投稿者:鈴木小太郎 投稿日:2021年 9月20日(月)12時57分54秒
坂井孝一氏と野口実氏は北条義時を追討すればそれだけで後鳥羽が満足するという純度100%の「義時追討説」ではなく、プラスアルファとして、何らかの幕府への「コントロール」を想定していることを確認した後、本郷和人氏より若い世代の「倒幕説」として、田辺旬氏の「第3講 承久の乱」(高橋典幸編『中世史講義【戦乱篇】』、ちくま新書、2020)を少し検討してみました。
そして、田辺氏の論稿で長村祥知氏が「討幕を目指すのであれば義時ではなく三寅や政子を追討対象としたはずであり、後鳥羽院には幕府そのものを打倒する意図はなかった」と主張されていることを知り、正直、私には長村説を少し軽んじる気持ちが生じました。
これではあまりに形式論に過ぎますし、宛先となった武士たちにとっても、僅か四歳の幼児(藤原頼経、1218-56)や六十六歳の老尼(平政子、1156-1225)を追討しましょうと言われても、なかなか気分が乗らないはずです。
「討幕を目指すのであれば義時ではなく三寅や政子を追討対象としたはず」(by 長村祥知氏、但し伝聞)
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/6f1a44db9f7736795561e163dc58f0ba
ただ、北条政子の「和字御教書」の検討を踏まえて、「実朝暗殺後の鎌倉幕府では、幕政運営や文書発給において、北条政子が実質的な将軍として意思決定を行っており、義時は執権として政子の政務を補佐していた。【中略】こうした幕府政治のありかたを踏まえれば、後鳥羽院の義時追討命令は、政子が主導する幕府の政治体制そのものを否定することを目指したものであり、院の挙兵目的は討幕であったと考えるべきであろう」とする田辺説にも論理の飛躍があり、法的な分析が貧弱のように思われました。
「義時追討後に、他の有力御家人が三寅を擁立して幕府が維持されていくことを想定することも難しい」(by 田辺旬氏)
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/dd9588cbe7b76610f5b943ea1ea30202
本郷和人氏の見解も、やはり法的分析が貧弱のように思われますが、しかし本郷氏の「さらに重要なのは、鎌倉幕府を支える御家人たちの間で、義時追討令とは幕府を倒すことだという認識が共有されていたことです」との指摘は私には説得的なように感じられました。
現代の義時追討説の論者は後鳥羽の「官宣旨」・「院宣」の細かい文言に拘泥していますが、「鎌倉幕府を支える御家人たち」にとってはそんなことはどうでもいい話で、彼らはろくに「官宣旨」・「院宣」を読みもしないまま「義時追討令とは幕府を倒すことだという認識」を共有していたのは間違いなさそうです。
「幕府の本質は「頼朝とその仲間たち」」(by 本郷和人氏)
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/684bbbcb98a9e9354d41cea40cb49e59
「幕府内の権力闘争に勝利した義時は、頼朝の真の後継者として、鎌倉武士の棟梁になった」(by 本郷和人氏)
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/2ff823345f50613aaa82731c9fe2aaab
「朝廷が幕府を倒す命令を下すときには、必ず排除すべき指導者の名を挙げるのです」(by 本郷和人氏)
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/453cc9f910599c456ac20abce15f93d2
さて、川合康氏は『岩波講座日本歴史 第6巻・中世1』(2013)所収の「治承・寿永の内乱と鎌倉幕府の成立」において、「近年では、後鳥羽権力が幕府権力を前提に形成されたことに注目して、院の挙兵は執権北条義時の追討であり、討幕ではないとする見解まで出されているが、こうした見解には、北条政子が事実上の鎌倉殿であったこの段階で、義時追討後も幕府が存続しうる条件が明示されておらず、ただちに賛同できない」とされていますが、「義時追討後も幕府が存続しうる条件」は、言い換えれば義時追討後の戦後構想の問題です。
そこで、野口実氏らの義時追討説派が重視する慈光寺本『承久記』を用いて、「義時追討後も幕府が存続しうる条件」ないし後鳥羽の戦後構想を少し考えてみることにしました。
「義時追討後も幕府が存続しうる条件が明示されておらず、ただちに賛同できない」(by 川合康氏)
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/88df33953e68d18233f06c2c90334d70
