(6)建武三年正月二十七日の洛中合戦に細川一族勇戦の記事中、尊氏が錦の直垂を顕氏に送って賞したとする部分。
延宝本(流布本、『新撰日本古典文庫 梅松論・源威集』p90以下)
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去程に御方大みやをくだりに、作道〔つくりみち〕を山崎へ一手にて引退く。爰〔これ〕に先立〔さきだち〕、千本口をくだりに敵むかふべしとて、細河の人々大将として四国勢、内野の右近馬場辺にひかへて相まつ処に、爰〔ここ〕には敵むかはずして、下京にけぶりあまた所々みえて、ときの声しきりにきこえければ、細川の人々、中御門へ東へ向かふ処に、河原ぐちにて錦の旗さしたる大勢に懸合て追散し、旗指〔はたさし〕討取て旗をうばひとり、西坂本まで責つめて、仮内裏焼払ひ勝時〔かちどき〕作て、川原をくだりに打て行ところに、又大勢二条河原より四条辺までさゝへたり。御方かとみるところに、義貞以下宗徒〔むねと〕の敵ひかへたる間、細川定禅兄弟おめき呼〔さけん〕で懸しほどに、此勢も散々にちらされて、粟田口・苦集滅路〔くじゆめつぢ〕に趣きてぞ落行ける。
洛中に充満しける敵共悉〔ことごとく〕追はらひて、七条河原にひかへて両大将をたづね申処に、在地の者共いひけるは、御方の御勢は二手にて、一手は七条を西へ、一手は大宮を南へ、作道をさしてひき給けると申ければ、細川の人々いそぎかつら川を馳渡りて、亥刻ばかりに御陳に参て、京中の敵追払けるよし申されける間、即〔すなはち〕打立て七条を東へ入せ給ひしに、同河原にて夜あけしかば廿八日なり。さしも御方の大勢洛中を引退しに、細河の人々相残て敵を打散しければ、御感再三なり。
されば忝〔かたじけなく〕も御自筆の御書をもて、錦の御直垂を兵部少輔顕氏に送給なり。弓矢の面目何事か是にしかんとて、見聞の輩弥〔いよいよ〕忠をつくし命を軽くしけるとかや。其比は卿公定禅をば鬼神のやうにぞ申ける。
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京大本(『国語国文』33巻9号、p29)
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【前略】又大宮を下に、作道を山崎へ御方一手引退く。爰に先立て千本口を下に敵向べしとて、御方細川人々大将として、四国勢内野の右近馬場辺にひかえて相待処に、此手には敵不向。下京に煙あまた見えて、時の声頻に聞ゆれば、細川の人々中御門を東へ向処に、河原口にて錦の旗さしたる大勢にかけ合逐散し、旗さし打取て、はたをも奪取、西坂本まで攻付て、かり内裏やきはらい、勝時を作て河原を下に向程に、又大勢二条河原より四条辺までさゝえたるを御方と心得て見る程に、義貞以下宗との敵なる間、如以前定禅兄弟をめいてかけし程に、此勢も散々に逐散されて粟田口久々目路に趣て落行けり。洛中に充満せる敵共悉逐払て七条河原にひかえて、両将を尋申処に、在地の物の云く、御方の大勢は二手にて、一手は七条を西へ大宮を南へ作道さして引給と申す。細川殿云、何様両方へ人を進て御在所を承定べしとて、桂川の御陣へ亥尅計に、京中敵追払たる由馳申間、即時に打立て七条を東へ入せ給しが、同河原にて天明しかば、さしも御方の大勢洛中を引退に、細川人々相残て敵を逐払しかば、御感再三也き。其比は卿公定禅をば鬼神の様にぞ申ける。
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(7)同年二月尊氏の室津における諸将分遣の記事中、四国に派遣した細川一族の中に政氏・繁氏の二人を加えてある部分。
延宝本(流布本、『新撰日本古典文庫 梅松論・源威集』p97以下)
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当津に一両日御逗留ありて、御合戦の評定区々なりけるに、或人のいはく、京勢はさだめて襲来るべし。四国・九国に御着あらん以前に、御うしろを禦ん為に、国々に大将をとゞめらるべきかと申ければ、尤可然〔しかるべき〕上意にて、先四国は細川阿波守和氏・源蔵人頼春・掃部介師氏兄弟三人、同いとこ兵部少輔顕氏・卿公定禅・三位公皇海・帯刀先生直俊・
大夫将監政氏・伊予守繁氏兄弟六人、已上九人なり。阿波守と兵部少輔両人成敗として、国におゐて勲功の軽重によて、恩賞ををこなふべきむね仰つけらる。播磨は赤松、備前は尾張親衛、松田の一族を相随て三石の城にとゞめらる。備中は今河三郎・四郎兄弟、鞆・尾道に陳をとる。安芸国は桃井の布河匠作・小早川一族をさしをかる。周防国は大将新田の大嶋兵庫頭・守護大内豊前守、長門国は大将尾張守・守護厚東太郎入道、かくのごとくさだめをれて、備後の鞆に御着ある処に、三宝院僧正賢俊、勅使として持明院より院宣を下さる。是によて人々勇みあへり。いまは朝敵の儀あるべからずとて、錦の御旗を上〔あぐ〕べきよし国々の大将に仰つかはされけるこそ目出〔めでた〕けれ。
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京大本(『国語国文』33巻9号、p31)
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【前略】当所に一両日御逗留有て、御合戦義勢まち/\也。定て京勢可襲向歟。四国九国の間御着到以前御後為防戦、国国に大将を被留。四国には細川の人々、従父兄弟七人阿州<利氏>源蔵人<頼春>酒掃兄弟三人、兵部<顕氏>卿公<禅定>三位公<皇海>帯刀先生、是も兄弟四人也。兵部両人の成敗として、国にをい勲功の軽重によて恩賞行るべき旨被仰付。播磨は赤松、備前は尾張親衛、松田の一族相従て三石城に留らる。備中は今河兄弟<三郎四郎>、鞆尾道に陳す。桃井匠作<布河>小早川一族を被着置。周防守護人大内豊前守、大将は新田の大嶋兵庫頭、長門国守護人厚東太郎入道、大将尾張守殿、如此被定て、備後の鞆に御着岸の時、三宝院僧正<賢俊于時日野律師>為勅使持明院より院宣被下。文章如常。天下の事可被計申趣也。依之諸人いさみの色を顕す。今は朝敵の儀あるべからずとて、錦の御旗を諸国の御方にあぐるべきよし、国々大将に被仰遣処也。
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(8)同年六月晦日の洛中合戦の記事中、義貞は細川定禅に襲われて危うく逃れたとする部分。
延宝本(流布本、『新撰日本古典文庫 梅松論・源威集』p128以下)
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かゝる処に、下御所大将として、三条河原に打立て御覧じけるに、既〔すでに〕敵、東寺ちかく八条坊門辺まで乱入〔いり〕、けぶりみえし間、将軍の御座おぼつかなしとて、御発向あるべきよし申輩おほかりける処に、太宰少弐頼尚が陣は、綾小路大宮の長者達遠が宿所にてぞありける。
頼尚の勢は三条河原に馳あつまりて、何方〔いづかた〕へにても将軍の命を受てむかふべきよし、兼〔かねて〕約束の間、彼河原に二千騎打立て、頼尚申けるは、東寺に勇士多く属し奉る間、縦〔たとひ〕敵、堀、鹿垣〔ししがき〕に付とも何事かあらん。御合力の為なりとも、御馬の鼻を東寺へ向れば、北にむかふ師直の河原の合戦難儀たるべし。是非に付て、今日は御馬を一足も動〔うごかせ〕らるべからず。先頼尚東寺へ参べしとて、三条を西へむかふ処に、敵、大宮は新田義貞、猪熊は伯耆守長年、二手にて八条坊門まで責下りたりし間、東寺の小門を開て、仁木兵部大輔頼章・上杉伊豆守重能以下打て出、責戦によて、一支〔ささへ〕もさゝへずして、敵、本の路を二手にて引のぼる処に、細川の人々・頼尚、洛中の条里を懸きりかけきり戦しほどに、伯耆守長年、三条猪熊におひて、豊前国住人草野左近将監が為に討取〔とられ〕ぬ。
