学問空間

「『増鏡』を読む会」、第9回は2月22日(土)、テーマは「上西門院とその周辺」です。

資料:『平家物語』巻第一「二代后」

2024-12-26 | 鈴木小太郎チャンネル2024
『新日本古典文学大系44 平家物語 上』(岩波書店、1991)p29以下
-------
   二代后〔にだいのきさき〕

 昔より今に至るまで、源平両氏、朝家〔てうか〕に召つかはれて、王化に従はず、をのづから朝権をかろむずる者には、互〔たがひ〕にいましめをくはへしかば、代の乱れもなかりしに、保元に為義きられ、平治に義朝誅せられて後は、末/″\の源氏ども、或は流され、或はうしなはれ、今は平家の一類のみ繁昌して、かしらをさし出すものなし。いかならん末の代までも何事かあらむとぞ見えし。されども鳥羽院御晏駕〔あんか〕の後は、兵革〔ひやうがく〕うちつゞき、死罪・流刑・闕官・停任〔ちやうにん〕常におこなはれて、海内〔かいだい〕もしづかならず、世間もいまだ落居せず。就中〔なかんづく〕に、永暦・応保の比〔ころ〕よりして、院の近習者をば内より御いましめあり、内の近習者をば院よりいましめらるゝ間、上下おそれをのゝいて、やすい心もなし。たゞ深淵にのぞむで、薄氷を踏むに同じ。主上〔しゆしやう〕、々皇〔しやうくわう〕父子の御あひだには、なに事の御へだてかあるべきなれども、思〔おもひ〕の外〔ほか〕の事どもありけり。是も世澆季〔げうき〕に及で、人梟悪〔けうあく〕をさきとする故也。主上、院の仰〔おほせ〕を常に申かへさせおはしましける中にも、人耳目〔じぼく〕を驚かし、世もッて大〔おほき〕にかたぶけ申事ありけり。
 故近衛院の后、太皇太后宮と申しは、大炊御門の右大臣公能〔きんよし〕公の御娘也。先帝にをくれたてまつらせ給ひて後は、九重の外〔そと〕、近衛河原の御所にぞ移りすませ給ける。さきのきさいの宮にて、幽〔かすか〕なる御ありさまにてわたらせ給しが、永暦のころほひは、御歳廿三にもやならせ給けむ、御さかりもすこし過させおはしますほどなり。しかれども、天下第一の美人の聞えまし/\ければ、主上色にのみそめる御心にて、偸〔ひそか〕に行力使〔かうりよくし〕に詔〔ぜう〕じて、外宮〔ぐわいきう〕にひき求めしむるに及で、この大宮へ御艶書あり。大宮敢てきこしめしもいれず。さればひたすら早〔はや〕ほにあらはれて、后御入内あるべき由、右大臣家に宣旨を下さる。此事天下にをいてことなる勝事〔せうし〕なれば、公卿僉議あり。各意見を言ふ。「先〔まづ〕異朝の先蹤をとぶらふに、震旦〔しんだん〕の則天皇后は、唐の太宗のきさき、高宗皇帝の継母なり。太宗崩御の後、高宗の后に立ち給へる事あり。是は異朝の先規たるうへ、別段の事なり。しかれども吾朝には、神武天皇より以降〔このかた〕、人皇〔にんわう〕七十余代に及まで、いまだ二代の后に立たせ給へる例を聞かず」と、諸卿一同に申されけり。上皇もしかるべからざる由、こしらへ申させ給へば、主上仰〔おほせ〕なりけるは、「天子に父母なし。吾十善〔じうぜん〕の戒功によッて、万乗の宝位をたもつ。是程の事、などか叡慮に任せざるべき」とて、やがて御入内の日、宣下せられけるうへは、力及ばせ給はず。
 大宮かくときこしめされけるより、御涙に沈ませおはします。「先帝にをくれまいらせにし久寿の秋のはじめ、同じ野原〔のばら〕の露とも消え、家をも出で、世をものがれたりせば、今かゝる憂き耳をば聞かざらまし」とぞ、御歎〔なげき〕ありける。父の大臣こしらへ申させ給けるは、「世に従はざるをもッて、狂人となす」と見えたり。既に詔命〔ぜうめい〕を下さる。子細を申にところなし。たゞすみやかに参らせ給べきなり。もし王子御誕生ありて、君も国母〔こくも〕と言はれ、愚老も外祖〔ぐわいそ〕とあふがるべき瑞相にてもや候らむ。是偏〔ひとへ〕に愚老をたすけさせおはします、御孝行の御いたりなるべし」と申させ給へども、御返事もなかりけり。大宮其比〔そのころ〕なにとなき御手習の次〔ついで〕に、

 うきふしにしづみもやらでかは竹の世にためしなき名をやながさん

世にはいかにしてもれけるやらむ、哀〔あはれ〕にやさしきためしにぞ、人々申あへりける。
 既に御入内の日になりしかば、父の大臣、供奉〔ぐぶ〕のかんだちめ、出車〔しゆつしや〕の儀式なンど、こゝろことにだしたてまいらせ給けり。大宮物憂き御いでたちなれば、とみにもたてまつらず。はるかに夜もふけ、さ夜もなかばになッて後、御車にたすけのせられ給けり。御入内の後は、麗景殿にぞまし/\しける。ひたすらあさまつりごとをすゝめ申させ給ふ御ありさま也。彼〔かの〕紫宸殿の皇居には、賢聖〔げんじやう〕の障子を立てられたり。伊尹〔いいん〕・鄭伍倫〔ていごりん〕・虞世南〔ぐせいなん〕・太公望・角里先生〔ろくりせんせい〕・季勣〔りせき〕・司馬。手なが長足なが・馬形の障子、鬼の間、李将軍がすがたをさながら写せる障子もあり。尾張守小野道風が、七廻賢聖の障子とかけるも、ことはりとぞ見えし。彼清涼殿の画図〔ぐわと〕の御障子には、むかし金岡〔かなおか〕がかきたりし遠山〔えんざん〕の在明の月もありとかや。故院のいまだ幼主にてまし/\けるそのかみ、なにとなき御手まさぐりの次〔ついで〕に、かきくもらかさせ給しが、ありしながらにすこしもたがはぬを御覧じて、先帝のむかしもや御恋しくおぼしめされけむ、
 
 おもひきやうき身ながらにめぐりきておなじ雲井の月を見むとは

其間の御なからへ、言ひ知らず哀〔あはれ〕にやさしかりし御事なり。
-------

※「行力使」についての脚注(p30)
-------
高力士。唐の玄宗皇帝の信任篤かった宦官。玄宗の命を受けて楊貴妃を探し求めた事が「長恨歌伝」に見えるが、以下の文は「詔高力士潜捜外宮、得弘農楊玄琰女于寿邱」という、その一節を踏まえ、二条天皇に対する非難の意をこめたもの。「詔じ」は正節本の濁点による。
-------


コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

0234 頼まれもしないのに桃崎有一郎氏の弁護を少ししてみる。(その4)

2024-12-26 | 鈴木小太郎チャンネル2024
第234回配信です。


一、近時の学説の動向(続き)

資料:河内祥輔氏『保元の乱・平治の乱』(その1)(その2)〔2024-12-25〕
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/c8ea4593a6466c0bf0bff9f5a0f7dead
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/a3c65bde7b539b65b93de7dc5c4eb50e

資料:元木泰雄氏『保元・平治の乱を読みなおす』(NHKブックス、2004)〔2024-12-25〕
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/fd803b458b8db69d2cc57c656efd6025

資料:『平治の乱の謎を解く 頼朝が暴いた「完全犯罪」』〔2024-12-23〕
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/408464aec3f98dbdc0af039b0ea92acd

資料:桃崎有一郎氏「皇位継承問題と信西一家流刑問題に注目した河内説の価値」〔2024-12-26〕
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/3a0116ba84fc16c1757fa0e2179316d5

資料:古澤直人氏「第四章 平治の乱の構図理解をめぐって」〔2024-12-26〕
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/f889d2a74e3884a374ffc1e0f5913101


二、桃崎説で説明しやすくなる点

「二条天皇黒幕説」は桃崎氏自身が用いている表現だが、ネーミングとしてはあまり良くない。

律令法の大系において、天皇は究極の正統性(正当性)の根拠。
→建前としては無謬であり、黒くはなれない存在。

あえて言うならば「二条天皇白幕説」が妥当。
信頼・義朝は、少なくとも形式的には二条天皇の「王命」に従って行動したことは明らかではないか。
問題はその「王命」が実質を伴ったか。
信頼・義朝によって強制された「王命」だったのか、それとも二条天皇の真意に基づく「王命」だったのか。

冗談はともかく、「二条天皇黒幕説」で説明しやすい点。

二条天皇は後白河院政を終わらせるため、十二月九日、信頼・義朝に三条殿襲撃を命じた。
信西の梟首、信西の息子たちの配流も命じた。
しかし、敵の多かった信西への処分はともかく、三条殿襲撃、後白河院略取については非難の声が高まり、二条は責任を全て信頼・義朝に押し付けることにして、十二月二十五日、大内を脱出。
清盛に信頼・義朝の討伐を命令。

