主(義時)はたいそう恐れて大官令禅門(覚阿、大江広元)を招いて相談した。「泰時らの上洛は朝廷に逆らい奉るためである。そして今この怪異があった。あるいはこれは運命が縮まる兆しであろうか」。広元が言った。「君臣の運命は皆、天地が掌るものです。よくよく今度の経緯を考えますと、その是非は天の決断を仰ぐべきもので、全く恐れるには及びません。とりわけこの事は、関東ではよい先例です。文治五年に故幕下将軍(源頼朝)が藤原泰衡を征討した時に、奥州の陣営に雷が落ちました。先例は明らかですが、念のため占なわせてみて下さい」。(安倍)親職・(安倍)泰貞・(安倍)宣賢らは、最も吉であると一致して占なったという。
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といった具合いです。(p114)
ただ、よくよくこの話の経緯を考えてみると、果たしてこれは事実の記録なのか。
文治五年(1189)当時、「家子専一」、即ち頼朝の親衛隊長のような存在だった二十七歳の義時はもちろん奥州合戦に参加していますが、四十二歳の広元はずっと鎌倉にいました。
奥州合戦の陣中の出来事については義時は直接に見聞きした立場ですから、その義時に対して広元があれこれ教えるというのもずいぶん妙な話で、結局、このエピソードがある程度史実を反映しているとしたら、それは精神的に不安定だった義時を、広元が「まあまあ、落ち着いて下さいな。奥州合戦のときも陣中に落雷があったと聞いていますが、結果的には大勝だったではありませんか」と宥めた程度の話ではないか、と思われます。
なお、『現代語訳吾妻鏡8 承久の乱』には、注71で「文治五年八月七日条参照」とあるので同日条を見ると、
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二品着御于陸奥國伊逹郡阿津賀志山邊國見驛。而及半更雷鳴。御旅館有霹靂。上下成恐怖之思云々。
http://adumakagami.web.fc2.com/aduma09-08.htm
ということで、落雷は阿津賀志山での出来事のようですね。
二つの落雷エピソードは、「怪異」がどうしたこうした、という話が大好きな研究者には面白いのかもしれませんが、私には、義時もつまらない奴だな、という感想しか浮かんできません。
しかし、敢えてこのようなエピソードを載せた『吾妻鏡』の編者の意図は何だったのか。
あるいは広元の偉大さを強調するために、義時をダシに使っているのか。
ま、それはともかく、上杉著の続きです。(p165以下)
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また、京都の泰時からの報告を受けて上皇方の貴族たちの罪名が検討されることとなった六月二十三日の評議に際し、広元は「文治元年の沙汰の先規」を調べ上げている。いうまでもなく文治元年の先例とは、広元自身が実務にあたった、治承・寿永の内乱終結後の戦後処理を指している。広元の指揮の下に作成された謀叛人処罰に関する朝廷への要求書は、二十九日に六波羅に届けられている。
広元は、承久の乱における最大の功労者の一人であった。特に義時にとっての広元の存在は、有能な文官官僚であるのみならず、精神的支えともなるかけがえのない宿老であったといえよう。乱後、後鳥羽方についた親広は処刑を免れ、父の所領の一つである出羽国寒河江に隠れ住むことになるが、幕府に戦いを仕掛けるという重罪を犯した親広が命を長らえることができたのは、まさに広元の多大な功績がなせるわざであるというしかない。
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『吾妻鏡』の六月二十三日条には、
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去十六日。武州飛脚今夜丑刻到着鎌倉。合戰無爲。天下靜謐次第。披委細書状。公私喜悦。無物取喩。即時有卿相雲客罪名以下洛中事之定。大官令禪門勘文治元年沙汰先規相計之。整事書。進士判官代隆邦執筆註文云々。
http://adumakagami.web.fc2.com/aduma25-06.htm
とあって、十六日発の飛脚が二十三日着というのはちょっと遅いような感じがしないでもありませんが、この報告を受けて「卿相雲客」(公卿・殿上人)以下の罪名が直ちに決定されます。
この決定の中心にいたのは「大官令禅門」大江広元で、広元は「勘文治元年沙汰先規」を勘案して「事書」を整えます。
ただ、「卿相雲客」の処分は先例があるとしても、三上皇配流・今上帝廃位については先例はありません。
先例どころか、律令法のどこを探しても、臣下がこのような処罰を行なえる規定があるはずもなく、軍事的勝利そのものより、むしろ三上皇配流・今上帝廃位の戦後処理の方がよほど革命的です。
この革命的な戦後処理は誰が発案し、誰が主導して決定したのか。
自邸への落雷に「泰時らの上洛は朝廷に逆らい奉るためである。そして今この怪異があった。あるいはこれは運命が縮まる兆しであろうか」と怯える義時に、このような戦後処理の発案・決定ができたのか。