学問空間

「『増鏡』を読む会」、第9回は2月22日(土)、テーマは「上西門院とその周辺」です。

0219 「乞索圧状」と起請文について

2024-11-25 | 鈴木小太郎チャンネル2024
第219回配信です。


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東京大学中世史研究会11月例会(東京)

日時:11月28日(木)18:00〜21:00
会場:東京大学史料編纂所大会議室
報告者:鷺慶亮氏(麻布学園)
題目:「鎌倉幕府訴訟における論点整理の技法」
○参考文献
古澤直人『鎌倉幕府と中世国家』校倉書房、1991年
長又高夫「本所訴訟から見た北条泰時執政期の裁判構造」(同『御成敗式目編纂の基礎的研究』汲古書院、2017年)
石川光年「「乞索状」考」『日本歴史』845号、2018年

http://www2.ezbbs.net/31/shikado/

石川光年氏「「乞索状」考」
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 はじめに
一 鎌倉幕府の訴訟における「乞索状」
二 「乞索」の原義と「乞索状」
 1 律条文の「乞索」
 2 「乞索状」と「圧状」
 3 「乞索状」の条件
三 公家法・本所法における「乞索状」
 おわりに
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乞索状〔こっさくじょう〕
「乞索圧状〔こっさくおうじょう〕とも称され、他人に強要して無理に書かせた文書のこと。「きっさくじょう」とも読む」(『国史大辞典』)
「他人の所有物を無理に請いもとめ、しいてその譲り状を書かせること。また、その譲り状」(『日本国語大辞典』)

しかし、『沙汰未練書』には「乞索状トハ 他人状ヲ有初見、後日構出状也」とある。

p7以下
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 2 「乞索状」と「圧状」

 前節で検討したように、律にみえる「乞索」という言葉それ自体には「乞いもとめる」という以上の意味はこめられていない。では、その後の史料で「無理に他人のものをもとめる」というニュアンスがこめられていく過程を跡づけることができるであろうか。
 先にも触れたように、「乞索」について検討できる史料は少ない。律からかなり時代は下ってしまうが、『源平盛衰記』の例をあげたい。

〔史料5〕
 十月六日、新院厳島ヨリ還御アリ。遥々ノ海路ヲ御舟ニテ事故ナク還上ラセ給ゾ御目出シ。(中略)通親卿モ涙グミ畏テ、「其事御歎ニ及ベカラス。人ノ持ル物ヲ心ノ外ニスカシ取、人ヲゝドシテ思様ノ文ヲカゝセント仕ヲバ、乞素〔ママ〕圧状ト申テ、政道ニモ不用、神モ仏モ捨サセ給フ事ニテ候ゾ。サヤウニ申行コソ還テ其身ノ咎ニテ侍レバ、空恐シク候。何カハ御苦ミ候ベキ」ト、忍ヤカニ急度被慰申ケリ。

 高倉院が厳島参詣の帰路において、平清盛から強制されて源氏には同心しない旨の起請文を書かされたという場面で、高倉は源通親に涙ながらに相談した。通親は「他人の所有物を「スカシ取」ったり、「人ヲゝドシテ」思い通りの文を書かせるようなことは「乞索圧状」といって政道においても、神仏もこれを認めることはございません」と慰めた。同じく『源平盛衰記』巻第二十六「兼遠起請」にも、木曽義仲の身柄を召進するよう平宗盛に迫られて起請文を書かされた中原兼遠が、「其上心ヨリ起テ書起請ナラズ、神明ヨモ悪トオボシメサジ、加様ノ事ヲコソ乞索圧状トテ、神モ仏モ免シ候ナレト思成テ、熊野ノ牛玉ノ裏ニ起請文ヲ書進」したという。このことから、たとえ神仏に誓約する起請文であっても「乞索圧状」であればその効力は無効とされる、という認識が中世社会に存在したことがうかがえる。井原氏も説くように、「乞索圧状」なるものが中世に存在し、契約においてそれと認められれば契約自体が無効化されるという社会的認識の実在を認めることができる。では、「乞索圧状」と「乞索状」、あるいは「圧状」はすべて同じものなのだろうか。
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源通親『高倉院厳島御幸記』(『岩波新日本古典文学大系 中世日記紀行集』)

「乞索圧状」という表現は用いていないが、『太平記』によく似た場面がある。
第九巻「足利殿上洛の事」で、尊氏は北条高時から、正室の赤橋登子と「幼稚の御子息」(千寿王=義詮)を人質とし、更に起請文を提出することを求められる。(兵藤裕己校注『太平記(二)』、p38以下)

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 その後、御舎弟兵部大輔殿を呼びまゐらせて、「この事いかがあるべき」と、意見を訪〔と〕はれければ、且〔しばら〕く思案して申されけるは、「この一大事を思し召し立つ事、全く御身のためにあらず。ただ天に代はつて無道〔ぶとう〕を誅して、君の御ために不義を退けんためなり。その上の誓言〔せいごん〕は神も受けずとこそ申し習はして候へ。たとひ偽つて起請の詞〔ことば〕を載せられ候ふとも、仏神、などか忠烈の志を守らせ給はで候ふべき。就中〔なかんずく〕、御子息と御台〔みだい〕とを鎌倉に留め置き奉らん事、大儀の前の小事にて候へば、あながちに御心を煩はさるべきにあらず。公達は、いまだ御幼稚におはし候へば、自然の事もあらん時には、そのために残し置かるる郎従ども、いづくへも懐き抱へて逃し奉り候ひなん。御台の御事は、また赤橋殿さても御座候はん程は、何の御痛はしき事か候ふべき。「大行〔たいこう〕は細謹〔さいきん〕を顧みず」とこそ申し候へ。これら程の小事に猶予あるべきにあらず。ただともかくも相州入道の申されんやうに随ひて、かの不審を散ぜしめ、この度御上洛候ひて後、大儀の計略を廻らさるべしとこそ存じ候へ」と申されければ、足利殿、至極の道理に伏して、御子息千寿王殿と御台赤橋相州の御妹をば、鎌倉に留め置き奉り、一紙の告文〔こうぶん〕を書いて、相模入道の方へ遣はさる。相州入道、これに不審を散じて、喜悦の思ひをなし、乗替〔のりかえ〕の御馬とて、飼うたる馬に白鞍置いて十疋、白覆輪〔しろぶくりん〕の鎧十両引かれけり。
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『難太平記』の足利尊氏「降参」考(その2)〔2020-10-30〕
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/be18e0b821a943d858475427b61f1f64
直義の眼で西源院本を読む(その3)-「たとひ偽つて起請の詞を載せられ候ふとも」〔2021-07-17〕
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/5b5374f8ace85c3c3e436561337f53cb
起請文破りなど何とも思わない人たち(その1)〔2022-11-04〕
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/f499d617f18376f321811a045398e40c

『太平記』の記述はそれなりに工夫された創作エピソードだと考えていたが、起請文に関しては『源平盛衰記』と全く同一の発想。
『太平記』作者のドライな個性の発現ではなく、ある意味、当時の武家社会の「一般常識」なのか。
コメント
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