学問空間

「『増鏡』を読む会」、第9回は2月22日(土)、テーマは「上西門院とその周辺」です。

緩募(ゆるぼ)の補遺(その2)

2021-09-08 | 山家浩樹氏『足利尊氏と足利直義』
投稿者:鈴木小太郎 投稿日:2021年 9月 8日(水)12時52分51秒

森茂暁氏は「もっとも注目されるのは袖判下文である。これが以降の尊氏の政権樹立に直接的につながるのであるが、その最初は、建武二年七月二〇日尊氏が袖判下文でもって配下の武士に勲功の賞としての所領をあてがった事例である。元弘三年一二月二九日以来封印してきた発給をここに再開したのである」(p85)と書かれていますが、元弘三年一二月二九日の袖判下文もなかなかミステリアスな文書ですね。
この文書については、「元弘三年の尊氏文書」に関して最初に御教書の説明がなされた後、次のような指摘があります。(p78以下)

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 次に注意すべきは、わずか一点のみだが袖判下文の存在である。袖判下文は武門の棟梁たる将軍が配下の武士に所領を与えるときに使用する文書形式である。尊氏についてみると、後述するようにのちの南北朝時代には戦乱の時代を反映して、尊氏は将軍としておびただしい数の袖判下文を残している。その南北朝時代に本格化する尊氏袖判下文のはしりのような形で、元弘三年末にポツンと一点だけ残っているのである。
 具体的にいうと、それは信濃国小泉荘内室賀郷地頭職を勲功賞として安保光泰にあてがう内容の、元弘三年一二月二九日足利尊氏袖判下文である(横浜市立大学所蔵「安保文書」)。尊氏袖判下文の初見として周知のものであるが、佐藤進一のいう尊氏の主従制的支配権の形成過程を考えるとき重要な材料となる。以下にその文書を掲出する。

      (花押〔足利尊氏〕)
  下  安保新兵衛尉〔光泰〕
    信濃国小泉庄内室賀郷地頭職事
  右以人、為勲功之賞、所補彼職也、早任先例、可領掌之状如件、
    元弘三年十二月廿九日
               (横浜市立大学所蔵「安保文書」)

 なお、これと同じ日付で伊豆国の奈古屋郷・宇佐見郷・多留郷などの地頭職を被官たちに勲功賞として安堵する尊氏御教書が三点ほど残っている(「上杉家文書」等)。袖判下文でないところに注目すべきである。
 一例を掲出する。

  伊豆国奈古屋郷地頭職事、為勲功之
  賞、任先例、可被領掌之状如件、
   元弘三年十二月廿九日 左兵衛督〔足利尊氏〕(花押)
  上椙兵庫蔵人〔憲房〕殿 (「上杉家文書」、『大日本古文書 上杉家文書一』)
-------

既に古文書学の素養が全くない私の能力では対応できない分野に入り込んでしまっていますが、とりあえず若干の問題点だけ整理しておきます。
まず、尊氏はいったいどんな資格でこの袖判下文を発給しているのか。
袖判下文ではなく御教書で地頭職が安堵されている伊豆国の場合、尊氏が知行国主で、上杉重能が国司です。
『建武政権期の国司と守護』(近代文藝社、1993)において、建武新政期の諸国の国司・守護に関する史料を網羅的に精査された吉井功兒氏によれば、尊氏が田方郡奈古屋郷地頭職を上杉憲房に与えた行為は「尊氏管掌国の特殊権限といえよう」(p54)とのことで、この説明は一応説得的です。
他方、信濃国の国司・守護の変遷はなかなか複雑なようですが(吉井、p69以下)、少なくとも尊氏は同国の国司でも守護でもなさそうです。
とすれば、「信濃国小泉庄内室賀郷地頭職」を安保光泰に与えた尊氏の行為は、いったいどのような資格、どのような権限に基づいているのか。
ところで、元弘三年十二月二十九日(小の月なので大晦日)は足利直義が成良親王とともに鎌倉に到着した日でもあります。
この点、桃崎有一郎氏は「建武政権論」(『岩波講座日本歴史第7巻 中世2』、2014)において、

-------
直義が鎌倉に入った一二月二九日は建久元年(一一九〇)に上洛した源頼朝の鎌倉帰着日と同じである。その上洛は頼朝と後白河院が相互の政権を尊重する理想的君臣関係・平時体制を宣言した外交劇であり、帰着翌日の建久二年元日には、幕府構成員の紐帯を確認する最重要儀礼というべき垸飯儀礼(豪奢な食膳と進物献呈)を整備催行して幕府の再始動が宣言された。直義はこれを再演し、(後醍醐の思惑に反して)地方武家政権の発足を表明したのだろう。

https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/99da6cfdc6137a7819a7db87f66b3e69

などと主張され、元弘三年十二月二十九日の重要性を強調されます。
まあ、私は桃崎説にあまり賛成はできないのですが、ただ、建武政権における直義の地位に大きな変化をもたらした画期であることは確かです。
とすると、直義が鎌倉に下った時点で、尊氏にも何か新たな資格・権限が与えられ、その権限が信濃国にも及んでいたと考えるべきなのか。
仮にそうだとしても、安保光泰宛袖判下文が「南北朝時代に本格化する尊氏袖判下文のはしりのような形で、元弘三年末にポツンと一点だけ残ってい」て、以後は建武二年七月二十日まで尊氏袖判下文が発給されていないのは何故なのか。
謎は深まるばかりです。
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緩募(ゆるぼ)の補遺(その1)

2021-09-08 | 山家浩樹氏『足利尊氏と足利直義』
投稿者:鈴木小太郎 投稿日:2021年 9月 8日(水)09時43分6秒

鈴木由美氏『中先代の乱』(中公新書、2021)の「関係略年表」を見ると、北条時行の軍勢は七月十四日・十五日に信濃で小笠原貞宗と合戦しており、十八日に上野に入って、その後、久米川・女影原・小手指原・井出沢と合戦が続き、二十四日に鎌倉に入ります。
当時、鎌倉から京都への連絡に要した時間は最短で三日ですが、緊急事態への対応に忙殺されていたはずの直義が次々と変化する軍事情勢をいちいち尊氏に連絡しているとも思えず、まあ、尊氏は五日くらい遅れて関東の最新情報を知るような感じだったのかなと想像してみると、葦谷六郎義顕宛尊氏袖判下文が発給された七月二十日の時点では、尊氏が知っているのは信濃の反乱が結構な重大事態に発展する可能性もありそうだ、程度のことかと思います。
そうすると、直義が主導した「鎌倉将軍府」は北畠顕家の「陸奥将軍府」に較べて権限が弱く、中先代の乱でそうした「鎌倉将軍府」の欠陥が露呈したので、尊氏は東下に際して「諸国の惣追捕使」としての権限を要求した、という私の一応の見通しからすると、七月二十日は何とも早過ぎる感じがします。
また、対象が越後国というのも微妙な話で、越後国は元々新田一族が盤踞していた土地である上、建武新政で新田義貞が国司に任ぜられ、相当強固な支配を行なっていたようですから、七月二十日付尊氏袖判下文は新田一族との関係で紛争の火種となりそうな感じもします。
正直、この文書が偽文書だったらあれこれ考えずに済むな、などと不謹慎なことを思わないでもないのですが、森茂暁氏によれば、近接する時期に同筆の袖判下文が二通あるのだそうです。
前回投稿で引用した部分の続きです。(p86以下)

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 ここで一つ興味深いことに気づく。同筆で二通の、同時期の袖判下文の存在である。右に新出の建武二年七月二〇日足利尊氏袖判下文を掲出したが、これと文書形式や内容が同じで、かつ日付も極めて近い建武二年八月日足利尊氏袖判下文が「東京大学白川文書」に収まっている。この文書は『白河市史 五』(福島県白河市、一九九一年三月、一二〇頁)に写真版とともに翻刻されている(同書での文書名は「足利尊氏下文)。以下に示そう。

     (花押〔足利尊氏〕)
  下
    可領知蒲田五郎太郎 陸奥国石川庄内本知行分事、
   右人、為勲功之賞、可令領掌之状如件、
     建武二年八月 日             (「東京大学白川文書」)

 これをみると、まず袖の位置に尊氏の花押が据えられ、次行の頭に「下」と書かれた通常の形式であり、内容は「蒲田五郎太郎陸奥国石川庄内本知行分」を勲功の賞としてあてがうというものである。注目すべきは、ふつう「下」字の下には恩賞地の被給与者の名前がくるのにそれがないこと、所領の給付という恒久的な内容の文書の日付が「建武二年八月 日」となっており、その発給日が確定していないことである。これはおそらくこの袖判下文が作成途中であったことによるのではないかと考えたい。尊氏は、こうしたヒナ型というべき文書に被給与者の名前と日にちとを書き入れて下付したのであろう。
 右掲の文書でいまひとつ注目すべきは、その筆跡と前述の建武二年七月二〇日尊氏袖判下文のそれとが酷似していることである。おそらく同一の右筆が書いたものであろう。この筆跡はほかにも認められる(例えば東京大学史料編纂所所蔵、建武二年九月二七日足利尊氏袖判下文、小松茂美『足利尊氏文書の研究Ⅱ』四四号など)。
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森氏は「同筆で二通の、同時期の袖判下文の存在である」と書かれているので、「東京大学白川文書」に続いて別の文書の紹介があってもよさそうですが、それはありません。
ちょっと事情が分かりませんが、七月二〇日付の袖判下文と併せて二通ということでしょうか。
また、森氏は「これはおそらくこの袖判下文が作成途中であったことによるのではないかと考えたい」とされますが、そんな中途半端な文書が何故に白河文書に残っているのかも不思議ですね。
権利者も発給日も確定していない文書を誰かに渡した状況と、その際の尊氏の意図は何だったのか。
ま、それはともかく、近接した時期に同筆の文書があるとのことなので、七月二〇日付袖判下文は偽文書ではないのでしょうね。
なお、上記引用部分に続いて、下記投稿で引用した部分となります。

「この日〔建武二年九月二七日〕は尊氏にとって生涯の一大転機となった」(by 森茂暁氏)
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/75ee41e60e2cb7392de0e4c94f2a0820
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