学問空間

「『増鏡』を読む会」、第9回は2月22日(土)、テーマは「上西門院とその周辺」です。

『増鏡』を読む会(第1回)

2024-12-01 | 鈴木小太郎チャンネル2024
毎週土曜日に開催して来た「中世史・中世文学講座」は、「『増鏡』を読む会」と名称を変更します。
『増鏡』を基軸として、『吾妻鏡』『承久記』『六代勝事記』『五代帝王物語』『とはずがたり』『太平記』『梅松論』等にも随時言及し、中世史と中世文学の中間領域を探求して行きます。
テキストは、

井上宗雄『増鏡(上)全訳注』(講談社学術文庫、1979)
https://bookclub.kodansha.co.jp/product?item=0000150062
河北騰『増鏡全注釈』(笠間書院、2015)
https://shop.kasamashoin.jp/bd/isbn/9784305707741/

としますが、両書とも品切れなので、当方でコピーを用意します。

日時:12月7日(土)午後3時~5時
場所:甘楽町公民館
テーマ:『増鏡』の概略

群馬県甘楽郡甘楽町大字小幡 161-1
上信越自動車道の甘楽スマートICまたは富岡ICから車で5分程度。
https://www.town.kanra.lg.jp/kyouiku/gakusyuu/map/01.html

連絡先:
iichiro.jingu※gmail.com
※を @ に変換して下さい。
またはツイッターにて。
https://x.com/IichiroJingu
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0221 鎌倉クラスター向けクイズ(その2)【解答編】

2024-12-01 | 鈴木小太郎チャンネル2024
第221回配信です。


一、前回配信の補足

0220 「後鳥羽院の倒幕運動を「謀叛」と記したのは『承久記』」(by 古澤直人氏)〔2024-11-29〕
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/7159c0a4cf22fa744bda168ffaba5861

古澤氏は、

「承久の乱における後鳥羽上皇の討幕運動が同時代の史料に「謀叛(反)」と記されることはなかった」
「後鳥羽院の倒幕運動を「謀叛」と記したのは『承久記』であるが、この書の成立は鎌倉末期から南北朝期と推定されており、この点で(意識を検討する上でも)同時代史料というわけにはいかない。むしろ鎌倉末期~南北朝期に形成された意識あるいは理解を遡及させて承久の乱を叙述したものと考えるべきである」

とされるが、私見のように「原流布本」の成立が1230年代成立の慈光寺本より早いと考えれば、「承久以降鎌倉末期まで」ではなく、承久の乱の直後の時期に、「律令制的な天皇制秩序体系とは異質の、幕府を中心とするあらたな「公」の秩序意識の形成を想定させる」ことになる。

そもそも律令制の大系では、幕府が今上天皇の退位を強制したり、治天の君を含む三上皇を配流することなどできるはずもない。
幕府首脳部に「律令制的な天皇制秩序体系とは異質の、幕府を中心とするあらたな「公」の秩序意識」があったことは明らか。

いくつかの論理が想定される。

(1)(一つの国家を前提とする)革命論
   流布本(「同年夏の比より、王法尽させ給ひて、民の世となる」)

(2)(一つの国家を前提とする)北条氏「国王」説

 『鎌倉幕府と中世国家』p381
-------
(二)中世的「国王」観の形成
 日蓮が、その書状のなかで、北条時頼・時宗らをしばしば「国王」「国主」と呼んだことは有名である。周知のごとく一二六八年(文永五)、日蓮は念仏・禅・律・真言を難じ、法華経が棄て置かれている非を説いて、幕府に対し、「いわゆる"十一通の書"を書き、これを執権北条時宗以下に送って、"公場対決"をもとめた」が、後年、身延に隠世後、この間の事情を語った書状に以下の一節がみえる。

日本国の主となりて、万事を心に任給へり、何事も両方を召合てこそ、勝負を決し御成敗をなす人の、いかなれは日蓮一人に限て、諸僧等に召合せすして大科に行るゝらん、是偏にたた事にあらす、たとひ日蓮は大科の者なりとも、国に安穏なるへからす、御式目を見に、五十一箇条を立てて、終に起請文を書乗たり、第一第二は神事仏事、乃至五十一箇条云々…(中略)…賢なる国主ならは子細を聞給へきに、聞もせす、用られさるたにも不思議なるに、剰へ頸に及はんとせしは、存外の次第也、…(下略)…

つまり、<「日本国の主」となって、万事を決裁している執権は、何事であれ対立する主張の双方を対決させて勝負を決しているのに、日蓮一人にかぎって禅律以下諸宗諸僧と対決させずに重罪に処すのは不当だといって、式目にも第一、第二条には、神仏事について規定している>と、指摘しているのである。後段で、<賢明な国王であれば子細を聞くべきだ>と記しているように、日蓮にとってあるべき「国王」の姿とは、≪対立する主張の裁定者≫という点であり、この点を繰り返し主張しているのである。
 また日蓮は、「念仏・真言・禅・律」の棄教を、「私には昼夜に弟子等に歎申、には度度申」と記し、幕府=公という観念を明確に有していた。かかる≪幕府=公≫観について、<後鳥羽上皇治世に、禅宗・念仏宗出来て、真言の大悪法が国土に流布したため、天照大神・正八幡百王・百代の誓いが破れ、王法既に尽きて、天照大神等の計らいで、関東の北条義時に国務が付けられた>という記述からいって、日蓮は、承久の乱を境とした治世者の変更を考えていたようであるが、ここでは日蓮の歴史認識そのものが重要というわけではない。問題は、なによりも、幕府を「公」、その権力の掌握者を「国王」と記して、国王の有るべき姿を≪裁定者≫とするその国王観そのものである。さらに、その≪裁定者≫としての国主の在りようを規定する御成敗式目、という式目観もあわせて注目されるべきであろう。
-------

(3)承久の乱後に形成された新たな「国際法秩序」説

承久の乱後に形成された新たな「国際法秩序」〔2021-10-01〕
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/c6e725c677b4e285b26985d706bf344c

0024 佐藤雄基氏の研究について(その1)〔2024-01-24〕
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/b40ce7a34a7da740383ef93a82085e32
0102 平雅行氏「序章 鎌倉仏教研究の課題と総括的検討」を読む。(その4)〔2024-06-13〕
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/6343197fc56e0040ac43e0c0c38781c7
0131 後鳥羽院=プーチン説〔2024-07-27〕
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/41f158d5c41e51b61e6f7ca2abab9297


二、『御成敗式目ハンドブック』について

神野潔・佐藤雄基編『御成敗式目ハンドブック』(吉川弘文館、2024)

執権北条泰時らが編纂した鎌倉幕府の基本法典「御成敗式目」。一二三二年に施行されたこの最初の武家法典を、制定過程や目的、研究史などから全体像をとらえ直す。五十一箇条より主要条文を選び、分かりやすく解説を加えて式目が実際にどう実践されたのかを読み解く。法の視座から当時の権力・訴訟・犯罪などの実態に迫る。巻末に現代語訳を付す。

https://www.yoshikawa-k.co.jp/book/b10045009.html

「権門と法圏―幕府「裁判管轄」の意図と現実」(黒瀬にな氏担当)
https://researchmap.jp/lvsptf

(1)
「後嵯峨院政期・北条時頼執政期に相当する文永年間(一二六四~七五)頃」とあるが、北条時頼は時宗の誤り。
時頼は弘長三年(1263)に死去。

北条時頼(1227‐63)
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%8C%97%E6%9D%A1%E6%99%82%E9%A0%BC

(2)
「承久の乱の際、いわゆる北条政子の演説の中で、平氏の時代には三年だった大番役を頼朝が半年に減らしたという頼朝の御恩が、武士たちに訴えかけられていたように(『慈光寺本承久記』)」とあるが、これは流布本の話。
慈光寺本では頼朝ではなく実朝の業績となっており、かつ、減らしたことのみを記していて期間は明示せず。

慈光寺本に関する杉山次子説の問題点(その13)〔2023-01-13〕
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/07a35b665e1e27bd981fc169c4fa7ffb
流布本も読んでみる。(その12)─「尼程物思たる者、世に非じ」〔2023-04-16〕
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/b9854a9a3a206b7a5b3ad99fd91c09cf
流布本も読んでみる。(その13)─「一天の君を敵に請進らせて、時日を可移にや。早上れ、疾打立」〔2023-04-16〕
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/64c7d8a7d233b802827b85946ddb2266
流布本も読んでみる。(その14)─慈光寺本の政子の演説との比較〔2023-04-17〕
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/00bd3e649b0356c54796c755db41a69e
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鎌倉クラスター向けクイズ(その2)

2024-12-01 | 鈴木小太郎チャンネル2024
【設問】
 下記文章は神野潔・佐藤雄基編『御成敗式目ハンドブック』(吉川弘文館、2024)の「御成敗式目の受容史・研究史」(佐藤雄基担当)、「守護と地頭─鎌倉幕府と荘園公領制」(同)から引用した。
この中にそれぞれ一つずつ誤りがあるが、それを指摘した上で、どのような問題があるかを説明せよ。

(1)p60
-------
三 御成敗式目の受容史・研究史

1 後世の式目「受容」

五十一ヵ条への注視
 総論第二章で述べたように、鎌倉幕府における「式目」は、貞永元年に成立した五十一ヵ条に、その奥に書き加えられた「追加」を含めたものを意味していた。そうした「式目」の運用から切り離して五十一ヵ条を特別視する動きは、後嵯峨院政期・北条時頼執政期に相当する文永年間(一二六四~七五)頃に始まった。朝廷と幕府の連携が深まり、中世国家における幕府のプレゼンスが高まる時期である。幕府の権力を自らに引き寄せたい幕府の外部の者たちによるものだった。現在まで続く式目「受容」史の始まりである(以下、[佐藤雄二〇二三a]参照)。
-------

(2)p97以下
-------
大番催促
 そもそも大番催促とは何だろうか。大番とは、将軍御所ではなく京都の朝廷(内裏)の警護である。内裏大番の起源には諸説があるが、高倉天皇の時代に平氏が地方武士を動員して開始したものといわれている。諸国の国衙(国の役所)単位で国内武士を動員する体制(国衙体制)と内裏大番役を通して全国の武士を動員したと考えられてきた(五味文一九七五、一九七九)。これに対して、近年では在京武士を里内裏の警備に動員した小規模なものにすぎなかったと考える見解が出されている(川合二〇〇七)。しかし、実態はともかくとして、承久の乱の際、いわゆる北条政子の演説の中で、平氏の時代には三年だった大番役を頼朝が半年に減らしたという頼朝の御恩が、武士たちに訴えかけられていたように(『慈光寺本承久記』)、鎌倉幕府の内裏大番役が平氏政権に起源をもつものであるという認識は鎌倉期には一般的だったようである。
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鎌倉クラスター向けクイズ〔2024-07-26〕
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/ac6d4eaa2383d39dc1dd244584ad5cfa
0130 鎌倉クラスター向けクイズ【解答編】〔2024-07-26〕
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/85828eb80ca0a8c9dbd5ec28f61e2679
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