第221回配信です。
古澤氏は、
「承久の乱における後鳥羽上皇の討幕運動が同時代の史料に「謀叛(反)」と記されることはなかった」
「後鳥羽院の倒幕運動を「謀叛」と記したのは『承久記』であるが、この書の成立は鎌倉末期から南北朝期と推定されており、この点で(意識を検討する上でも)同時代史料というわけにはいかない。むしろ鎌倉末期~南北朝期に形成された意識あるいは理解を遡及させて承久の乱を叙述したものと考えるべきである」
とされるが、私見のように「原流布本」の成立が1230年代成立の慈光寺本より早いと考えれば、「承久以降鎌倉末期まで」ではなく、承久の乱の直後の時期に、「律令制的な天皇制秩序体系とは異質の、幕府を中心とするあらたな「公」の秩序意識の形成を想定させる」ことになる。
そもそも律令制の大系では、幕府が今上天皇の退位を強制したり、治天の君を含む三上皇を配流することなどできるはずもない。
幕府首脳部に「律令制的な天皇制秩序体系とは異質の、幕府を中心とするあらたな「公」の秩序意識」があったことは明らか。
いくつかの論理が想定される。
(1)(一つの国家を前提とする)革命論
流布本(「同年夏の比より、王法尽させ給ひて、民の世となる」)
(2)(一つの国家を前提とする)北条氏「国王」説
『鎌倉幕府と中世国家』p381
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(二)中世的「国王」観の形成
日蓮が、その書状のなかで、北条時頼・時宗らをしばしば「国王」「国主」と呼んだことは有名である。周知のごとく一二六八年(文永五)、日蓮は念仏・禅・律・真言を難じ、法華経が棄て置かれている非を説いて、幕府に対し、「いわゆる"十一通の書"を書き、これを執権北条時宗以下に送って、"公場対決"をもとめた」が、後年、身延に隠世後、この間の事情を語った書状に以下の一節がみえる。
抑日本国の主となりて、万事を心に任給へり、何事も両方を召合てこそ、勝負を決し御成敗をなす人の、いかなれは日蓮一人に限て、諸僧等に召合せすして大科に行るゝらん、是偏にたた事にあらす、たとひ日蓮は大科の者なりとも、国に安穏なるへからす、御式目を見に、五十一箇条を立てて、終に起請文を書乗たり、第一第二は神事仏事、乃至五十一箇条云々…(中略)…賢なる国主ならは子細を聞給へきに、聞もせす、用られさるたにも不思議なるに、剰へ頸に及はんとせしは、存外の次第也、…(下略)…
つまり、<「日本国の主」となって、万事を決裁している執権は、何事であれ対立する主張の双方を対決させて勝負を決しているのに、日蓮一人にかぎって禅律以下諸宗諸僧と対決させずに重罪に処すのは不当だといって、式目にも第一、第二条には、神仏事について規定している>と、指摘しているのである。後段で、<賢明な国王であれば子細を聞くべきだ>と記しているように、日蓮にとってあるべき「国王」の姿とは、≪対立する主張の裁定者≫という点であり、この点を繰り返し主張しているのである。
また日蓮は、「念仏・真言・禅・律」の棄教を、「私には昼夜に弟子等に歎申、公には度度申」と記し、幕府=公という観念を明確に有していた。かかる≪幕府=公≫観について、<後鳥羽上皇治世に、禅宗・念仏宗出来て、真言の大悪法が国土に流布したため、天照大神・正八幡百王・百代の誓いが破れ、王法既に尽きて、天照大神等の計らいで、関東の北条義時に国務が付けられた>という記述からいって、日蓮は、承久の乱を境とした治世者の変更を考えていたようであるが、ここでは日蓮の歴史認識そのものが重要というわけではない。問題は、なによりも、幕府を「公」、その権力の掌握者を「国王」と記して、国王の有るべき姿を≪裁定者≫とするその国王観そのものである。さらに、その≪裁定者≫としての国主の在りようを規定する御成敗式目、という式目観もあわせて注目されるべきであろう。
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(3)承久の乱後に形成された新たな「国際法秩序」説