『新日本古典文学大系44 平家物語 上』(岩波書店、1991)p29以下
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二代后〔にだいのきさき〕
昔より今に至るまで、源平両氏、朝家〔てうか〕に召つかはれて、王化に従はず、をのづから朝権をかろむずる者には、互〔たがひ〕にいましめをくはへしかば、代の乱れもなかりしに、保元に為義きられ、平治に義朝誅せられて後は、末/″\の源氏ども、或は流され、或はうしなはれ、今は平家の一類のみ繁昌して、かしらをさし出すものなし。いかならん末の代までも何事かあらむとぞ見えし。されども鳥羽院御晏駕〔あんか〕の後は、兵革〔ひやうがく〕うちつゞき、死罪・流刑・闕官・停任〔ちやうにん〕常におこなはれて、海内〔かいだい〕もしづかならず、世間もいまだ落居せず。就中〔なかんづく〕に、永暦・応保の比〔ころ〕よりして、院の近習者をば内より御いましめあり、内の近習者をば院よりいましめらるゝ間、上下おそれをのゝいて、やすい心もなし。たゞ深淵にのぞむで、薄氷を踏むに同じ。主上〔しゆしやう〕、々皇〔しやうくわう〕父子の御あひだには、なに事の御へだてかあるべきなれども、思〔おもひ〕の外〔ほか〕の事どもありけり。是も世澆季〔げうき〕に及で、人梟悪〔けうあく〕をさきとする故也。主上、院の仰〔おほせ〕を常に申かへさせおはしましける中にも、人耳目〔じぼく〕を驚かし、世もッて大〔おほき〕にかたぶけ申事ありけり。
故近衛院の后、太皇太后宮と申しは、大炊御門の右大臣公能〔きんよし〕公の御娘也。先帝にをくれたてまつらせ給ひて後は、九重の外〔そと〕、近衛河原の御所にぞ移りすませ給ける。さきのきさいの宮にて、幽〔かすか〕なる御ありさまにてわたらせ給しが、永暦のころほひは、御歳廿三にもやならせ給けむ、御さかりもすこし過させおはしますほどなり。しかれども、天下第一の美人の聞えまし/\ければ、主上色にのみそめる御心にて、偸〔ひそか〕に行力使〔かうりよくし〕に詔〔ぜう〕じて、外宮〔ぐわいきう〕にひき求めしむるに及で、この大宮へ御艶書あり。大宮敢てきこしめしもいれず。さればひたすら早〔はや〕ほにあらはれて、后御入内あるべき由、右大臣家に宣旨を下さる。此事天下にをいてことなる勝事〔せうし〕なれば、公卿僉議あり。各意見を言ふ。「先〔まづ〕異朝の先蹤をとぶらふに、震旦〔しんだん〕の則天皇后は、唐の太宗のきさき、高宗皇帝の継母なり。太宗崩御の後、高宗の后に立ち給へる事あり。是は異朝の先規たるうへ、別段の事なり。しかれども吾朝には、神武天皇より以降〔このかた〕、人皇〔にんわう〕七十余代に及まで、いまだ二代の后に立たせ給へる例を聞かず」と、諸卿一同に申されけり。上皇もしかるべからざる由、こしらへ申させ給へば、主上仰〔おほせ〕なりけるは、「天子に父母なし。吾十善〔じうぜん〕の戒功によッて、万乗の宝位をたもつ。是程の事、などか叡慮に任せざるべき」とて、やがて御入内の日、宣下せられけるうへは、力及ばせ給はず。
大宮かくときこしめされけるより、御涙に沈ませおはします。「先帝にをくれまいらせにし久寿の秋のはじめ、同じ野原〔のばら〕の露とも消え、家をも出で、世をものがれたりせば、今かゝる憂き耳をば聞かざらまし」とぞ、御歎〔なげき〕ありける。父の大臣こしらへ申させ給けるは、「世に従はざるをもッて、狂人となす」と見えたり。既に詔命〔ぜうめい〕を下さる。子細を申にところなし。たゞすみやかに参らせ給べきなり。もし王子御誕生ありて、君も国母〔こくも〕と言はれ、愚老も外祖〔ぐわいそ〕とあふがるべき瑞相にてもや候らむ。是偏〔ひとへ〕に愚老をたすけさせおはします、御孝行の御いたりなるべし」と申させ給へども、御返事もなかりけり。大宮其比〔そのころ〕なにとなき御手習の次〔ついで〕に、
うきふしにしづみもやらでかは竹の世にためしなき名をやながさん
世にはいかにしてもれけるやらむ、哀〔あはれ〕にやさしきためしにぞ、人々申あへりける。
既に御入内の日になりしかば、父の大臣、供奉〔ぐぶ〕のかんだちめ、出車〔しゆつしや〕の儀式なンど、こゝろことにだしたてまいらせ給けり。大宮物憂き御いでたちなれば、とみにもたてまつらず。はるかに夜もふけ、さ夜もなかばになッて後、御車にたすけのせられ給けり。御入内の後は、麗景殿にぞまし/\しける。ひたすらあさまつりごとをすゝめ申させ給ふ御ありさま也。彼〔かの〕紫宸殿の皇居には、賢聖〔げんじやう〕の障子を立てられたり。伊尹〔いいん〕・鄭伍倫〔ていごりん〕・虞世南〔ぐせいなん〕・太公望・角里先生〔ろくりせんせい〕・季勣〔りせき〕・司馬。手なが長足なが・馬形の障子、鬼の間、李将軍がすがたをさながら写せる障子もあり。尾張守小野道風が、七廻賢聖の障子とかけるも、ことはりとぞ見えし。彼清涼殿の画図〔ぐわと〕の御障子には、むかし金岡〔かなおか〕がかきたりし遠山〔えんざん〕の在明の月もありとかや。故院のいまだ幼主にてまし/\けるそのかみ、なにとなき御手まさぐりの次〔ついで〕に、かきくもらかさせ給しが、ありしながらにすこしもたがはぬを御覧じて、先帝のむかしもや御恋しくおぼしめされけむ、
おもひきやうき身ながらにめぐりきておなじ雲井の月を見むとは
其間の御なからへ、言ひ知らず哀〔あはれ〕にやさしかりし御事なり。
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二代后〔にだいのきさき〕
昔より今に至るまで、源平両氏、朝家〔てうか〕に召つかはれて、王化に従はず、をのづから朝権をかろむずる者には、互〔たがひ〕にいましめをくはへしかば、代の乱れもなかりしに、保元に為義きられ、平治に義朝誅せられて後は、末/″\の源氏ども、或は流され、或はうしなはれ、今は平家の一類のみ繁昌して、かしらをさし出すものなし。いかならん末の代までも何事かあらむとぞ見えし。されども鳥羽院御晏駕〔あんか〕の後は、兵革〔ひやうがく〕うちつゞき、死罪・流刑・闕官・停任〔ちやうにん〕常におこなはれて、海内〔かいだい〕もしづかならず、世間もいまだ落居せず。就中〔なかんづく〕に、永暦・応保の比〔ころ〕よりして、院の近習者をば内より御いましめあり、内の近習者をば院よりいましめらるゝ間、上下おそれをのゝいて、やすい心もなし。たゞ深淵にのぞむで、薄氷を踏むに同じ。主上〔しゆしやう〕、々皇〔しやうくわう〕父子の御あひだには、なに事の御へだてかあるべきなれども、思〔おもひ〕の外〔ほか〕の事どもありけり。是も世澆季〔げうき〕に及で、人梟悪〔けうあく〕をさきとする故也。主上、院の仰〔おほせ〕を常に申かへさせおはしましける中にも、人耳目〔じぼく〕を驚かし、世もッて大〔おほき〕にかたぶけ申事ありけり。
故近衛院の后、太皇太后宮と申しは、大炊御門の右大臣公能〔きんよし〕公の御娘也。先帝にをくれたてまつらせ給ひて後は、九重の外〔そと〕、近衛河原の御所にぞ移りすませ給ける。さきのきさいの宮にて、幽〔かすか〕なる御ありさまにてわたらせ給しが、永暦のころほひは、御歳廿三にもやならせ給けむ、御さかりもすこし過させおはしますほどなり。しかれども、天下第一の美人の聞えまし/\ければ、主上色にのみそめる御心にて、偸〔ひそか〕に行力使〔かうりよくし〕に詔〔ぜう〕じて、外宮〔ぐわいきう〕にひき求めしむるに及で、この大宮へ御艶書あり。大宮敢てきこしめしもいれず。さればひたすら早〔はや〕ほにあらはれて、后御入内あるべき由、右大臣家に宣旨を下さる。