坂井孝一氏と野口実氏は北条義時を追討すればそれだけで後鳥羽が満足するという純度100%の「義時追討説」ではなく、プラスアルファとして、何らかの幕府への「コントロール」を想定していることを確認した後、本郷和人氏より若い世代の「倒幕説」として、田辺旬氏の「第3講 承久の乱」(高橋典幸編『中世史講義【戦乱篇】』、ちくま新書、2020)を少し検討してみました。
そして、田辺氏の論稿で長村祥知氏が「討幕を目指すのであれば義時ではなく三寅や政子を追討対象としたはずであり、後鳥羽院には幕府そのものを打倒する意図はなかった」と主張されていることを知り、正直、私には長村説を少し軽んじる気持ちが生じました。
これではあまりに形式論に過ぎますし、宛先となった武士たちにとっても、僅か四歳の幼児(藤原頼経、1218-56)や六十六歳の老尼(平政子、1156-1225)を追討しましょうと言われても、なかなか気分が乗らないはずです。
「討幕を目指すのであれば義時ではなく三寅や政子を追討対象としたはず」(by 長村祥知氏、但し伝聞)
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/6f1a44db9f7736795561e163dc58f0ba
ただ、北条政子の「和字御教書」の検討を踏まえて、「実朝暗殺後の鎌倉幕府では、幕政運営や文書発給において、北条政子が実質的な将軍として意思決定を行っており、義時は執権として政子の政務を補佐していた。【中略】こうした幕府政治のありかたを踏まえれば、後鳥羽院の義時追討命令は、政子が主導する幕府の政治体制そのものを否定することを目指したものであり、院の挙兵目的は討幕であったと考えるべきであろう」とする田辺説にも論理の飛躍があり、法的な分析が貧弱のように思われました。
「義時追討後に、他の有力御家人が三寅を擁立して幕府が維持されていくことを想定することも難しい」(by 田辺旬氏)
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/dd9588cbe7b76610f5b943ea1ea30202
本郷和人氏の見解も、やはり法的分析が貧弱のように思われますが、しかし本郷氏の「さらに重要なのは、鎌倉幕府を支える御家人たちの間で、義時追討令とは幕府を倒すことだという認識が共有されていたことです」との指摘は私には説得的なように感じられました。
現代の義時追討説の論者は後鳥羽の「官宣旨」・「院宣」の細かい文言に拘泥していますが、「鎌倉幕府を支える御家人たち」にとってはそんなことはどうでもいい話で、彼らはろくに「官宣旨」・「院宣」を読みもしないまま「義時追討令とは幕府を倒すことだという認識」を共有していたのは間違いなさそうです。
「幕府の本質は「頼朝とその仲間たち」」(by 本郷和人氏)
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/684bbbcb98a9e9354d41cea40cb49e59
「幕府内の権力闘争に勝利した義時は、頼朝の真の後継者として、鎌倉武士の棟梁になった」(by 本郷和人氏)
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/2ff823345f50613aaa82731c9fe2aaab
「朝廷が幕府を倒す命令を下すときには、必ず排除すべき指導者の名を挙げるのです」(by 本郷和人氏)
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/453cc9f910599c456ac20abce15f93d2
さて、川合康氏は『岩波講座日本歴史 第6巻・中世1』(2013)所収の「治承・寿永の内乱と鎌倉幕府の成立」において、「近年では、後鳥羽権力が幕府権力を前提に形成されたことに注目して、院の挙兵は執権北条義時の追討であり、討幕ではないとする見解まで出されているが、こうした見解には、北条政子が事実上の鎌倉殿であったこの段階で、義時追討後も幕府が存続しうる条件が明示されておらず、ただちに賛同できない」とされていますが、「義時追討後も幕府が存続しうる条件」は、言い換えれば義時追討後の戦後構想の問題です。
そこで、野口実氏らの義時追討説派が重視する慈光寺本『承久記』を用いて、「義時追討後も幕府が存続しうる条件」ないし後鳥羽の戦後構想を少し考えてみることにしました。
「義時追討後も幕府が存続しうる条件が明示されておらず、ただちに賛同できない」(by 川合康氏)
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/88df33953e68d18233f06c2c90334d70