①三条殿襲撃事件の参加者相互の特別な結びつきを見つける必要がなくなる。
 →当今の二条天皇の命令に従った、で十分。
②京都合戦の直前、二条天皇が簡単に脱出できた理由。
 →そもそも信頼によって監禁されていなかったから。
③信頼が謀反人として処断された後も信西の息子たちが許されなかった理由。
 →信西排除は二条の命令によるものだったが、そのやり方(三条殿襲撃)が良くなかったとの形で、信頼・義朝の処断と切り離した。


三、桃崎説でなお残る疑問

信西は何故に梟首という残虐な処置を受けねばならなかったのか。
何故に二条はそこまで信西を憎んだのか。
また、後白河院政を終わらせたいとしても三条殿襲撃はあまりに強引。
後白河との対立の原因はいったい何だったのか。
→「二代の后」問題ではないか。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

資料:古澤直人氏「第四章 平治の乱の構図理解をめぐって」

2024-12-26 | 鈴木小太郎チャンネル2024
『中世初期の〈謀叛〉と平治の乱』(吉川弘文館、2019)
https://www.yoshikawa-k.co.jp/book/b383077.html

-------
第四章 平治の乱の構図理解をめぐって―清盛黒幕説と後白河上皇黒幕説について─

一 課題
二 平治の乱の構図理解(1)─清盛黒幕説について─
 1 多賀宗隼による新説
 2 清盛と信西の関係
 3 清盛の帰京について
 4 親政派と清盛(経宗・惟方の行動)
三 平治の乱の構図理解(2)─後白河黒幕説について─
 1 平治の乱に関する歴史叙述について
 2 貴族社会の状況とくに親政派と院政派の対立開始時期(乱の要因)
 3 後白河上皇の「動機」について(乱の要因2)
結び
------- 

p170以下
-------
 1 平治の乱に関する歴史叙述について

 河内祥輔氏は二〇〇二年に発表された『保元の乱・平治の乱』において平治の乱の全体像を叙述された。河内氏は平治の乱を議論する際にいくつかの前提をおいている。つまり、保元の乱については、『兵範記』という一級史料があるために、『保元物語』の誤謬を見極めるのは容易だが、平治の乱は依拠すべき日記を欠くので、『平治物語』に対する見方に甘さが生じ、ともすれば、事件の経緯が『平治物語』に全面的に依存して説かれる危険がある。軍記物語である『平治物語』の筋立てをすべて白紙にもどして見つめ直すべきである。以上の基本態度をとられたことである。こうした基本態度に立って、平治の乱については、
  ①『百錬抄』、②『愚管抄』、③『平治物語』
という史料の優先順位をつけ、─とくに②の『愚管抄』を主軸にすえ─事件の経緯そのものを調べ直す基礎的作業を行なわれた。河内氏の『保元の乱・平治の乱』における平治の乱に関する記述は、典拠表示を有する学問的著作としては近年唯一のものである。さらに、近代歴史学の長いスパンをとってみても、ほとんど唯一といってもよい学問的達成ではないかと思われる。保立道久氏はこの河内氏の新説について、「河内氏が『保元の乱・平治の乱』で展開した新説は、この二つの乱の詳細を描き出して間然するところがない」と評されている。しかし、その挑戦ゆえにいくつかの問題点を有し、その所論の有効性や射程の範囲、限界性、問題点を我々は慎重に検討し、吟味する必要がある。
-------

p173以下
-------
 3 後白河上皇の「動機」について(乱の要因2)

 後白河上皇の動機こそが河内氏の独自の見解でありまた氏の最大の主張である。それは「皇位継承問題」である。後白河は二条(子孫)を直系とした父鳥羽の遺志に反抗し、二条即位で空いた皇太子にひそかに次男(後の守覚法親王)を擁立しようとした。この次男は平治の乱の二ヶ月後に出家し皇位継承資格を失っており、平治の乱は次男の出家を止めるタイムリミットに起きた。この(守覚)擁立案を進めようとする場合、最大の反対者と予想されるのは信西であり、後白河にとって、信西は「邪魔な存在」であり、そこに信頼は信西のライバルとしてにわかに登場するとされる。後白河の鬱屈した衝動、すなわち鳥羽法皇の遺志の遵守という合意に対する反感がそこにみえると指摘された。
 実は筆者は以上の主張については是非の判断ができない。というのは、河内氏自身「文献上にその徴証を見出すことができるわけではない」が、「あえて想像を廻らして」、<皇位継承問題>が、後白河が信西排除に動いた動機と記されているからである。
 「後白河のような人物こそ、父に対して反抗する姿が似合っている」という記述も、<そうかもしれないがそうでないかもしれない>としかお答えしようがない。「皇位継承問題こそが一貫して政治の最重要課題であり、政治の主たる動因であったとみなければならない」という観点は、河内氏の一九八六年の『古代政治史における天皇制の論理』以来の一貫した観点であり仮説であるので、その観点から平治の乱についても解釈されたということは氏の研究の文脈に立てば十分理解できるのだが、筆者はその前提的理解を共有することできないので、本書の核心的な仮説であるこの「後白河上皇の動機」についても、残された具体的な痕跡から検討せざるをえないことになる。その結果として、具体的痕跡(おおよそが文献史料)にもとづく経験科学としての歴史学の問題としては、この命題はいまだ実証された問題ではなく、そしておそらく今後も実証不能な問題と考えざるをえない。河内氏ではこの記述に関して「想像」と断っているので、その点で問題は少ないのだが、筆者は以上の立場をとるゆえに、この河内氏の見通しについては受け入れることはできない。
-------
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

資料:桃崎有一郎氏「皇位継承問題と信西一家流刑問題に注目した河内説の価値」

2024-12-26 | 鈴木小太郎チャンネル2024
『平治の乱の謎を解く 頼朝が暴いた「完全犯罪」』 p139以下
-------
上皇御所の襲撃を正当化できるのは誰か

 俊憲兄弟の脱出以前に、襲撃者がした行為は二つしかない。三条殿への放火と、後白河院・上西門院の連れ出しである。上西門院はたまたま後白河と同居していただけで、標的ではあるまい。標的は後白河だ。しかも、円満な連れ出しなら、御所に放火するはずがない。ならば、次のように考えるのが妥当だ。襲撃者の主目的は、後白河の拉致と三条殿の破壊だった、と。
【中略】
 もし信頼・義朝が、信西の邸宅を襲っただけなら、私戦で済んだ。私戦も殺人も違法なので処罰は免れないが、それまでの判例に照らせば、解官・流罪くらいで済む。しかし、上皇御所を襲えば国家への反逆となり、「追討」という形での死刑判決は避けられない。
【中略】
 それにもかかわらず、襲撃者たちは<当然生き延びられる>という大前提で事件を起こした。彼らは、襲撃が社会の反発を(あまり)買わず、正当化可能で、襲撃さえ成功すればひとまず一件落着で安心だ、と信じられる理由を持っていたことになる。それは何だったのか。
 上皇御所の襲撃を正当化できる者。そして、犯人たちがその正当化に全幅の信用を置けるほどの者。それに該当するのは、襲われた上皇と同等以上の存在しかなかろう。
-------

p142以下
-------
皇位継承問題と信西一家流刑問題に注目した河内説の価値

 黒幕をここまで絞り込んだ歴史学者は、私が初めてではない。すでに河内説が、三条殿襲撃事件の黒幕を後白河だと名指ししている[河内02─一三四頁]。ただ、河内説は元木説・古澤説によって批判されている。【中略】
 ただ、それでも河内説には捨てがたい、価値ある指摘がある。
 一つは、後白河の皇子で二条の異母弟だった守覚の出家に着目したことだ[河内02─一一四~一一五頁、一三五頁]。守覚の出家は、京都合戦のわずか一ヵ月半後であり、その時期にはまだ最後の戦後処理(頼朝・希義兄弟や経宗・惟方・師仲の流罪処分)が完了していない。ならば、平治の乱と無関係ではないと考えるのが順当である。皇族は、出家すれば皇位継承権を失う。二条の異母弟がこの時期に出家した事実は、平治の乱に皇位継承問題が絡んでいたと推定するのに十分な根拠となる。これは、従来の学説の中で最大の価値があった着眼といっていい。
 もう一つ河内氏の着眼で重要なのは、信西の息子たちの断罪処分(解官・流罪)が、京都合戦で信頼が滅亡した後も、何と二ヶ月間も有効であり続け、撤回されなかった事実を指摘したことだ[河内02─一三〇頁]。信西の息子たちの断罪処分は、三条殿襲撃を果たした直接の結果として襲撃者一派が下した、信西一家を謀反人と断定する決定である。もしそれが、通説のいうように信頼による不正な人事だったのなら、信頼側が謀反人と断定されて滅亡した段階で、ただちに撤回されるのが当然だ。それが撤回されなかったということは、信頼でない別の誰かが信西一家を謀反人と断定し、その判断が信頼の滅亡後も揺るがなかった、ということだ。
 ならば、その"誰か"とは何者か。河内氏のいう通り、「その人物が九日事件(桃崎注─三条殿襲撃)の真の主役であろう」。そして、私見と同じく、河内氏もこう推測した。「そこに思い浮かぶのは、高位にある一人の人物ではなかろうか」と。
-------
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする