学問空間

「『増鏡』を読む会」、第9回は2月22日(土)、テーマは「上西門院とその周辺」です。

0213 流布本と京大本の数量的分析(その3)

2024-11-13 | 鈴木小太郎チャンネル2024
第213回配信です。


一、前回配信の補足

議論の基礎として客観的な数字は重要。
しかし、もちろん記事内容と切り離して数字だけで議論することもできない。
例えば大友氏。
小川信氏作成の「足利方主要武将名頻度表」によれば、大友は流布本(類従本)17、京大本18、天理本14、寛正本(下巻のみ)13であり、数値だけ見れば登場回数は相当多い。

資料:小川信「『梅松論』諸本の研究」(その3)〔2024-10-30〕
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/8eae47e3f7e0158b13537df6c17b460e

しかし、建武二年(1335)十二月、新田義貞率いる官軍が駿河の「佐野山」に陣を置いていたとき、「大友左近将監」(大友貞宗の子貞載)が裏切ったこと(『新撰日本古典文庫 梅松論・源威集』、p75)、そして後に、その裏切りに怒った結城親光が報復したこと(p85以下)が描かれている。
『梅松論』の作者は大友を非難し、結城親光を評価しているので、大友氏関係者ではないだろう。

大友貞載(さだとし、?-1336)
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%A4%A7%E5%8F%8B%E8%B2%9E%E8%BC%89

また、十二月五日の手越河原の戦いに関して「御方利をうしないひしあひだ、武家の輩おほく降参して義貞に属す。名字ははゞかりあるによて是を書ず」(p73)とあり、箱根・竹之下の戦いの後、「去五日、手越川原の合戦の時分、京方に属したりし輩、富士河にて降参す」(p77)とある。
『太平記』によれば、手越河原で官軍に降ったのは「宇都宮遠江入道」と「佐々木佐渡判官入道道誉」であり、佐々木氏はもともと登場回数が少ない上、「名字ははゞかりあるによて是を書ず」などとされている以上、作者ではないだろう。


二、流布本の細川氏顕彰記事の分量

資料:小川信「『梅松論』諸本の研究」(その2)〔2024-10-09〕
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/6e12b2c0d65e7b0f14cc8bc6221d5d0e

資料:流布本にのみ存在する九つの細川氏顕彰記事(その1)(その2)〔2024-11-13〕
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/59f2112d55fedb408e74395f8a7fc27b
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/7797e13f0bd4d5da5238f7b1221e29eb

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(1)元弘三年の足利高氏挙兵の記事中、細川和氏と上杉重能が後醍醐天皇の綸旨を賜って近江国鏡駅で高氏に披露し挙兵を勧めたとする部分。
(2)六波羅攻略の記事中、同じく和氏が包囲陣の一方を空けて敵を駆逐する作戦を進言したとする部分。
(3)北条氏滅亡後の鎌倉の情勢を述べた記事中、細川和氏・頼春・師氏兄弟が尊氏から関東追討のために派遣され、鎌倉に入って幼年の義詮を補佐し、新田義貞の野心を抑えたとする部分。
(4)護良親王幽閉の記事中、親王を鎌倉へ護送した武士を細川顕氏とする部分。
(5)中先代の乱に関する記事中、細川頼貞が子息顕氏から直義以下退避の報告を聞いて、子孫の忠を励ますため自害したとする部分。
(6)建武三年正月二十七日の洛中合戦に細川一族勇戦の記事中、尊氏が錦の直垂を顕氏に送って賞したとする部分。
(7)同年二月尊氏の室津における諸将分遣の記事中、四国に派遣した細川一族の中に政氏・繁氏の二人を加えてある部分。
(8)同年六月晦日の洛中合戦の記事中、義貞は細川定禅に襲われて危うく逃れたとする部分。
(9)巻末の尊氏の逸話中、夢窓国師を尊氏・直義に引合せたのは、元弘以前甲斐の恵林寺で夢窓から受衣した細川顕氏であるとする部分。
-------

記事の分量は、

(1)3行
(2)4行
(3)6行
(4)1行
(5)10行
(6)1行
(7)1行
(8)2行
(9)5行

合計、33行。
上下巻合計で1535行なので、

33÷1535≒0.0215

となって、九つの細川氏顕彰記事は全体の約2%。
従って、細川氏顕彰記事が流布本の分量を極端に増加させている訳ではない。
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資料:流布本にのみ存在する九つの細川氏顕彰記事(その2)

2024-11-13 | 鈴木小太郎チャンネル2024
(6)建武三年正月二十七日の洛中合戦に細川一族勇戦の記事中、尊氏が錦の直垂を顕氏に送って賞したとする部分。

延宝本(流布本、『新撰日本古典文庫 梅松論・源威集』p90以下)
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 去程に御方大みやをくだりに、作道〔つくりみち〕を山崎へ一手にて引退く。爰〔これ〕に先立〔さきだち〕、千本口をくだりに敵むかふべしとて、細河の人々大将として四国勢、内野の右近馬場辺にひかへて相まつ処に、爰〔ここ〕には敵むかはずして、下京にけぶりあまた所々みえて、ときの声しきりにきこえければ、細川の人々、中御門へ東へ向かふ処に、河原ぐちにて錦の旗さしたる大勢に懸合て追散し、旗指〔はたさし〕討取て旗をうばひとり、西坂本まで責つめて、仮内裏焼払ひ勝時〔かちどき〕作て、川原をくだりに打て行ところに、又大勢二条河原より四条辺までさゝへたり。御方かとみるところに、義貞以下宗徒〔むねと〕の敵ひかへたる間、細川定禅兄弟おめき呼〔さけん〕で懸しほどに、此勢も散々にちらされて、粟田口・苦集滅路〔くじゆめつぢ〕に趣きてぞ落行ける。
 洛中に充満しける敵共悉〔ことごとく〕追はらひて、七条河原にひかへて両大将をたづね申処に、在地の者共いひけるは、御方の御勢は二手にて、一手は七条を西へ、一手は大宮を南へ、作道をさしてひき給けると申ければ、細川の人々いそぎかつら川を馳渡りて、亥刻ばかりに御陳に参て、京中の敵追払けるよし申されける間、即〔すなはち〕打立て七条を東へ入せ給ひしに、同河原にて夜あけしかば廿八日なり。さしも御方の大勢洛中を引退しに、細河の人々相残て敵を打散しければ、御感再三なり。されば忝〔かたじけなく〕も御自筆の御書をもて、錦の御直垂を兵部少輔顕氏に送給なり。弓矢の面目何事か是にしかんとて、見聞の輩弥〔いよいよ〕忠をつくし命を軽くしけるとかや。其比は卿公定禅をば鬼神のやうにぞ申ける。
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京大本(『国語国文』33巻9号、p29)
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【前略】又大宮を下に、作道を山崎へ御方一手引退く。爰に先立て千本口を下に敵向べしとて、御方細川人々大将として、四国勢内野の右近馬場辺にひかえて相待処に、此手には敵不向。下京に煙あまた見えて、時の声頻に聞ゆれば、細川の人々中御門を東へ向処に、河原口にて錦の旗さしたる大勢にかけ合逐散し、旗さし打取て、はたをも奪取、西坂本まで攻付て、かり内裏やきはらい、勝時を作て河原を下に向程に、又大勢二条河原より四条辺までさゝえたるを御方と心得て見る程に、義貞以下宗との敵なる間、如以前定禅兄弟をめいてかけし程に、此勢も散々に逐散されて粟田口久々目路に趣て落行けり。洛中に充満せる敵共悉逐払て七条河原にひかえて、両将を尋申処に、在地の物の云く、御方の大勢は二手にて、一手は七条を西へ大宮を南へ作道さして引給と申す。細川殿云、何様両方へ人を進て御在所を承定べしとて、桂川の御陣へ亥尅計に、京中敵追払たる由馳申間、即時に打立て七条を東へ入せ給しが、同河原にて天明しかば、さしも御方の大勢洛中を引退に、細川人々相残て敵を逐払しかば、御感再三也き。其比は卿公定禅をば鬼神の様にぞ申ける。
-------


(7)同年二月尊氏の室津における諸将分遣の記事中、四国に派遣した細川一族の中に政氏・繁氏の二人を加えてある部分。

延宝本(流布本、『新撰日本古典文庫 梅松論・源威集』p97以下)
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 当津に一両日御逗留ありて、御合戦の評定区々なりけるに、或人のいはく、京勢はさだめて襲来るべし。四国・九国に御着あらん以前に、御うしろを禦ん為に、国々に大将をとゞめらるべきかと申ければ、尤可然〔しかるべき〕上意にて、先四国は細川阿波守和氏・源蔵人頼春・掃部介師氏兄弟三人、同いとこ兵部少輔顕氏・卿公定禅・三位公皇海・帯刀先生直俊・大夫将監政氏・伊予守繁氏兄弟六人、已上九人なり。阿波守と兵部少輔両人成敗として、国におゐて勲功の軽重によて、恩賞ををこなふべきむね仰つけらる。播磨は赤松、備前は尾張親衛、松田の一族を相随て三石の城にとゞめらる。備中は今河三郎・四郎兄弟、鞆・尾道に陳をとる。安芸国は桃井の布河匠作・小早川一族をさしをかる。周防国は大将新田の大嶋兵庫頭・守護大内豊前守、長門国は大将尾張守・守護厚東太郎入道、かくのごとくさだめをれて、備後の鞆に御着ある処に、三宝院僧正賢俊、勅使として持明院より院宣を下さる。是によて人々勇みあへり。いまは朝敵の儀あるべからずとて、錦の御旗を上〔あぐ〕べきよし国々の大将に仰つかはされけるこそ目出〔めでた〕けれ。
-------

京大本(『国語国文』33巻9号、p31)
-------
【前略】当所に一両日御逗留有て、御合戦義勢まち/\也。定て京勢可襲向歟。四国九国の間御着到以前御後為防戦、国国に大将を被留。四国には細川の人々、従父兄弟七人阿州<利氏>源蔵人<頼春>酒掃兄弟三人、兵部<顕氏>卿公<禅定>三位公<皇海>帯刀先生、是も兄弟四人也。兵部両人の成敗として、国にをい勲功の軽重によて恩賞行るべき旨被仰付。播磨は赤松、備前は尾張親衛、松田の一族相従て三石城に留らる。備中は今河兄弟<三郎四郎>、鞆尾道に陳す。桃井匠作<布河>小早川一族を被着置。周防守護人大内豊前守、大将は新田の大嶋兵庫頭、長門国守護人厚東太郎入道、大将尾張守殿、如此被定て、備後の鞆に御着岸の時、三宝院僧正<賢俊于時日野律師>為勅使持明院より院宣被下。文章如常。天下の事可被計申趣也。依之諸人いさみの色を顕す。今は朝敵の儀あるべからずとて、錦の御旗を諸国の御方にあぐるべきよし、国々大将に被仰遣処也。
-------


(8)同年六月晦日の洛中合戦の記事中、義貞は細川定禅に襲われて危うく逃れたとする部分。

延宝本(流布本、『新撰日本古典文庫 梅松論・源威集』p128以下)
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 かゝる処に、下御所大将として、三条河原に打立て御覧じけるに、既〔すでに〕敵、東寺ちかく八条坊門辺まで乱入〔いり〕、けぶりみえし間、将軍の御座おぼつかなしとて、御発向あるべきよし申輩おほかりける処に、太宰少弐頼尚が陣は、綾小路大宮の長者達遠が宿所にてぞありける。
 頼尚の勢は三条河原に馳あつまりて、何方〔いづかた〕へにても将軍の命を受てむかふべきよし、兼〔かねて〕約束の間、彼河原に二千騎打立て、頼尚申けるは、東寺に勇士多く属し奉る間、縦〔たとひ〕敵、堀、鹿垣〔ししがき〕に付とも何事かあらん。御合力の為なりとも、御馬の鼻を東寺へ向れば、北にむかふ師直の河原の合戦難儀たるべし。是非に付て、今日は御馬を一足も動〔うごかせ〕らるべからず。先頼尚東寺へ参べしとて、三条を西へむかふ処に、敵、大宮は新田義貞、猪熊は伯耆守長年、二手にて八条坊門まで責下りたりし間、東寺の小門を開て、仁木兵部大輔頼章・上杉伊豆守重能以下打て出、責戦によて、一支〔ささへ〕もさゝへずして、敵、本の路を二手にて引のぼる処に、細川の人々・頼尚、洛中の条里を懸きりかけきり戦しほどに、伯耆守長年、三条猪熊におひて、豊前国住人草野左近将監が為に討取〔とられ〕ぬ。
 義貞には、細川卿公定禅目をかけて度々あひちかづき、已〔すで〕に義貞あぶなくみえしかども、一人当千の勇士ども、おりふさがりて命にかはり討死せしあひだ、二三百騎に打なされて、長坂にかゝりて引とぞきこえし。
 南は畿内の敵、作道〔つくりみち〕より寄来りしを、越後守師泰即時に追散し大勢討取。宇治よりは、法性寺辺まで責入たりしを、細川源蔵人頼春、内野の手なりしを、めしぬかれて、大将として菅谷〔すがたに〕辺まで合戦せしめ、打散しける。竹田は今川駿河守頼貞大将として、丹後・但馬の勢、馳むかひて追落す。六月晦日、数ヶ所の合戦、悉〔ことごとく〕未刻以前に打勝けるぞ仏神の御加護かと目出かりける。
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京大本(『国語国文』33巻9号、p42)
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【前略】然間大将下御所三条坊門河原に打立て御覧ぜしに、既に敵東寺近く、八条坊門辺まで乱入し、煙をあげし間、将軍御座をぼつかなしとて、御発向あるべきよし申輩多かりき。太宰少弐が陣は綾小路、大宮の長者達遠が宿所也。頼尚当手の軍勢は三条河原に馳集て、何方にても将命を受て発向すべききよし兼約の間、悉彼河原に二千騎打調ふ。頼尚申云、東寺は将軍に勇士多属し奉る。たとひ敵屏しゝがきに付共、何事かあらん。合力の為也とも、御馬の鼻の東寺に向はゞ、師直の河原合戦難儀たるべし。就是非今日は御馬のの足一歩動ぜらるべからず。先頼尚東寺に可参とて、三条を西へ向ふ処に、敵大宮は義貞、猪熊は長年<伯耆守>二手に八条坊門までせめ下たりし間、東寺の北門を開て、仁木兵部大輔頼章、上椙伊豆守重能以下打出攻戦しによて、一支もなく敵本路を二手にて引のぼる処に、細川兄弟、頼尚、洛中の条里を懸切り/\隔て攻し間、伯耆守長年、三条坊門猪熊に於て、肥前国の住人、草野左近将監秀永か為に被討取畢。義貞は二三百騎に被討成て、長坂にかゝりて引とぞ聞し。南は畿内凶徒作道より寄来しを、越後守師泰即時に逐散し、大勢討取畢。宇治は法性寺辺まで攻入たりしを、細川源蔵人頼春内野の手なりしを召抜て、大将として菅谷辺にをいて合戦せしめ打散してけり。又竹田は今川駿河守頼貞大将として、丹後但馬の勢馳向て逐落す。今日<六月卅日>数ヶ所の合戦、悉未刻以前打勝たりしぞ、仏神の加護かと目出かりし。
-------


(9)巻末の尊氏の逸話中、夢窓国師を尊氏・直義に引合せたのは、元弘以前甲斐の恵林寺で夢窓から受衣した細川顕氏であるとする部分。

延宝本(流布本、『新撰日本古典文庫 梅松論・源威集』p139以下)
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 抑〔そもそも〕夢窓国師を両将御信仰有りける始は、細川陸奥守顕氏、元弘以前義兵を揚むとて、北国を経て阿波国へおもむきし時、甲斐国の恵林寺〔えりんじ〕におひて国師と相看〔しやうかん〕したてまつり、則〔すなわち〕受衣〔じゆえ〕し、其後両将之引導申されけり。真俗ともに勧め申されしによて、君臣万年の栄花を開き給ふ。目出度〔たく〕、ありがたき事どもなり。

https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/6db5bf79eee160a14765fd1ce8cfba32

京大本 対応部分なし
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資料:流布本にのみ存在する九つの細川氏顕彰記事(その1)

2024-11-13 | 鈴木小太郎チャンネル2024
資料:小川信「『梅松論』諸本の研究」(その2)〔2024-10-09〕
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/6e12b2c0d65e7b0f14cc8bc6221d5d0e

(1)元弘三年の足利高氏挙兵の記事中、細川和氏と上杉重能が後醍醐天皇の綸旨を賜って近江国鏡駅で高氏に披露し挙兵を勧めたとする部分。

延宝本(流布本、『新撰日本古典文庫 梅松論・源威集』p56以下)
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【前略】両大将同時に上洛有て、四月廿七日同時に又都を出たまふ。将軍は山陰道、丹波・丹後を経て伯耆へ御発向有べき也。高家は山陽道、播磨・備前を経て、同伯耆へ発向せしむ。船上山を責らるべき議定ありて下向の所、久我縄手におゐて手合の合戦に大将名越尾張守高家討るゝ間、当手の軍勢戦に及ばずして、悉都に帰上る。同日将軍は御領丹波国篠村に御陣を召る。抑、将軍は関東誅伐の事、累代御心の底にさしはさまるゝ上、細川阿波守和氏、上杉伊豆守重能、兼日潜に綸旨を給て今度御上洛の時、近江国鏡の駅におひて披露申され、既に勅命を蒙らしめ給上は時節相応天命の授処也。早/\思食立べきよし再三諫め申されけるあいだ、当所篠村の八幡宮の御宝前におひて已に御旗を上らる。【後略】
-------

京大本(『国語国文』33巻8号、p17)
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【前略】両大将同時に上洛あり。卯月廿七日同日出京也。将軍は山陰道丹波丹後をへて、伯耆御発向あるべき也。高家は山陽道播磨備前をへて同国に発向せしめ、同時に船上山を可被攻よし議定あて進発する処に、久我縄手に於て手合の合戦に、大将高家<尾州>被討間、当手の軍勢一戦なくして悉帰洛せしむ。同時将軍は御領丹波国篠村に御陣めさる。抑将軍関東誅伐の事、累代御心底に挿るゝ上、先立て密に勅命を蒙り給間、当所篠村八幡宮の御宝前に於て既に御旗をあげらる。【後略】


(2)六波羅攻略の記事中、同じく和氏が包囲陣の一方を空けて敵を駆逐する作戦を進言したとする部分。

延宝本(流布本、『新撰日本古典文庫 梅松論・源威集』p58以下)
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【前略】未時〔ひつじのとき〕計に大宮の戦破て六波羅勢引退く。御方の下の手は作路・竹田より責入けるが、九条辺に数ヶ所に見えて、方々の寄手洛中へ乱入ければ、六波羅勢は城郭に引籠りける。其中に家をおもひ名をおしむ勇士どもは、懸出て戦し程に七日は暮しけり。
 去程に御方には此大勢にて時尅を移さず城郭を囲み悉打取べきよし諸人諫申ける処に、細川阿波守申されけるは、しかの如ならんには敵思切て御方多〔おほく〕損すべし、一方をあけて没落せしめば敗軍になりては御退治輒〔たやす〕かるべき由、被申ける間、尤〔もつとも〕可然とて一方をあけられけり。
 懸りし程に城の内より多心替して、将軍の御方へ参じける。【後略】
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京大本(『国語国文』33巻8号、p18)
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【前略】さる程に未刻計に大宮の戦破て、六波羅勢引退畢。御方の下の手は作道竹田より攻入けるが、九条辺に火手あまた見えける間、方々の寄手洛中に乱入、六波羅勢は城郭に引籠りけり。其中に家を思、名を惜勇士等かけ出戦し程に、七日は暮にけり。さる程に城中多心替して、将軍の御方へ参じければ【後略】
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(3)北条氏滅亡後の鎌倉の情勢を述べた記事中、細川和氏・頼春・師氏兄弟が尊氏から関東追討のために派遣され、鎌倉に入って幼年の義詮を補佐し、新田義貞の野心を抑えたとする部分。

延宝本(流布本、『新撰日本古典文庫 梅松論・源威集』p63以下)
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【前略】さても関東誅伐の事は義貞朝臣、其功を成ところに、いかゞ有けん、義詮の御所四歳の御時大将として御輿にめされて義貞と御同道有て、関東御退治以後は二階堂の別当坊に御座ありし。諸将悉四歳の若君に属し奉りしこそ目出〔めでた〕けれ。是実に将軍にて永々万年御座あるべき瑞相とぞ人申ける。爰に京都より、細川阿波守・舎弟源蔵人・掃部介〔かもんのすけ〕兄弟三人、関東追討のためにさしくださるゝ処に路次におひて関東はや滅亡のよし、聞えありけれども猶/\下向せらる。かくて若君を扶佐し奉るといへども、鎌倉中連日空騒〔からさわぎ〕して世上〔せじやう〕穏かならざる間、和氏・頼春・師氏兄弟三人、義貞の宿所に向て事の子細を相尋て勝負を決せんとせられけるによて、義貞野心を存ぜざるよし起請文もて陳じ申されしあいだ、静謐す。其後一族悉〔ことごとく〕上洛ありけり。
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京大本(『国語国文』33巻8号、p19以下)
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【前略】既に関東誅伐の事、義貞朝臣其功を成といへ共、如何かありけん、義詮の御所<于時四歳>同大将として御輿めされ、義貞と同道あり。関東御退治以後二階堂別当坊に御座ありしに、諸侍悉く四歳の君の御料に属し奉る。不思議なりし事共也。実に末代に永将軍にて御座あるべき瑞相かとぞ覚し。雖然連日鎌倉中空さはぎして、義貞御退治の為に御旗向よし風聞の間、義貞被申子細あるによて静謐す。其後は一族悉上洛あり。
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(4)護良親王幽閉の記事中、親王を鎌倉へ護送した武士を細川顕氏とする部分。

延宝本(流布本、『新撰日本古典文庫 梅松論・源威集』p67以下)
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【前略】其後も猶京中騒動して止時なし。中にも建武元年六月七日兵部卿親王大将として将軍の御所に押寄らるべき風聞しけるほどに、武将の御勢御所の四面を警固し奉り余の軍勢は二条大路に充満しけるほとに事の体大儀に及によて、当日無為に成けれども、将軍よりいきどほり申されければ、全く叡慮にはあらず、護良親王の張行の趣なりしほとに十月廿ニ日の夜、親王御参内の次をもて武者所に居籠奉て、翌朝に常磐井殿へ遷し奉り、武家の輩警固し奉る。宮の御内の輩をば武者の番衆兼日勅命を蒙て南部・工藤を始として数十人、召預けられける。同十一月親王をば細川陸奥守顕氏請取奉て関東へ御下向あり。思ひの外なる御旅のそら申も中/\をろかなり。宮の御謀叛、真実は叡慮にてありしかども御科を宮に譲り給ひしかば、鎌倉へ御下向とぞきこえし。宮は二階堂の薬師堂の谷に御座ありけるが、武家よりも君のうらめしくわたらせ給ふと御独言ありけるとぞ承る。
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京大本(『国語国文』33巻8号、p21)
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【前略】其後尚京中騒動連続しける中にも、六月七日<建武元>兵部卿親王大将として将軍の御前にをし寄らるゝ風聞の間、武家御勢御所の四面にけいごせしめ、余勢二条大路に充満す。事の体大儀に及によて、当日又無為也。此事を将軍よりいきどをり被申によて、全叡慮にあらず、護良親王の張行の上は、沙汰あるべしとて、十月ニ日の夜、親王御参内の次をもて、武者所に居こめ奉る。宮の御内の輩を武者所に番衆兼日勅命を蒙て、南部工藤を始として、数十人めしあづけられて、同十一月親王を武士うけとり、関東へ御下向ありける。思の外なりし事共也。此宮御謀叛は真実は天気なりといへ共、科をゆづり給しかば、つゐに鎌倉へ御下向ありき。二階堂薬師堂の谷に御座の間、武家よりも君のうらめしくわたらせ給と御ひとり言ありけるとぞ承及侍りし。
-------


(5)中先代の乱に関する記事中、細川頼貞が子息顕氏から直義以下退避の報告を聞いて、子孫の忠を励ますため自害したとする部分。

延宝本(流布本、『新撰日本古典文庫 梅松論・源威集』p69)
-------
【前略】爰に細川四郎入道義阿、湯治の為にとて相摸の川村山に有りけるところへ、子息陸奥守顕氏の方より、是まで無為に御上洛の由、使節をつかはしけるに、我敵の中にありながら一功をなさゞらんも無念なり。又存命せしめば面々心もとなくおもふべし。所詮一命を奉り思事なく子孫に合戦の忠を致さすべしとて、使の前にて自害す。此事将軍きこしめされ殊に御愁難深かりき。誠に忠臣の道といへども武くもあはれなりし事也。さればにや合戦の度ごとに忠節をいたし、帯刀先生直俊・左近大夫将監将氏等討死す。天下静謐の後、彼義阿の為とて、子息、奥州・洛中の安国寺、讃州の長興寺を建立せらる。命を一塵よりも軽くして没後に其威を上られし事、ありがたき事なりとぞ人申合ける。
-------

京大本 対応部分なし
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