此事天下にをいてことなる勝事〔せうし〕なれば、公卿僉議あり。各意見を言ふ。「先〔まづ〕異朝の先蹤をとぶらふに、震旦〔しんだん〕の則天皇后は、唐の太宗のきさき、高宗皇帝の継母なり。太宗崩御の後、高宗の后に立ち給へる事あり。是は異朝の先規たるうへ、別段の事なり。しかれども吾朝には、神武天皇より以降〔このかた〕、人皇〔にんわう〕七十余代に及まで、いまだ二代の后に立たせ給へる例を聞かず」と、諸卿一同に申されけり。上皇もしかるべからざる由、こしらへ申させ給へば、主上仰〔おほせ〕なりけるは、「天子に父母なし。吾十善〔じうぜん〕の戒功によッて、万乗の宝位をたもつ。是程の事、などか叡慮に任せざるべき」とて、やがて御入内の日、宣下せられけるうへは、力及ばせ給はず。
大宮かくときこしめされけるより、御涙に沈ませおはします。「先帝にをくれまいらせにし久寿の秋のはじめ、同じ野原〔のばら〕の露とも消え、家をも出で、世をものがれたりせば、今かゝる憂き耳をば聞かざらまし」とぞ、御歎〔なげき〕ありける。父の大臣こしらへ申させ給けるは、「世に従はざるをもッて、狂人となす」と見えたり。既に詔命〔ぜうめい〕を下さる。子細を申にところなし。たゞすみやかに参らせ給べきなり。もし王子御誕生ありて、君も国母〔こくも〕と言はれ、愚老も外祖〔ぐわいそ〕とあふがるべき瑞相にてもや候らむ。是偏〔ひとへ〕に愚老をたすけさせおはします、御孝行の御いたりなるべし」と申させ給へども、御返事もなかりけり。大宮其比〔そのころ〕なにとなき御手習の次〔ついで〕に、
うきふしにしづみもやらでかは竹の世にためしなき名をやながさん
世にはいかにしてもれけるやらむ、哀〔あはれ〕にやさしきためしにぞ、人々申あへりける。
既に御入内の日になりしかば、父の大臣、供奉〔ぐぶ〕のかんだちめ、出車〔しゆつしや〕の儀式なンど、こゝろことにだしたてまいらせ給けり。大宮物憂き御いでたちなれば、とみにもたてまつらず。はるかに夜もふけ、さ夜もなかばになッて後、御車にたすけのせられ給けり。御入内の後は、麗景殿にぞまし/\しける。ひたすらあさまつりごとをすゝめ申させ給ふ御ありさま也。彼〔かの〕紫宸殿の皇居には、賢聖〔げんじやう〕の障子を立てられたり。伊尹〔いいん〕・鄭伍倫〔ていごりん〕・虞世南〔ぐせいなん〕・太公望・角里先生〔ろくりせんせい〕・季勣〔りせき〕・司馬。手なが長足なが・馬形の障子、鬼の間、李将軍がすがたをさながら写せる障子もあり。尾張守小野道風が、七廻賢聖の障子とかけるも、ことはりとぞ見えし。彼清涼殿の画図〔ぐわと〕の御障子には、むかし金岡〔かなおか〕がかきたりし遠山〔えんざん〕の在明の月もありとかや。故院のいまだ幼主にてまし/\けるそのかみ、なにとなき御手まさぐりの次〔ついで〕に、かきくもらかさせ給しが、ありしながらにすこしもたがはぬを御覧じて、先帝のむかしもや御恋しくおぼしめされけむ、
おもひきやうき身ながらにめぐりきておなじ雲井の月を見むとは
其間の御なからへ、言ひ知らず哀〔あはれ〕にやさしかりし御事なり。
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※「行力使」についての脚注(p30)
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高力士。唐の玄宗皇帝の信任篤かった宦官。玄宗の命を受けて楊貴妃を探し求めた事が「長恨歌伝」に見えるが、以下の文は「詔高力士潜捜外宮、得弘農楊玄琰女于寿邱」という、その一節を踏まえ、二条天皇に対する非難の意をこめたもの。「詔じ」は正節本の濁点による。
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