第216回配信です。
※配信時には仲恭天皇には誕生関係記事がないものと勘違いして、このレジュメでも践祚と退位の記事を載せていましたが、修正しました。
二、『増鏡』における歴代天皇の誕生関係記事(前半)
(1)八十二代 後鳥羽天皇(1180‐1239)
「御門始まり給ひてより八十二代にあたりて、後鳥羽院と申すおはしましき。御いみなは尊成、これは高倉院第四の御子、御母七条院と申しき。修理大夫信隆のぬしのむすめなり。高倉院位の御時、后の宮の御方に、兵衛督の君とて仕うまつられしほどに、忍びて御覧じ放なたずやありけん、治承四年七月十五日に生まれさせ給ふ」
「摂政殿の姫君まいり給ひていと花やかにめでたし。この御腹に、建保六年十月十日一の御子生まれ給へり。いよいよものあひたる心地して、世の中ゆすりみちたり。十一月廿一日、やがて親王になし奉り給ひて、同じ廿六日坊に居給ふ。未だ御五十日だに聞こしめさぬに、いちはやき御もてなし、珍らかなり」
(井上宗雄『増鏡(上)全訳注』、p67)
(5)八十六代 後堀河天皇(1212‐34)
「その頃いと数まへられ給はぬふる宮おはしけり。守貞の親王とぞ聞えける。高倉院第三の御子なり。隠岐の法皇の御兄なれば、思へばやむごとなけれど、昔、後白河法皇、安徳院の筑紫へおはしまして後に見奉らせ給ひける御孫の宮たち選りの時、泣き給ひしによりて位にもつかせ給はざりしかば、世の中もの怨めしきやうにて過ぐし給ふ。【中略】この乱れいで来て、一院の御族はみなさまざまにさすらへ給ひぬれば、おのづから小さきなど残り給へるも世にさし放たれて、さりぬべき君もおはしまさぬにより、東よりのおきてにて、かの入道の御子の、十になり給ふを、承久三年七月九日にはかに御位につけ奉り、父の宮をば太上天皇になし奉りて法皇と聞ゆ。いとめでたく横さまの御幸ひおはしける宮なり。孫王にて位につかせ給へるためし、光仁天皇より後、絶えて久しかりつるに、珍しくめでたし」
(井上宗雄『増鏡(上)全訳注』、208以下)
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/fc057fa9870f4d84982b6587b50090c2(8)八十九代 後深草天皇(1243‐1304)
「あくる年は寛元元年なり。六月十日頃に、中宮、今出川の大殿にてその御気色あれば、殿の内たち騒ぐ。白き御装ひにあらためて、母屋にうつらせたまふ程、いとおもしろし。大臣・北の方・御兄の殿ばら達そ添ひかしづき聞え給へるさま、限りなくめでたし。
御修法の壇ども数しらず。医師・陰陽師・かんなぎ、各々かしがましきまで響きあひたり。いと暑き程なれば、唯ある人だに汗におしひたしたるに、后の宮いと苦しげにし給ひて、色々の御物の怪ども名乗り出でつつ、わりなくまどひ給へば、大臣・北の方、いかさまにせんと御心を惑はし給ふさま、あはれにかなし。かやうのきざみ、高きも下れるも、おろかに思ふ人やはあらん。なべてみなかうのみこそあれど、げにさしあたりたる世の気色をとり具して、たぐひなく思さるらんかし。内よりも、「いかにいかに」と御使ひ雨のあしよりもしげう走りちがふ。内の御めのと大納言二位殿、おとなおとなしき内侍のすけなど、さべき限り参り給へり。今日もなほ心もとなくて暮れぬれば、いとおそろしう思す。伊勢の御てぐらつかひなどたてらる。諸社の神馬、所々の御誦経の使ひ、四位五位数を尽して鞭をあぐるさま、いはずともおしはかるべし。大臣とりわき春日の社へ拝して、御馬、宮の御衣など奉らる。
(井上宗雄『増鏡(上)全訳注』、p242)
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/9326b718a86a34828915d0e7fade3f27 内には更衣腹に若宮おはしませど、この御事を待ち聞え給ふとて、坊定まり給はぬ程なり。たとひ平らかにし給へりとも、女宮にておはしまさばと、まがまがしきあらましを思ふだに、胸つぶれ口惜し。かつは御身の宿世みゆべき際ぞかし、と思せば、いみじう念じ給ふに、既にことなりぬ。まづ何にかと心騒ぐに、御兄の大納言公相、「皇子誕生ぞや」といと高らかにの給ふを、余りの事にみなあきれて、「まことか、まことか」と、大臣のたまふままに、喜びの御涙ぞ落ちぬる。あはれなる御気色、見る人もこと忌みしあへず。御修法の僧どもをはじめ、道々の禄たまはる。したり顔に汗おしのごひつつまかづる気色、今一きはめでたく、ののしりたちて、さらに物も聞えず。げにこの頃の響きに、女にておはしまさましかば、いかにほしほと口惜しからまし。きらきらしうもしいで給へるかし。されば大臣年たけ給ふまでも、「その折の嬉しうかたじけなかりしを思ひ出づれば、見奉るごとに涙ぐまるる」とぞ、後深草院をば常に申されける。
御湯殿の儀式はさらにもいはず、人々の禄、なにくれ、例の作法に事をそへて、いみじう世のためしにもなるばかりとつくし給ふ。御はかし参る。心もとなかりつるままに、二十八日親王の宣旨ありて、八月十日すがやかに太子にたち給ひぬ。大臣御心おちゐて、すずしうめでたう思す事限りなし。
(井上宗雄『増鏡(上)全訳注』、p274)
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/df97ebd9ddfd84fc306d7efd834631af(10)九十一代 後宇多天皇(1267‐1324)
「皇后宮は日にそへて御覚えめでたくなり給ひぬ。姫宮・若宮など出で物し給ひしかど、やがて失せさせ給へるを、御門をはじめ奉りて、たれもたれも思し嘆きつるに、今年又その御気色あれば、いかがと思し騒ぎ、
山々寺々に御祈りこちたくののしる。こたみだに、げに又うちはづしては、いかさまにせんと、大臣・母北の方も安き寝も寝給はず、思し惑ふこと限りなし。
程近くなり給ひぬとて、土御門殿、承明門院の御跡へ移ろひ給ふ。世の中ひびきて、天下の人高きも下れるも、つかさある程のは参りこみてひしめきたつに、殿の内の人々はまして心も心ならず、あわたたし。大臣、限りなき願どもをたて、賀茂の社にも、かの御調度どもの中に、すぐれて御宝と思さるる御手箱に、后の宮みづから書かせ給へる願文入れて、神殿にこめられけり。
それには、「たとひ御末まではなくとも、皇子一人」とかや侍りけるとぞ承りし、まことにや侍りけん。かくいふは文永四年十二月一日なり。例の御物のけどもあらはれて、叫びとよむさま、いとおそろし。されども御祈りどものしるしにや、えもいはずめでたき玉の男の子みこ生まれ給ひける。その程の式、いはずともおしはかるべし」
参考:『増鏡』と『とはずがたり』の遊義門院誕生記事
「巻八 あすか川」(その11)─遊義門院誕生〔2018-02-08〕
『とはずがたり』に描かれた遊義門院誕生の場面〔2018-02-08〕