学問空間

「『増鏡』を読む会」、第9回は2月22日(土)、テーマは「上西門院とその周辺」です。

上杉和彦著『人物叢書 大江広元』(その4)

2021-09-27 | 長村祥知『中世公武関係と承久の乱』
投稿者:鈴木小太郎 投稿日:2021年 9月27日(月)09時05分27秒

『人物叢書 大江広元』(吉川弘文館、2005)の「はじめに」には、

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 当然ながら広元の名は良く知られ、ほとんどすべての日本史の辞書・教科書・概説書の中で、幕府初代別当就任、頼朝にたいする守護・地頭設置の建議などを中心に、広元の事蹟に関する記述に一定の紙幅が割かれている。
 また、幕府政治における彼の役割の大きさを反映して、『吾妻鏡』の叙述に多く登場するなど、彼に関する史料の量は決して少ないとはいえない。だが、『吾妻鏡』の中で広元が登場する多くの場面は、頼朝(あるいは幕府)の政策決定・命令伝達に関わるものであり、純粋な意味で広元個人の事蹟とその意義を語る史料は、意外に乏しいといわざるをえない。これは、広元自身の伝記を著す上での困難さの要因の一つであるといえよう。
 本書の執筆にあたっては、そのような事情を十分に意識しながら、『吾妻鏡』の他、『玉葉』『明月記』などの公家日記、学界未紹介のものを含む文書史料、系図類などに基づいて、広元個人の事蹟を多面的かつ総合的に描くことに努めた。その結果として、単に「将軍に忠実な腹心」あるいは「実直な幕府の役人」というイメージに収斂しきらない、政治家広元の立体的な姿を復元できたならば幸いである。
 なお、広元の晩年の事蹟には、彼の後継者の立場にあった嫡子親広の活動が深く関わっており、広元の子孫の中で、親広の動向については、やや立ち入った叙述を行なった。
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とあります。
承久の乱はまさに広元が「単に「将軍に忠実な腹心」あるいは「実直な幕府の役人」というイメージに収斂しきらない」場面だった訳ですが、果たして上杉氏はここで「政治家広元の立体的な姿を復元できた」のか。
上杉氏は三年前、五十八歳で亡くなられてしまいましたが、『人物叢書 大江広元』の原稿を書かれていたのは四十代前半くらいの時期でしょうね。
正直、私は「かつて「合戦のことはわからない」と語った広元が、東国武士顔負けの強硬論を述べたのはなぜだったのだろうか」以下の叙述に、上杉氏の若さを感じないでもありません。
特に「あるいは子の親広が後鳥羽上皇軍へ参陣したことに、冷静沈着を常とする広元の気持ちが乱されていたのかもしれない」は単なる勘違いだろうなと思います。

上杉和彦(1959-2018)
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%B8%8A%E6%9D%89%E5%92%8C%E5%BD%A6

さて、承久の乱の大勝利後、戦後処理が問題となります。(p164以下)

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 このいわゆる承久の乱の後、後鳥羽方の武士たちは厳しく処断され、後鳥羽・土御門・順徳の三上皇も、それぞれ隠岐・阿波・佐渡に配流され(土御門は挙兵に関わりを持たなかったが、自ら望んで父後鳥羽・弟順徳とともに配流された)、仲恭天皇は廃位させられる。また、従来の京都守護の職を発展継承した六波羅探題が新たに置かれ、朝廷の監視・平安京内外の警護・西国地域の統括などにあたることとなり、上皇および上皇方の貴族や武士から没収された所領が、戦功をあげた御家人たちに恩賞として分け与えられている。
 以上紹介したものの他にも、『吾妻鏡』には、承久の乱における広元の存在感の大きさを示す記事がいくつも見えている。六月八日に義時邸の釜殿に落雷があり、一人の匹夫(身分の低い者)が落命した。義時はこの出来事を、朝廷を打ち負かした報いではないかと恐れ、広元に尋ねたところ、広元は、文治五年(一一八九)の奥州合戦の際に、幕府の陣に落雷があった先例にふれ、むしろ「関東において佳例」であると答えている。
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いったん、ここで切ります。
細かいことを言うと、土御門院は最初は土佐に流され、二年後の貞応二年(1223)五月に阿波に移っていますね。
『増鏡』には、

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 中の院は初めよりしろしめさぬ事なれば、東にもとがめ申さねど、父の院はるかに移らせ給ひぬるに、のどかにて都にてあらんこと、いと恐れありと思されて、御心もて、その年閏十月十日土佐国の幡多といふ所に渡らせ給ひぬ。去年の二月ばかりにや若宮いでき給へり。承明門院の御兄に通宗の宰相中将とて、若くて失せ給ひし人の女の御腹なり。やがてかの宰相の弟に、通方といふ人の家にとどめ奉り給ひて、近くさぶらひける北面の下臈一人、召次などばかりぞ、御供仕うまつりける。いとあやしき御手輿にて下らせ給ふ。道すがら雪かきくらし、風吹きあれ、吹雪して来しかた行く先も見えず、いとたへがたきに、御袖もいたく氷りてわりなきこと多かるに、
  うき世にはかかれとてこそ生まれけめことわり知らぬわが涙かな
せめて近き程にと東より奏したりければ、後には阿波の国に移らせ給ひにき。

https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/8111effe1a7eac3ee2ee79a29d92cb46

とあります。
この「若宮」(阿波院の宮)が後の後嵯峨天皇ですね。
さて、『吾妻鏡』の六月八日の記事は、

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同日戌刻。鎌倉雷落于右京兆舘之釜殿。疋夫一人爲之被侵畢。亭主頗怖畏。招大官令禪門示合云。武州等上洛者。爲奉傾朝庭也。而今有此怪。若是運命之可縮端歟者。禪門云。君臣運命。皆天地之所掌也。倩案今度次第。其是非宜仰天道之决断。全非怖畏之限。就中此事。於關東爲佳例歟。文治五年。故幕下將軍征藤泰衡之時。於奥州軍陣雷落訖。先規雖明故可有卜筮者。親職。泰貞。宣賢等。最吉之由同心占之云々。

http://adumakagami.web.fc2.com/aduma25-06.htm

というものですが、落雷に怯える義時は、幕府の最高実力者としては些か情けない感じです。
何故に『吾妻鏡』にはこのような記事が入っているのか。
コメント
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