第23回配信です。
1.「しんぶん赤旗」(1月21日付)に近藤成一氏の書評
歴史科学協議会代表理事(2019-2022)
https://researchmap.jp/read0170895/committee_memberships/26014018
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1970年代から80年代にかけて中世法の研究が著しく進み、それまでの見方が一新された。それをけん引した世代の、次の次の世代によって、いま中世法の斬新な研究が次々に発表されている。現在の中世法研究をけん引している一人である著者が改めて「御成敗式目を取り上げたのが本書である。
中世法は、それを必要とする者に発見されることによって効力を有した。そのなかで御成敗式目は例外的に「有名な法」であった。これが半世紀前の研究成果であるが、著者はそれを踏まえた上で一歩を進める。「この法がどうして生まれたのか、どうして有名な法になったのか」と。【後略】
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2.佐藤雄基氏本人の紹介
「日本の歴史上、最も有名な武家法「御成敗式目」はなにが画期的だったのか? 気鋭の歴史学者・佐藤雄基に訊く」
https://realsound.jp/book/2023/08/post-1417874.html
3.荘園制は国家論と関係があるのか?
歴史科学協議会代表理事(2019-2022)
https://researchmap.jp/read0170895/committee_memberships/26014018
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1970年代から80年代にかけて中世法の研究が著しく進み、それまでの見方が一新された。それをけん引した世代の、次の次の世代によって、いま中世法の斬新な研究が次々に発表されている。現在の中世法研究をけん引している一人である著者が改めて「御成敗式目を取り上げたのが本書である。
中世法は、それを必要とする者に発見されることによって効力を有した。そのなかで御成敗式目は例外的に「有名な法」であった。これが半世紀前の研究成果であるが、著者はそれを踏まえた上で一歩を進める。「この法がどうして生まれたのか、どうして有名な法になったのか」と。【後略】
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2.佐藤雄基氏本人の紹介
「日本の歴史上、最も有名な武家法「御成敗式目」はなにが画期的だったのか? 気鋭の歴史学者・佐藤雄基に訊く」
https://realsound.jp/book/2023/08/post-1417874.html
3.荘園制は国家論と関係があるのか?
p31以下
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ここで問われるのは、どうして幕府は朝廷を滅ぼすようなことをしなかったのかである。幕府首脳部は確かに後鳥羽院個人のことは強く警戒し、後鳥羽院を隠岐に、その息子の順徳院も佐渡、土御門院は土佐(のちに阿波)に配流し、順徳の皇子でわずか四歳の仲恭天皇を退位させた。しかし、幕府は代わりに後鳥羽の同母兄を後高倉院(皇位にはついていないが院号を認められた)として院政を行わせ、その息子で十歳の茂仁〔ゆたひと〕王を即位させることで(後堀河天皇)、朝廷政治の維持継続を図った。なぜそうしたのかは、日本中世史最大の難問の一つだった。
一つの要因は、当時の社会の統合の仕組みである。日本列島では大きな地域的まとまりが成長しにくく、京都から独立するような地方権力が生まれない構造になっていた(一五頁に前述)。政治権力も同じように分散的で、幕府もまた複数ある権門の一つに過ぎず、武士全体を統合しているわけではない。こうした権門や武士たちが依拠していた荘園制というシステムは、朝廷・天皇の存在を前提にしてつくられ、京都の支配者集団と全国各地の荘園を個別的・直接的に結び、列島全体を穏やかに統合していた。それ自体は強固ではないが、蜘蛛の糸のように粘り強く張り巡らされた統合の仕組みを一掃して、新たな社会統合の仕組みをつくることは難しかった。実朝の暗殺以降の急展開の結果、にわかに国政の中心を担うようになった北条氏に、新しい秩序を築くという発想はなく、源頼朝の路線を継承せざるを得なかった。
さらに、承久の乱の勝利自体が、勝ち馬に乗る武士たちの動きに支えられたものだったことに注意したい。承久の乱後の幕府の課題は、かつて頼朝が直面したのと同じく、機内・西国で私利私欲を追及する武士たちを抑え、秩序を回復することだった。諸権門の集まる京都には、後鳥羽院方に付かなかった貴族や大寺社の勢力も強固に残っており、新たに力を得た武士たちも官職を欲しがり、朝廷の権威に結びつこうとしていた。北条氏にとって朝廷を蔑ろにすることはできなかったのである。
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佐藤説もまた、定義なき国家論であり、国家の本質論なき国家論。
荘園制は所詮は経済システム。
しかし、通常の国家概念は経済システムと連関しているのか。
資本主義国家、社会主義国家という表現は日常的に用いられているが、その場合、資本主義・社会主義は国家概念そのものに何の関係があるのか。
慈光寺本の合戦記事の信頼性評価(その8)─「9.武田信光と小笠原長清の密談 4行」
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/0353816ce8ab1461a133fe452a9d4f93
佐藤氏は慈光寺本の悪影響を相当受けている。
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ここで問われるのは、どうして幕府は朝廷を滅ぼすようなことをしなかったのかである。幕府首脳部は確かに後鳥羽院個人のことは強く警戒し、後鳥羽院を隠岐に、その息子の順徳院も佐渡、土御門院は土佐(のちに阿波)に配流し、順徳の皇子でわずか四歳の仲恭天皇を退位させた。しかし、幕府は代わりに後鳥羽の同母兄を後高倉院(皇位にはついていないが院号を認められた)として院政を行わせ、その息子で十歳の茂仁〔ゆたひと〕王を即位させることで(後堀河天皇)、朝廷政治の維持継続を図った。なぜそうしたのかは、日本中世史最大の難問の一つだった。
一つの要因は、当時の社会の統合の仕組みである。日本列島では大きな地域的まとまりが成長しにくく、京都から独立するような地方権力が生まれない構造になっていた(一五頁に前述)。政治権力も同じように分散的で、幕府もまた複数ある権門の一つに過ぎず、武士全体を統合しているわけではない。こうした権門や武士たちが依拠していた荘園制というシステムは、朝廷・天皇の存在を前提にしてつくられ、京都の支配者集団と全国各地の荘園を個別的・直接的に結び、列島全体を穏やかに統合していた。それ自体は強固ではないが、蜘蛛の糸のように粘り強く張り巡らされた統合の仕組みを一掃して、新たな社会統合の仕組みをつくることは難しかった。実朝の暗殺以降の急展開の結果、にわかに国政の中心を担うようになった北条氏に、新しい秩序を築くという発想はなく、源頼朝の路線を継承せざるを得なかった。
さらに、承久の乱の勝利自体が、勝ち馬に乗る武士たちの動きに支えられたものだったことに注意したい。承久の乱後の幕府の課題は、かつて頼朝が直面したのと同じく、機内・西国で私利私欲を追及する武士たちを抑え、秩序を回復することだった。諸権門の集まる京都には、後鳥羽院方に付かなかった貴族や大寺社の勢力も強固に残っており、新たに力を得た武士たちも官職を欲しがり、朝廷の権威に結びつこうとしていた。北条氏にとって朝廷を蔑ろにすることはできなかったのである。
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佐藤説もまた、定義なき国家論であり、国家の本質論なき国家論。
荘園制は所詮は経済システム。
しかし、通常の国家概念は経済システムと連関しているのか。
資本主義国家、社会主義国家という表現は日常的に用いられているが、その場合、資本主義・社会主義は国家概念そのものに何の関係があるのか。
慈光寺本の合戦記事の信頼性評価(その8)─「9.武田信光と小笠原長清の密談 4行」
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/0353816ce8ab1461a133fe452a9d4f93
佐藤氏は慈光寺本の悪影響を相当受けている。