投稿者:鈴木小太郎 投稿日:2021年 9月16日(木)10時19分53秒
吉井功兒氏の『建武政権期の国司と守護』(近代文藝社、1993)に戻ろうかとも思いましたが、信濃に関しては吉井著の記述に若干の混乱が窺われ、また内容も多少古くなってしまっているので、近時の論文で修正を加えつつ検討して行くと非常に分かりにくい話になりそうです。
現在の私の関心は中先代の乱後の僅か二ヶ月で後醍醐と尊氏の関係が破綻した原因の解明にあり、建武新政期の信濃の動向は重要なヒントになりそうな感じはするのですが、信濃の中世史はなかなか複雑で、このまま信濃だけに焦点を合わせているといたずらに細部に嵌り込んでしまう不安を感じます。
そこで、改めて視野を拡大するために、暫くは中先代の乱に関する最新の研究成果である鈴木由美氏の『中先代の乱』(中公新書、2021)の内容を検討しつつ、その間に信濃中世史に関する最新の文献を読み込んで、必要があれば吉井著の検討に戻りたいと思います。
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『中先代の乱 北条時行、鎌倉幕府再興の夢』
鎌倉幕府滅亡から二年後の一三三五年、北条高時の遺児時行が信濃で挙兵。動揺する後醍醐天皇ら建武政権を尻目に進撃を続け、鎌倉を陥落させた。二十日ほど後、足利尊氏によって鎮圧されるも、この中先代の乱を契機に歴史は南北朝時代へと動き出す――。本書は、同時代に起きた各地の北条氏残党による蜂起や陰謀も踏まえ、乱の内実を読み解く。また、その後の時行たちの動向も追い、時流に抗い続けた人々の軌跡を描く。
https://www.chuko.co.jp/shinsho/2021/07/102653.html
同書の構成は、
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序章 鎌倉幕府と北条氏
第1章 落日の鎌倉幕府
第2章 北条与党の反乱
第3章 陰謀と挙兵─中先代の乱①
第4章 激戦と鎮圧─中先代の乱②
第5章 知られざる「鎌倉合戦」
第6章 南朝での活動
終章 中先代の乱の意義と影響
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となっていて、私の主たる関心の対象は第3・4章あたりになりますが、序章から順番に見て行くことにします。
序章では、近時の研究動向を反映した征夷大将軍の説明が注目されます。(p4以下)
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しかし、頼朝は「征夷大将軍」という官職そのものに就任したかったわけではなかった。頼朝はただ「大将軍」になりたいと希望していて、朝廷側が征東大将軍などのいくつかの候補の中から、消去法で征夷大将軍を選んだという(櫻井 二〇一三)。頼朝にとっては、結果的に征夷大将軍に就任したに過ぎないともいえる。
それでは、なぜ頼朝は「大将軍」を望んだのだろうか。当時の武士社会では、平安時代に鎮守府将軍に就任し武勇の誉れが高い藤原秀郷や平貞盛、平良文、頼朝の先祖である源頼義を、単に「将軍」と呼ぶことが多く、鎮守府将軍任官と無関係に勇敢な者の「将軍」と呼ぶこともあった(以下、下村 二〇〇八・二〇一八)。
そして武士たちは彼ら「将軍」を「曩祖(先祖)」として尊崇した。「将軍」の故実(儀式・軍人などの先例)を継承し、「将軍」の嫡流であることが、武士たちにとって権威となっていた。頼朝は「将軍」に勝る権威を得るために、「大将軍」を望んだという。
征夷大将軍
このように、頼朝は征夷大将軍への任官を必ずしも望んでいたわけではなかったが、彼以降の鎌倉幕府の歴代首長は、征夷大将軍に任官している。征夷大将軍は、武家政権の首長が就任する官職として定着したのだ。それは鎌倉幕府だけではなく、室町幕府・江戸幕府も同様である。
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「櫻井 二〇一三」とありますが、「主要参考文献」に載っている櫻井陽子氏の「頼朝の征夷大将軍任官をめぐって―『山槐荒涼抜書要』の翻刻と紹介―」という論文の初出は『明月記研究』第9号(2004)で、それが『『平家物語』本文考』(汲古書院、2013)に収録されています。