義貞には、細川卿公定禅目をかけて度々あひちかづき、已〔すで〕に義貞あぶなくみえしかども、一人当千の勇士ども、おりふさがりて命にかはり討死せしあひだ、二三百騎に打なされて、長坂にかゝりて引とぞきこえし。
南は畿内の敵、作道〔つくりみち〕より寄来りしを、越後守師泰即時に追散し大勢討取。宇治よりは、法性寺辺まで責入たりしを、細川源蔵人頼春、内野の手なりしを、めしぬかれて、大将として菅谷〔すがたに〕辺まで合戦せしめ、打散しける。竹田は今川駿河守頼貞大将として、丹後・但馬の勢、馳むかひて追落す。六月晦日、数ヶ所の合戦、悉〔ことごとく〕未刻以前に打勝けるぞ仏神の御加護かと目出かりける。
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京大本(『国語国文』33巻9号、p42)
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【前略】然間大将下御所三条坊門河原に打立て御覧ぜしに、既に敵東寺近く、八条坊門辺まで乱入し、煙をあげし間、将軍御座をぼつかなしとて、御発向あるべきよし申輩多かりき。太宰少弐が陣は綾小路、大宮の長者達遠が宿所也。頼尚当手の軍勢は三条河原に馳集て、何方にても将命を受て発向すべききよし兼約の間、悉彼河原に二千騎打調ふ。頼尚申云、東寺は将軍に勇士多属し奉る。たとひ敵屏しゝがきに付共、何事かあらん。合力の為也とも、御馬の鼻の東寺に向はゞ、師直の河原合戦難儀たるべし。就是非今日は御馬のの足一歩動ぜらるべからず。先頼尚東寺に可参とて、三条を西へ向ふ処に、敵大宮は義貞、猪熊は長年<伯耆守>二手に八条坊門までせめ下たりし間、東寺の北門を開て、仁木兵部大輔頼章、上椙伊豆守重能以下打出攻戦しによて、一支もなく敵本路を二手にて引のぼる処に、細川兄弟、頼尚、洛中の条里を懸切り/\隔て攻し間、伯耆守長年、三条坊門猪熊に於て、肥前国の住人、草野左近将監秀永か為に被討取畢。義貞は二三百騎に被討成て、長坂にかゝりて引とぞ聞し。南は畿内凶徒作道より寄来しを、越後守師泰即時に逐散し、大勢討取畢。宇治は法性寺辺まで攻入たりしを、細川源蔵人頼春内野の手なりしを召抜て、大将として菅谷辺にをいて合戦せしめ打散してけり。又竹田は今川駿河守頼貞大将として、丹後但馬の勢馳向て逐落す。今日<六月卅日>数ヶ所の合戦、悉未刻以前打勝たりしぞ、仏神の加護かと目出かりし。
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(9)巻末の尊氏の逸話中、夢窓国師を尊氏・直義に引合せたのは、元弘以前甲斐の恵林寺で夢窓から受衣した細川顕氏であるとする部分。
延宝本(流布本、『新撰日本古典文庫 梅松論・源威集』p139以下)
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抑〔そもそも〕夢窓国師を両将御信仰有りける始は、細川陸奥守顕氏、元弘以前義兵を揚むとて、北国を経て阿波国へおもむきし時、甲斐国の恵林寺〔えりんじ〕におひて国師と相看〔しやうかん〕したてまつり、則〔すなわち〕受衣〔じゆえ〕し、其後両将之引導申されけり。真俗ともに勧め申されしによて、君臣万年の栄花を開き給ふ。目出度〔たく〕、ありがたき事どもなり。https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/6db5bf79eee160a14765fd1ce8cfba32京大本 対応部分なし