第212回配信です。
小川論文の「足利方主要武将名頻度表」は客観的資料として役に立つ。
資料:小川信「『梅松論』諸本の研究」(その3)〔2024-10-30〕
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/8eae47e3f7e0158b13537df6c17b460e
ただ、諸氏の重要性は登場頻度だけで決める訳にもいかない。
人名の書き方に注意しつつ、上巻・下巻の内容を概観しておきたい。
資料:小川信「『梅松論』諸本の研究」(その3)〔2024-10-30〕
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/8eae47e3f7e0158b13537df6c17b460e
ただ、諸氏の重要性は登場頻度だけで決める訳にもいかない。
人名の書き方に注意しつつ、上巻・下巻の内容を概観しておきたい。
上巻、流布本(延宝本)では全部で693行。
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1 先代の事(17行)
「有人」「本人」(質問者)、「なにがしの法印」(語り手)
2 将軍の事(38行)
3 承久の乱の事(43行)
4 将軍家と執権の事(19行)
「次に当今、量仁。又当今、豊仁。凡人皇始て、神武天皇より後嵯峨院御宇にいたるまで九十余代にてまします」
5 皇位継承の事(68行)
「後嵯峨院、寛元年中に崩御の刻」
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1 先代の事(17行)
「有人」「本人」(質問者)、「なにがしの法印」(語り手)
2 将軍の事(38行)
3 承久の乱の事(43行)
4 将軍家と執権の事(19行)
「次に当今、量仁。又当今、豊仁。凡人皇始て、神武天皇より後嵯峨院御宇にいたるまで九十余代にてまします」
5 皇位継承の事(68行)
「後嵯峨院、寛元年中に崩御の刻」
「後醍醐院の御時、当今の勅使には吉田大納言定房卿、持明院の御使には日野中納言の次男の卿、京都・鎌倉の往復再三に及ぶ。勅使と院の御使の両人関東におゐて問答事多しといへども、定房卿申されけるは…」
「後醍醐院逆鱗にたへずして」
6 先帝遷幸の事(35行)
「当国の守護人、佐々木隠岐守清高」
7 隠岐国到着の事(22行)
8 隠岐脱出船上山の事(60行)
「先帝の御子、山の座主にておはしける大塔宮、御還俗有て兵部卿親王護良とぞ申ける」
「楠木兵衛尉正成」
「千種の忠顕朝臣」
「奈和又太郎と申、福祐の仁」
9 将軍旗挙げの事(36行)
「播磨国の赤松入道円心」
「当将軍尊氏」
「細川阿波守和氏、上杉伊豆守重能、兼日潜に綸旨を給て今度御上洛の時、近江国鏡の駅におひて…」
10 六波羅攻めの事(46行)
「将軍の御内に設楽五郎左衛門尉」
「細川阿波守申されけるは、……一方をあけて没落せしめば」
11 新田義貞挙兵の事(54行)
「新田左衛門佐義貞」
「義詮の御所四歳の御時大将として御輿にめされて義貞と御同道有て」「若君」
「細川阿波守・舎弟源蔵人・掃部助兄弟三人」「和氏・頼春・師氏兄弟三人」
12 天下一統の事(20行)
「武家楠・伯耆守・赤松以下山陽・山陰両道の輩、朝恩に誇る事、傍若無人ともいつつべし」
「窪所と号して土佐守兼光・大田大夫判官親光・冨部大舎人頭・参河守師直等を衆中として…」
「むかしのごとく武者所をおかる。新田の人々をもて頭人として」
「大将軍の叡慮無双にして御昇進は申に不及、武蔵・相模、其外数ヶ国の守をもて、頼朝卿の例に任て御受領あり」
「次に関東へは同年の冬、成良親王征夷将軍になして御下向なり。下の御所左馬頭殿供奉し奉られしかば、東八ヶ国の輩、大略属し奉て下向す。鎌倉は去夏の乱に地を払ひしかども、太守御座ありければ庶民安堵の思ひをなしけり」
13 公武水火の事(37行)
「兵部卿親王護良・新田左金吾義貞・正成・長年、潜に叡慮を受て打立事度々に及といへども、将軍に付奉る軍勢其数を知らざるあいだ」
「同十一月親王をば細川陸奥守顕氏請取奉て関東へ御下向あり」
14 関東合戦の事(28行)
「守護小笠原信濃守貞宗京都へ馳申間」
「渋川刑部・岩松兵部、武蔵女影原におひて終日合戦に及ぶといへども」
「小山下野守秀朝」
「下御所左馬頭殿、鎌倉を立て御向ありし」
「同日薬師堂谷の御所におひて兵部卿親王を失ひ奉る。御痛しさ申も中々おろかなり」
「上野親王成良・義詮六歳にしておなじく相伴ひ奉る」
「当国の工藤入江左衛門尉」
「爰に細川四郎入道義阿、湯治の為にとて相模の川村山に有けるところへ、子息陸奥守顕氏の方より…。所詮一命を奉り思事なく子孫に合戦の忠を致さすべしとて、使の前にて自害す。…帯刀先生直俊・左近大夫将監政氏等討死す。天下静謐の後、彼義阿の為とて、子息、奥州・洛中の安国寺、讃州の長興寺を建立せらる。命を一塵よりも軽くして没後に其威を上られし事、ありがたき事なりとぞ人申合ける」
15 中先代の事(42行)
「将軍御奏聞ありけるは、関東におひて凶徒既合戦をいたし鎌倉に責入間、直義朝臣無勢にして、禦ぎ戦べき智略なきによて海道を引退きし其聞えあるうへは、暇を給て合力を加べき旨……」
「先陣の軍士、安保丹後守入海を渡して合戦をいたし敵を追散して其見疵を蒙間」
「将軍御兄弟鎌倉に打入二階堂の別当に御座ありしかば」
「京都よりは人々親類を使者として東夷誅罰を各賀し申さる。又、勅使、中院蔵人頭中将具光朝臣、関東に下着し今度東国の逆浪速に静謐する条、叡感再三也。但、軍兵の賞におゐては京都に印〔ヲシテ〕、綸旨もて宛行るべき也。先早々に帰洛あるべしと也。勅答には大御所急参べきよし御申有けるところに、下御所仰られけるは、御上洛不可然候。其故は…」
「師直以下の諸大名屋形軒をならべける程に」
「今度両大将に供奉の人々には、信濃、常陸の闕所を勲功の賞に宛行なはるゝ処に、義貞を討死の大将として関東へ下向のよし風聞しける間、元義貞の分国上野の守護職を上杉武庫禅門に任せらる」
16 義貞・尊氏合戦の事(47行)
「高越後守を大将として大勢をさしそへて海道へつかはさる。師泰に仰せられけるは…」
「御方利をうしなひしあいだ、武家の輩おほく降参して義貞に属す。名字ははゞかりあるによて是を書ず」→『太平記』では手越河原の合戦で佐々木道誉が義貞方へ下ったとある。
「しかるあいだ、下御所は箱根山に引籠り、水のみを堀切て要害として御座ありけるに、仁木・細川・師直・師泰以下相残一人当千の輩、陣を取。将軍は先日勅使具光朝臣下向の時、……われ龍顔に昵近し奉て勅命をうく、恩言といひ叡慮と云、いつの世いつの時なりとも君の御芳志をわすれ奉るべきにあらざれば、今度の事条々、御所存にあらずと、思食けるゆへに政務を下御所に御譲有て、細川源蔵人頼春並近習両三輩計、召具て潜に浄光明寺に御座ありしほどに、海道の合戦難儀たるよし聞食て将軍仰られけるは、守殿命を落されば我ありても無益なり。但、違勅の心中におひてさらに思食さず。是正に天の知処也。八幡大菩薩も御加護あるべし」
「小山・結城・長沼が一族」
「此輩は治承のいにしへ頼朝義兵の時最前に馳参じて忠節をいたしたりしに、尾山下野大掾藤原政光入道の子どもの連枝三人の子孫也。嚢祖武蔵守兼鎮守府将軍秀郷朝臣、承平に朝敵平将門を討取て、子々孫々鎮守府将軍の職を蒙りし五代将軍の後胤也。累代武略の誉を残し弓馬の芸の達者なり」
「武蔵の大田の庄を小山の常犬丸に行はる。是は由緒の地なり」
「又、常陸の関の郡を結城に行はる。今度戦場の御下文のはじめ也」
17 義貞敗退の事(24行)
「京勢駿河に引退き佐野山に陣をとる処に、大友左近将監官軍として其勢三百余騎にて下向したりけるが、御方に参ずべきよし申ける間、子細有まじき旨仰られけるほどに当所の合戦矢合の時分に、御方に加りて合戦の忠節をいたしければ、敵陣はやくやぶれて二条中将為冬を始として京方の大勢討れぬ」
「爰におひて畠山安房入道討死す」
「足柄・箱根の両大将一手に成て」
18 天竜川の橋の事(56行)
「むかしより東武士西に向事、寿永三年には範頼・義経、承久には泰時并時房、今年建武二年には御所尊氏・直義第三ヶ度也」
「去程に、御手分あり。勢多は下御所大将、副将軍は越後守師泰、淀は畠山上総介。芋洗は吉見参河守。宇治へは将軍御向あるべき也」
「結城の山河の家人、野木与一兵衛尉并中茎二人が一人当千の武略を顕して戦しほどに、将軍御感のあまりに御腰物を直に両人に給し事、生々世々の面目とぞ見えし」
「細川卿公定禅を大将として、赤松入道円心其外四国・中国の間に、兼日御教書を給輩数をしらず」
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行数ランキング(全683行)
5 皇位継承の事(68行)
8 隠岐脱出船上山の事(60行)
18 天竜川の橋の事(56行)
11 新田義貞挙兵の事(54行)
10 六波羅攻めの事(46行)
資料:『梅松論』に頻出する「後嵯峨院の御遺勅」〔2024-09-26〕
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/8d366f209c7533ddae11465d5385f680
6 先帝遷幸の事(35行)
「当国の守護人、佐々木隠岐守清高」
7 隠岐国到着の事(22行)
8 隠岐脱出船上山の事(60行)
「先帝の御子、山の座主にておはしける大塔宮、御還俗有て兵部卿親王護良とぞ申ける」
「楠木兵衛尉正成」
「千種の忠顕朝臣」
「奈和又太郎と申、福祐の仁」
9 将軍旗挙げの事(36行)
「播磨国の赤松入道円心」
「当将軍尊氏」
「細川阿波守和氏、上杉伊豆守重能、兼日潜に綸旨を給て今度御上洛の時、近江国鏡の駅におひて…」
10 六波羅攻めの事(46行)
「将軍の御内に設楽五郎左衛門尉」
「細川阿波守申されけるは、……一方をあけて没落せしめば」
11 新田義貞挙兵の事(54行)
「新田左衛門佐義貞」
「義詮の御所四歳の御時大将として御輿にめされて義貞と御同道有て」「若君」
「細川阿波守・舎弟源蔵人・掃部助兄弟三人」「和氏・頼春・師氏兄弟三人」
12 天下一統の事(20行)
「武家楠・伯耆守・赤松以下山陽・山陰両道の輩、朝恩に誇る事、傍若無人ともいつつべし」
「窪所と号して土佐守兼光・大田大夫判官親光・冨部大舎人頭・参河守師直等を衆中として…」
「むかしのごとく武者所をおかる。新田の人々をもて頭人として」
「大将軍の叡慮無双にして御昇進は申に不及、武蔵・相模、其外数ヶ国の守をもて、頼朝卿の例に任て御受領あり」
「次に関東へは同年の冬、成良親王征夷将軍になして御下向なり。下の御所左馬頭殿供奉し奉られしかば、東八ヶ国の輩、大略属し奉て下向す。鎌倉は去夏の乱に地を払ひしかども、太守御座ありければ庶民安堵の思ひをなしけり」
13 公武水火の事(37行)
「兵部卿親王護良・新田左金吾義貞・正成・長年、潜に叡慮を受て打立事度々に及といへども、将軍に付奉る軍勢其数を知らざるあいだ」
「同十一月親王をば細川陸奥守顕氏請取奉て関東へ御下向あり」
14 関東合戦の事(28行)
「守護小笠原信濃守貞宗京都へ馳申間」
「渋川刑部・岩松兵部、武蔵女影原におひて終日合戦に及ぶといへども」
「小山下野守秀朝」
「下御所左馬頭殿、鎌倉を立て御向ありし」
「同日薬師堂谷の御所におひて兵部卿親王を失ひ奉る。御痛しさ申も中々おろかなり」
「上野親王成良・義詮六歳にしておなじく相伴ひ奉る」
「当国の工藤入江左衛門尉」
「爰に細川四郎入道義阿、湯治の為にとて相模の川村山に有けるところへ、子息陸奥守顕氏の方より…。所詮一命を奉り思事なく子孫に合戦の忠を致さすべしとて、使の前にて自害す。…帯刀先生直俊・左近大夫将監政氏等討死す。天下静謐の後、彼義阿の為とて、子息、奥州・洛中の安国寺、讃州の長興寺を建立せらる。命を一塵よりも軽くして没後に其威を上られし事、ありがたき事なりとぞ人申合ける」
15 中先代の事(42行)
「将軍御奏聞ありけるは、関東におひて凶徒既合戦をいたし鎌倉に責入間、直義朝臣無勢にして、禦ぎ戦べき智略なきによて海道を引退きし其聞えあるうへは、暇を給て合力を加べき旨……」
「先陣の軍士、安保丹後守入海を渡して合戦をいたし敵を追散して其見疵を蒙間」
「将軍御兄弟鎌倉に打入二階堂の別当に御座ありしかば」
「京都よりは人々親類を使者として東夷誅罰を各賀し申さる。又、勅使、中院蔵人頭中将具光朝臣、関東に下着し今度東国の逆浪速に静謐する条、叡感再三也。但、軍兵の賞におゐては京都に印〔ヲシテ〕、綸旨もて宛行るべき也。先早々に帰洛あるべしと也。勅答には大御所急参べきよし御申有けるところに、下御所仰られけるは、御上洛不可然候。其故は…」
「師直以下の諸大名屋形軒をならべける程に」
「今度両大将に供奉の人々には、信濃、常陸の闕所を勲功の賞に宛行なはるゝ処に、義貞を討死の大将として関東へ下向のよし風聞しける間、元義貞の分国上野の守護職を上杉武庫禅門に任せらる」
16 義貞・尊氏合戦の事(47行)
「高越後守を大将として大勢をさしそへて海道へつかはさる。師泰に仰せられけるは…」
「御方利をうしなひしあいだ、武家の輩おほく降参して義貞に属す。名字ははゞかりあるによて是を書ず」→『太平記』では手越河原の合戦で佐々木道誉が義貞方へ下ったとある。
「しかるあいだ、下御所は箱根山に引籠り、水のみを堀切て要害として御座ありけるに、仁木・細川・師直・師泰以下相残一人当千の輩、陣を取。将軍は先日勅使具光朝臣下向の時、……われ龍顔に昵近し奉て勅命をうく、恩言といひ叡慮と云、いつの世いつの時なりとも君の御芳志をわすれ奉るべきにあらざれば、今度の事条々、御所存にあらずと、思食けるゆへに政務を下御所に御譲有て、細川源蔵人頼春並近習両三輩計、召具て潜に浄光明寺に御座ありしほどに、海道の合戦難儀たるよし聞食て将軍仰られけるは、守殿命を落されば我ありても無益なり。但、違勅の心中におひてさらに思食さず。是正に天の知処也。八幡大菩薩も御加護あるべし」
「小山・結城・長沼が一族」
「此輩は治承のいにしへ頼朝義兵の時最前に馳参じて忠節をいたしたりしに、尾山下野大掾藤原政光入道の子どもの連枝三人の子孫也。嚢祖武蔵守兼鎮守府将軍秀郷朝臣、承平に朝敵平将門を討取て、子々孫々鎮守府将軍の職を蒙りし五代将軍の後胤也。累代武略の誉を残し弓馬の芸の達者なり」
「武蔵の大田の庄を小山の常犬丸に行はる。是は由緒の地なり」
「又、常陸の関の郡を結城に行はる。今度戦場の御下文のはじめ也」
17 義貞敗退の事(24行)
「京勢駿河に引退き佐野山に陣をとる処に、大友左近将監官軍として其勢三百余騎にて下向したりけるが、御方に参ずべきよし申ける間、子細有まじき旨仰られけるほどに当所の合戦矢合の時分に、御方に加りて合戦の忠節をいたしければ、敵陣はやくやぶれて二条中将為冬を始として京方の大勢討れぬ」
「爰におひて畠山安房入道討死す」
「足柄・箱根の両大将一手に成て」
18 天竜川の橋の事(56行)
「むかしより東武士西に向事、寿永三年には範頼・義経、承久には泰時并時房、今年建武二年には御所尊氏・直義第三ヶ度也」
「去程に、御手分あり。勢多は下御所大将、副将軍は越後守師泰、淀は畠山上総介。芋洗は吉見参河守。宇治へは将軍御向あるべき也」
「結城の山河の家人、野木与一兵衛尉并中茎二人が一人当千の武略を顕して戦しほどに、将軍御感のあまりに御腰物を直に両人に給し事、生々世々の面目とぞ見えし」
「細川卿公定禅を大将として、赤松入道円心其外四国・中国の間に、兼日御教書を給輩数をしらず」
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行数ランキング(全683行)
5 皇位継承の事(68行)
8 隠岐脱出船上山の事(60行)
18 天竜川の橋の事(56行)
11 新田義貞挙兵の事(54行)
10 六波羅攻めの事(46行)
資料:『梅松論』に頻出する「後嵯峨院の御遺勅」〔2024-09-26〕
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/8d366f209c7533ddae11465d5385f680