学問空間

「『増鏡』を読む会」、第9回は2月22日(土)、テーマは「上西門院とその周辺」です。

大晦日のご挨拶

2024-12-31 | 鈴木小太郎チャンネル2024
今年は1月8日にユーチューブを始めて、大晦日の今日、237回目の配信となりました。
最初は配信ソフトの利用方法が分からず、マイクを入れ忘れたまましゃべって撮り直しをするようなことも一度ならずあって、本当に試行錯誤の連続でしたが、一応の自分なりのスタイルを確立できてからは結構順調に進んだように思います。
当初は大河ドラマとの連動みたいなことも少し考えたのですが、まあ、それは他に大勢やっている人がいることなので自分がやる必要もないと思い直し、結局、視聴者の都合は一切考えず、「新東国国家論」、キリスト教と日本人論、「国家神道」論、廃仏毀釈の実態、赤橋登子論、平雅行氏の実質的な「権門体制」否定論の検討、小川剛生氏『兼好法師』批判、東島誠氏の亀田俊和氏批判の検討、『梅松論』の作者と成立年代論など、その時々に自分が話したいことだけを語ってきました。
十二月に入って、東島誠氏の謀反と謀反論の検討を始めたあたりでは、さすがに問題意識がマイナーすぎて、誰もついてきてくれないだろうな、などと思っていたのですが、東島誠説批判が載っていた古澤直人氏の『中世初期の<謀叛>と平治の乱』をきっかけに平治の乱を少し検討してみたところ、芋づる式に面白いことが次々出てきて、それなりに新しい展望を開くことができたように思っています。
これで今まで手薄だった院政期から鎌倉初期にかけても橋頭保が出来たので、来年に入っても、もう少し平治の乱の続きをやってみるつもりです。
また、地味に継続している「『増鏡』を読む会」については、少しずつ参加者を増やして行けたら良いなと思っています。
ということで、来年も宜しくお願いいたします。
皆様、良いお年をお迎えください。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

0237 桃崎説を超えて(その3)─『玉葉』建久二年十一月五日条の「君」は誰か?

2024-12-31 | 鈴木小太郎チャンネル2024
第237回配信です。


一、『玉葉』建久二年十一月五日条の信西文書は偽文書か?

資料:棚橋光男氏「少納言入道信西─黒衣の宰相の書斎を覗く」〔2024-12-27〕
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/0f74366cc38f45aaae2d95d22c873861

『玉葉』建久二年十一月五日条の信西文書に「この図を以て永く宝蓮華院に施入し了んぬ」とあるが、「宝蓮華院」はあまり聞かない寺院なので検索してみたところ、松下健二氏の「静賢の生涯」という論文に出会った。

資料:松下健二氏「静賢の生涯」〔2024-12-30〕
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/92a1210a1c055f1b2a4e767b8c227d72

松下氏
「信西死後、異能を強調するために捏造された偽文書とも考えられる」
「信西の死から歳月を経て現れた『長恨歌絵』は伝説化しつつあった故信西に仮託して作成された可能性があり、信西自筆という反古を額面通り受けとるわけにはいかない」

棚橋光男氏を始め、多くの歴史研究者が信西文書の文面を怪しんではいないので、同時代の古文書としては不自然ではなさそう。
問題はむしろ「此図為悟君心、予察信頼之乱、所画彰也」という九条兼実の解説・感想ではないか。


二、信西は平治の乱を予知したのか。

通説では信西は平治の乱の二十四日前に「信頼之乱」を予知していながら、何の対策も取らず、むざむざと殺されてしまったことになる。
合理的な説明は可能か。
桃崎有一郎氏の「オカルト理論」に納得できる人はいるのか。

資料:桃崎有一郎氏「残された謎①─信西はなぜ自殺したのか?」〔2024-12-29〕
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/c80f4a87aa01c3479590f27a8fbfa4b4
資料:桃崎有一郎氏「相反する兼実の証言─信西は希有の洞察力の持ち主」〔2024-12-29〕
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/1934dc8760b565013ce4b612ca54070a

平治の乱の勃発時の様子を伺うことが出来る史料は実質的に『愚管抄』のみ。
『愚管抄』によれば、信西は後白河院御所・三条殿にいた自分の妻(紀二位)や息子に警告することもなく、自分だけ逃げている。
本当に直前になって気づいたと考えるのが自然。
また、自分を殺害しようと狙っている者たちが襲うのは自邸であって、三条殿まで襲うとは思っていなかったのではないか。

資料:川合康氏「平治の乱の第一段階」〔2024-12-31〕
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/6f6e9fc3d913489d81280402fff984a5
資料:大隅和雄氏『愚管抄 全現代語訳』「信西の最期」〔2024-12-31〕
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/386ad2e790e7d8e2c044bfd90d1d2bb7

信西が自殺した状況を知るのは西光等の従者と美濃源氏・源光保のみ。
二条天皇の親衛隊的な存在である源光保は永暦元年(平治二、1160)六月に捕縛され、流罪・処刑されている。

源光保(?‐1160)
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%BA%90%E5%85%89%E4%BF%9D

『愚管抄』の情報源は西光ではないか。
全くの作り話ではないにしても、相当の脚色がありそう。


三、『玉葉』建久二年十一月五日条の「君」は誰か?

棚橋光男氏は「この図、君心を悟らせんが為、予〔かね〕て信頼の乱を察し、画き彰はせるところなり」の「君心」に「(後白河)」とルビを振っている。(『後白河法皇』、p69)
しかし、二条天皇と考えるのが自然ではないか。
二条天皇であれば、兼実は平治の乱の主役が二条天皇だと知っていたことになる。
九条兼実は平治の乱の時点で十一歳。
平治の乱の「真相」を知っていてもおかしくはない年齢。
また、僅か二年の流罪の後、宮廷に復帰し、左大臣を長く勤めた大炊御門経宗とは仕事の上で接触が多く、後日、「真相」を教えてもらった可能性も十分ある。
というより、平治の乱の第一段階の首謀者が二条天皇であったことは周知の事実だったのではないか。
平治の乱の「真相」は、美女にトチ狂った、プライドだけは異常に高い莫迦息子(二条)と、政治家として無能で息子にも軽蔑されていた莫迦親父(後白河)の壮大な親子喧嘩。
みっともない出来事であるとともに、天皇が「治天の君」である父に対して起こしたクーデターであり、法的な説明が難しい「主上御謀叛」。
「信頼之乱」的な曖昧な表現で説明されることになり、時の経過とともに実態も分かりにくくなってしまったのではないか。

九条兼実(1155‐1207)
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%B9%9D%E6%9D%A1%E5%85%BC%E5%AE%9F
大炊御門経宗(1119─89)
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%97%A4%E5%8E%9F%E7%B5%8C%E5%AE%97
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

資料:川合康氏「平治の乱の第一段階」

2024-12-31 | 鈴木小太郎チャンネル2024
川合康氏『源頼朝 すでに朝の大将軍たるなり』(ミネルヴァ書房、2021)
https://www.minervashobo.co.jp/book/b575019.html

p78以下
-------
平治の乱の第一段階

 その反信西勢力の中心となったのは、後白河院の寵愛を受けて正三位権中納言、右衛門督に急速に昇進した藤原信頼と、保元の乱で後白河方の第一陣として軍功をあげた源義朝であった。しかし、信西政権の打倒に立ち上がったのは、何も後白河側近の信頼・義朝だけではない。二条天皇の外戚であった権大納言藤原経宗や天皇の乳母子にあたる参議藤原惟方も首謀者の一員であったし、また、武士も義朝だけでなく、有力な京武者であった国房流美濃源氏の源光保・光基や重宗流美濃源氏の源重成、河内坂戸源氏の源季実らもこれに加わった。信西を打倒する平治の乱の第一段階は、このように広範な貴族・武士が連携して引き起こしたものであり、後白河・二条のどちらの派閥とも距離を置いていた平清盛は、こうした信西打倒の動きを知らぬまま、平治元年(一一五九)十二月四日に熊野参詣に出発したのである(元木 二〇〇四)。清盛の一行は、次男基盛・三男宗盛と家人十五人ほどであったという(『愚管抄』巻第五「二条」)。
 平治元年十二月九日の夜、藤原信頼と源義朝らの軍勢が、信西が子息とともに伺候していた院御所の三条東殿を急襲した。襲撃を察知した信西はかろうじて逃げ出したが、院御所に同宿していた後白河院とその姉上西門院は、源重成・光基・季実ら京武者の軍勢に護衛されて大内の一本御書所(貴重書を書写・保管する宮中の書庫)に移され、三条東殿には火が放たれた(『百錬抄』同日条、『愚管抄』巻第五「二条」)。この日、二条天皇は大内にいたから、天皇・院はともに大内で信頼・義朝らの監視下に置かれることになった。翌十日には、信西の子息である参議俊憲や権右中弁貞憲らが解官され、十四日に行われた臨時除目では、前章でも述べたように義朝が播磨守に、そして義朝から嫡男と認定された頼朝が従五位下右兵衛佐に任じられた。
 一方、左衛門尉師光(法名西光)ら数人の従者とともに逃走した信西は、慈円の『愚管抄』によれば、山城国田原荘(京都府宇治田原町)の土の中に穴を掘って潜んでいたところを、源光保の軍勢に発見され、自害したと伝えられる(巻第五「二条」)。信西の首が京に運ばれ、大路渡が行われて西獄門の前の木に首が懸けられたのは、十二月十七日のことであった(『百錬抄』同日条)。なお、熊野詣のために京を留守にしていた平清盛が、政変を知って途中の紀伊国田辺から引き返し、同国の有力武士湯浅宗重が提供した三十七騎の加勢を得て無事に帰京を果たしたのも、同じ十七日のことであった(『愚管抄』巻第五「二条」)。
-------
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