この櫻井論文は歴史研究者にけっこうな衝撃を与えましたが、歴史研究者側からの反応の代表が下村周太郎氏の「「将軍」と「大将軍」─源頼朝の征夷大将軍任官とその周辺」(『歴史評論』698号、2008)ですね。
さて、鈴木氏は「征夷大将軍は、武家政権の首長が就任する官職として定着したのだ。それは鎌倉幕府だけではなく、室町幕府・江戸幕府も同様である」と言われますが、少なくとも鎌倉時代においては、「武家政権の首長」としての実質を備えた人物が征夷大将軍に就任したのはせいぜい源氏三代までで、以後の摂家将軍・親王将軍は京都から下ってきた高貴な身分の少年が就く名目的な地位になってしまっています。
私は、一度はそうした名目的存在になってしまった征夷大将軍が「武家政権の首長が就任する官職として」復活したのは尊氏の時代だと考えますが、この点は例えば岡野友彦氏の『北畠親房─大日本は神国なり─』(ミネルヴァ書房、2009)などに即して少し考えたことがあり、最近も田中大喜氏の『新田一族の中世 「武家の棟梁」への道』(吉川弘文館、2015)に即して改めて少し検討してみました。
「征夷大将軍」はいつ重くなったのか─論点整理を兼ねて
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/3e1dbad14b584c1c8b8eb12198548462
「しかるに周知の如く、護良親王は自ら征夷大将軍となることを望み」(by 岡野友彦氏)
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/924134492236966c03f5446242972b52
四月初めの中間整理(その4)
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/cddb89fb0fa62d933481f0cab6994b2c
田中大喜氏「『太平記』のなかの新田氏─プロローグ」(その2)
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/a13beacb23bb1896cbee9eeff3df0c03
吉井功兒氏の『建武政権期の国司と守護』(近代文藝社、1993)に戻ろうかとも思いましたが、信濃に関しては吉井著の記述に若干の混乱が窺われ、また内容も多少古くなってしまっているので、近時の論文で修正を加えつつ検討して行くと非常に分かりにくい話になりそうです。
現在の私の関心は中先代の乱後の僅か二ヶ月で後醍醐と尊氏の関係が破綻した原因の解明にあり、建武新政期の信濃の動向は重要なヒントになりそうな感じはするのですが、信濃の中世史はなかなか複雑で、このまま信濃だけに焦点を合わせているといたずらに細部に嵌り込んでしまう不安を感じます。
そこで、改めて視野を拡大するために、暫くは中先代の乱に関する最新の研究成果である鈴木由美氏の『中先代の乱』(中公新書、2021)の内容を検討しつつ、その間に信濃中世史に関する最新の文献を読み込んで、必要があれば吉井著の検討に戻りたいと思います。
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『中先代の乱 北条時行、鎌倉幕府再興の夢』
鎌倉幕府滅亡から二年後の一三三五年、北条高時の遺児時行が信濃で挙兵。動揺する後醍醐天皇ら建武政権を尻目に進撃を続け、鎌倉を陥落させた。二十日ほど後、足利尊氏によって鎮圧されるも、この中先代の乱を契機に歴史は南北朝時代へと動き出す――。本書は、同時代に起きた各地の北条氏残党による蜂起や陰謀も踏まえ、乱の内実を読み解く。また、その後の時行たちの動向も追い、時流に抗い続けた人々の軌跡を描く。
https://www.chuko.co.jp/shinsho/2021/07/102653.html
同書の構成は、
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序章 鎌倉幕府と北条氏
第1章 落日の鎌倉幕府
第2章 北条与党の反乱
第3章 陰謀と挙兵─中先代の乱①
第4章 激戦と鎮圧─中先代の乱②
第5章 知られざる「鎌倉合戦」
第6章 南朝での活動
終章 中先代の乱の意義と影響
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となっていて、私の主たる関心の対象は第3・4章あたりになりますが、序章から順番に見て行くことにします。
序章では、近時の研究動向を反映した征夷大将軍の説明が注目されます。(p4以下)
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しかし、頼朝は「征夷大将軍」という官職そのものに就任したかったわけではなかった。頼朝はただ「大将軍」になりたいと希望していて、朝廷側が征東大将軍などのいくつかの候補の中から、消去法で征夷大将軍を選んだという(櫻井 二〇一三)。頼朝にとっては、結果的に征夷大将軍に就任したに過ぎないともいえる。
それでは、なぜ頼朝は「大将軍」を望んだのだろうか。当時の武士社会では、平安時代に鎮守府将軍に就任し武勇の誉れが高い藤原秀郷や平貞盛、平良文、頼朝の先祖である源頼義を、単に「将軍」と呼ぶことが多く、鎮守府将軍任官と無関係に勇敢な者の「将軍」と呼ぶこともあった(以下、下村 二〇〇八・二〇一八)。
そして武士たちは彼ら「将軍」を「曩祖(先祖)」として尊崇した。「将軍」の故実(儀式・軍人などの先例)を継承し、「将軍」の嫡流であることが、武士たちにとって権威となっていた。頼朝は「将軍」に勝る権威を得るために、「大将軍」を望んだという。
征夷大将軍
このように、頼朝は征夷大将軍への任官を必ずしも望んでいたわけではなかったが、彼以降の鎌倉幕府の歴代首長は、征夷大将軍に任官している。征夷大将軍は、武家政権の首長が就任する官職として定着したのだ。それは鎌倉幕府だけではなく、室町幕府・江戸幕府も同様である。
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「櫻井 二〇一三」とありますが、「主要参考文献」に載っている櫻井陽子氏の「頼朝の征夷大将軍任官をめぐって―『山槐荒涼抜書要』の翻刻と紹介―」という論文の初出は『明月記研究』第9号(2004)で、それが『『平家物語』本文考』(汲古書院、2013)に収録されています。
この櫻井論文は歴史研究者にけっこうな衝撃を与えましたが、歴史研究者側からの反応の代表が下村周太郎氏の「「将軍」と「大将軍」─源頼朝の征夷大将軍任官とその周辺」(『歴史評論』698号、2008)ですね。
さて、鈴木氏は「征夷大将軍は、武家政権の首長が就任する官職として定着したのだ。それは鎌倉幕府だけではなく、室町幕府・江戸幕府も同様である」と言われますが、少なくとも鎌倉時代においては、「武家政権の首長」としての実質を備えた人物が征夷大将軍に就任したのはせいぜい源氏三代までで、以後の摂家将軍・親王将軍は京都から下ってきた高貴な身分の少年が就く名目的な地位になってしまっています。
私は、一度はそうした名目的存在になってしまった征夷大将軍が「武家政権の首長が就任する官職として」復活したのは尊氏の時代だと考えますが、この点は例えば岡野友彦氏の『北畠親房─大日本は神国なり─』(ミネルヴァ書房、2009)などに即して少し考えたことがあり、最近も田中大喜氏の『新田一族の中世 「武家の棟梁」への道』(吉川弘文館、2015)に即して改めて少し検討してみました。
「征夷大将軍」はいつ重くなったのか─論点整理を兼ねて
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/3e1dbad14b584c1c8b8eb12198548462
「しかるに周知の如く、護良親王は自ら征夷大将軍となることを望み」(by 岡野友彦氏)
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/924134492236966c03f5446242972b52
四月初めの中間整理(その4)
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田中大喜氏「『太平記』のなかの新田氏─プロローグ」(その2)
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/a13beacb23bb1896cbee9eeff3df0c03