資料:大隅和雄氏『愚管抄 全現代語訳』「信西の最期」

2024-12-31 | 鈴木小太郎チャンネル2024
大隅和雄氏『愚管抄 全現代語訳』(講談社学術文庫、2012)
https://bookclub.kodansha.co.jp/product?item=0000211593

p249以下
-------
信西の最期

 さてそうこうするうちに、平治元年(一一五九)十二月九日の夜、信頼・義朝は後白河上皇の御所であった三条烏丸の内裏を包囲し、火を放ったのである。信西が息子たちを引きつれていつもここに伺候していたので、とり囲んでみな討ち殺そうという計画であった。
 さて、信頼の一味の者であった師仲源中納言が御所の門中に御車を寄せて、後白河上皇と上西門院(統子)の御二方をお乗せした。その時、信西の妻で成範の母にあたる紀二位は小柄な女房であったから上西門院の御衣の裾にかくれて御車に乗ってしまったのを誰も気づかなかった。上西門院は御生母が後白河上皇と同じ待賢門院(璋子)であり、後白河天皇の准母(国母としての待遇を受ける)に立てられた御方であったという。そんなこともあってこの御二方は何かにつけて特に親密で、いつも同じ御所においでになった。ところでこの御車は、(源)重成・(源)光基・(源)季実などが警固して、一本御書所(世間に流布している書物を各一部書写して内裏に保管していた所)にお移しした。この重成はのちに自害したが誰であるかを人に知られなかったので称賛された人物である。
 さて、御所にいた俊憲・貞憲はともに難をのがれた。俊憲はもう焼け死ぬ覚悟をして北の対の縁の下に入っていたが、あたりを見まわすとまだ逃げることができるようなので焔の燃えさかる中を走りぬけて逃げたのである。信西は不意をうたれた敗北を感じとり、左衛門尉師光・右衛門尉成景・田口四郎兼光・斎藤右馬允清実をつれて人に感づかれないような輿かき人夫の輿に乗って、大和国の田原(京都府綴喜郡宇治田原町。大和は誤り)というところへ行き、地面に穴を掘ってすっかり埋まって隠れていた。従った者どもは四人とも髻を切って法名をつけよといったので、西光・西景・西実・西印と名づけたのであった。四人のうち西光・西景はのちに後白河上皇に仕えていた人物である。西光は「もうこうなったうえは中国に渡航なさる以外にありません。御供いたしましょう」といったが、信西は「行くとしても、星の方位を見るにもうどうしてみてものがれるすべはあるまい」と答えたという。
 ところで、信頼はこのような勝手なことをして大内裏に二条天皇の行幸を仰ぎ、当時在位の天皇である二条天皇をとりこんで政務を掌握し、後白河上皇の方は内裏のうち御書所という所にお据えして、さっそく除目を行なった。この除目で義朝は四位に上って播磨守となり、義朝の子で十三歳であった頼朝は右兵衛佐に任ぜられたりしたのであった。
 信西は巧みに隠れたと思っていたのに、あの輿をかついだ人夫が他人に秘密を洩らし、(源)光康(光保・光安)という武士に聞きつけられた。光康は義朝方であったから信西を探して差し出そうと、田原に向かったのである。田原で従者の師光が大きな木の上に登って夜明しの番をしていると、穴の中で声高く阿弥陀仏の名号を唱えるのがかすかに聞こえてきた。折しも遠くの方にあやしい火が数多く見えてきたので、木からおりて「あやしい火が見えております。御用心なさいませ」と、大きい声で穴の中にいいこんで、また木に登って見張りをしていると、多勢の武士どもが続々とあらわれ、あたりをあれこれと見まわしはじめた。信西が入っていた穴は、うまく埋めこんであると思っていたが、穴の口をふさいでいた板が見つけられてしまった。武士どもが掘ると、信西は持っていた腰の小刀をみずからの胸骨の上に強く突き立ててすでにこときれていたのである。武士どもは掘り出した信西の首をとり、得意顔にそれを掲げて都大路を行進したりした。信西の息子たちは、法師になっていた者まですべて流刑に処せられ、諸国に送られたのであった。
-------

※信西の最期の場面、『愚管抄』では西光の活躍が目立つが、『平治物語』陽明文庫本では西光は京都にいて信西に随行すらしていない。
そして随行者四名が信西から「各、西の字に俗名の片名をよせて」法名としてもらったことを聞いて、自身も出家し、「西光」と名乗ったとしている。

資料:『平治物語 上』「信西の首実検の事 付けたり 南都落ちの事 并びに 最期の事」〔2025-01-08〕
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/2279690e570d3e975366a4674b26d469
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする