学問空間

「『増鏡』を読む会」、第9回は2月22日(土)、テーマは「上西門院とその周辺」です。

勝軍地蔵シリーズ

2008-03-14 | 勝軍地蔵と良助法親王
投稿者:鈴木小太郎 投稿日:2008年 3月14日(金)00時34分31秒

必要な論文が入手できなくて、今日はお休みです。
魚市場に行ったけれど、いい魚が手に入らなくて休業にする料理屋の親父のような心境です。

>kariさん
>2008年3月20日(日)
これ、木曜ですね。
日曜だったら何とかなるのですが、残念です。

>NAO4@吟遊詩人さん
>凄いプロジェクト
いえいえ。
事業といっても、あくまで副業であり、自分が楽しんでやれる範囲でやろうと思っています。

>阿哈馬江さん
なるほど、万里小路藤房でしたか。
「いかにせん憑む陰とて立よれば猶袖ぬらす松の下露」ですね。
http://j-texts.com/taihei/tk003.html

>うえんつさん
>ハードル高いですね。
いやいや、身近にもけっこういますよ。
阿哈馬江さんもそうですしね。
勝小吉の『夢酔独言』なんて、ぜひ英訳したいですね。

>筆綾丸さん
>瀬田勝哉氏
面白い論文を書く方ですね。
若手歴史学者の間でもファンが多いようです。
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古典英訳

2008-03-11 | 勝軍地蔵と良助法親王
投稿者:鈴木小太郎 投稿日:2008年 3月11日(火)23時57分31秒  

>NAO4@吟遊詩人さん
『与願金剛地蔵菩薩秘記』は怪しい箇所が多く、「安富道行」が実在したのかも分からないですね。
黒田智・大原嘉豊・小林美穂氏といった若手の学者は安富道行にあまり興味を持たないようなので、『与願金剛地蔵菩薩秘記』関係の古い論文を集めて、手がかりを見つけようとしているところです。

>出現頻度が下がりそうです。
了解しました。
みんな、それぞれの都合があるでしょうから、無理のない範囲で参加していただけるとありがたいです。

私は5月くらいに小さな事務所を借りて、ささやかな事業の拠点にするつもりなので、もう暫くしたらそちらの準備のために掲示板での出現頻度が減るかもしれません。
私が計画しているのは、日本の古典を英訳するという、完璧なまでに非実用的な英作文指導を行うミニ英語学校づくりですね。
和歌を英語に翻訳できるレベルの、国文学・歴史学の素養と高度な英語能力を併せ持った大学非常勤講師クラスの人をネットで募集して、日本の古典の英訳指導を行ってもらい、生徒への添削指導の成果はすべてネットに公開しようと思っています。
いわゆる文学作品だけでなく、吾妻鏡などの歴史書も対象にしたいですね。
ちなみに最初の生徒は私です。

>筆綾丸さん
私も昨日、ずっと勝軍山のことを考えていましたので、筆綾丸さんのご投稿を見て、もしかしたらテレパシーで通じ合う間柄になったのかと思いました。
瓜生山の勝軍地蔵は、延文六年(1361)造立と記されていたらしく、時期的に非常に早いものである上に、その形態が『与願金剛地蔵菩薩秘記』に示された勝軍地蔵像に近いんですね。
非常に興味深いです。

>うえんつさん
常に見栄を張って生きている東京人の私としては、年に一回くらい、コテコテの大阪人に変身してみたいような気もします。
そういう一日体験ツアーがあったら参加したいですね。

>kariさん
東アジア恠異学会第4回大会、行きたいなあと思っております。

>阿哈馬江さん
なかなか逞しい人ですね。

>井上さん
>西行の仮名
これですか。
http://www.idemitsu.co.jp/museum/honkan/exhibition/present/index.html
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安富道行って何者?

2008-03-10 | 勝軍地蔵と良助法親王
投稿者:鈴木小太郎 投稿日:2008年 3月10日(月)00時50分51秒

先に紹介した「良助私記」に、「茲に於て困誠に地蔵薩埵信ずるの人あり。蓮華三昧経の秘密を願ふ、凡そ秘法伝授の時、印信血脈を伝ふれば、其の名を載するに憚り有りと雖も、本名を載て今之を録す、正安の古、天台座主三品親王良助<亀山院第三皇子成就院>宗尊親王猶子、記録して以て地蔵尊擁護禅門安富道行に伝ふ、愚老齢九旬に及び、老朦尤も甚し、筆の誤り多かるべし、ゆめゆめ外見に及ぶこと莫れ」とあって、この土日に安富道行が何者なのか調べようとしたのですが、いろんな用事のため、結局、全然勉強できませんでした。
良助作だと偽った人がいたとしたら、当然、この安富道行なる人物が一番怪しいですね。

参考:ウィキペディア「安富氏」
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%AE%89%E5%AF%8C%E6%B0%8F


今日は勝軍地蔵像の変容について、大原嘉豊氏の「高野山親王院所蔵『勝軍地蔵』画像に関する考察」から引用してみます。
-------------------
 さて、ここで話を良助所引『蓮華三昧経』所説の勝軍地蔵図像に戻そう。
 まず注意すべき点として、ここで説かれる像容がある。すなわち、身に甲冑をまとい、左手に如意宝珠を掌に載せ、右手に錫杖を執り、軍馬に跨るというもので、後世の通行画像と近似する。これは、上記の『蓮華三昧経』成立年代の推論を傍証すると考える。これはむしろ当然で、良助の著作こそ、室町以降の勝軍地蔵信仰を牽引したからである。
 とすると、親王院本は、鎌倉時代後期の観智院金輪図像の存在を勘案すると、『蓮華三昧経』以前、もしくは図像交替の過渡期の状況を伝える作品ということになる。
 この過渡期がいつ頃まで続くかに関しては、景徐周麟『鹿苑日録』一、等持寺日件、長享元年(一四八七)九月晦日条が参考になる。即ち足利尊氏が等持寺に造立した勝軍地蔵泥塑像は、長享元年における足利義尚の改修以前は、天冠を著し胸に瓔珞を下げていたとされ、義尚が改修時に甲冑を新調させたとある。この改訂に関しては寺僧の間で問議されたが、周麟がこの『蓮華三昧経』を引いて、結局は義尚の命に従うことに決し、『蓮華三昧経』説に沿う形で持物も剣と幡とに改められた。
 この尊氏造立等持寺勝軍地蔵像は、森末義彰氏も指摘するように、明らかに本図及び観智院金輪図像と類縁関係にある。南北朝期までは本図の如き図像が主流を占めていたと思われる。その後、良助の著作の普及と勝軍地蔵信仰の武家層への拡大が、良助の著作に拠らない既存図像伝統を駆逐し、それに相応しい図像への展開を生んだのであろうと思われる。
-------------------
「観智院金輪図像」はまた後で補足します。

>筆綾丸さん
「閑道の昇進」は、高貴な家柄出身の僧侶が、正式なルートを経ず、実力の裏づけもなく、僧綱になることだと思います。
それと、私は国会図書館の郵送サービスで論文を読むことが多く、『尭榮文庫研究紀要』も現物は見ていないので、「後鳥羽皇子・尊縁について-「閑道の昇進」を転落した興福寺僧-」の内容は確認できていません。
すみませぬ。

>NAO4@吟遊詩人さん
>春近
自分の記憶のいい加減さに冷や汗が出ましたよ。

>うえんつさん
>即身成仏
これは即身仏との混同ですね。
上司というよりも、元気が良すぎる生徒に振り回されている高校教師あたりの心境です。
http://www.mikkyo21f.gr.jp/concept_key_joubutu03.html
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「中世における武士の愛宕信仰」

2008-03-08 | 勝軍地蔵と良助法親王
投稿者:鈴木小太郎 投稿日:2008年 3月 8日(土)01時48分25秒  

今日は小林美穂氏の「中世における武士の愛宕信仰」(『三重大史学』第4号、2004年)を読んでみました。
「2002年卒業」とあるので、まだまだ若い方ですが、奇をてらったところが全然なくて、丹念に事実を集め、丁寧に分析した良い論文ですね。
それにしても、愛宕は分からないことだらけですね。
村山修一氏は、
---------------
愛宕山は比叡山と並び平安京の都民から畏敬された雷神=火神の鎮する霊峰であり、比叡山の方は東北すなわち鬼門の方角に当り帝都守護とともに恐るべき鬼神の棲家としても印象づけられていた。鬼門の思想は中国に起源を有し比叡山延暦寺の繁栄につれ 帝都守護の使命とうらはらに天台密教の中でまず関心が高まったものと思われる。それに対し愛宕山は比叡山にくらべ遥かに雷神的勢威が強烈で山容がけわしく比叡山天台のようなオーソドックスな教団は定着せず、巫祝的山岳宗教家の私的集会霊場の感があった。ただ比叡山よりは真言密教系の進出が目立ったが、教団的組織は強力でなく民間的俗信的方向をとり、いわゆる愛宕修験と呼ばれる独特の宗教活動の拠点として有名になった。(『日本歴史』2004年1月号)
---------------
と言われていますが、もともと愛宕はちょっとガラの悪い宗教者の拠点だったうえに、明治の神仏分離でガタガタになって、記録が散逸してしまったものだから、中世の愛宕の状況を復元するのは非常に困難が多いですね。
勝軍地蔵が多武峯や清水寺で生まれたころは、その像形もオーソドックスな地蔵像や、そのちょっとした変形程度だったらしいのですが、後に愛宕系の勝軍地蔵が勢力を拡大して、ずんぐりむっくり型が勝軍地蔵の典型になってしまったようです。
足利尊氏が清水寺で拝んだ勝軍地蔵や、等持寺に当初置かれていた勝軍地蔵は、非ずんぐりむっくり型だったようですね。

参考:ずんぐりむっくり型勝軍地蔵の例
http://www.hpmix.com/home/himitu/A2_1.htm

愛宕神社公式サイト
http://kyoto-atago.jp/index.html

>筆綾丸さん
「聖覚」で検索していたら、如月さんの掲示板で、後鳥羽院さんの投稿を見つけました。
http://www.furugosho.com/cgi-bin/newbbs/yybbs.cgi?page=90&bl=0
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高野山親王院

2008-03-07 | 勝軍地蔵と良助法親王
投稿者:鈴木小太郎 投稿日:2008年 3月 7日(金)01時36分53秒

今日は大原嘉豊氏の「高野山親王院所蔵『勝軍地蔵』画像に関する考察」(『尭榮文庫研究紀要』6,2005)の冒頭を紹介します。
--------------
 筆者は、親王院御住職・安田弘仁氏から同院所蔵の尊格不明の仏画を調査するべく委嘱を受け、二〇〇三年五月二十七日、同院において標題仏画の調査を行い得た(口絵1)。
 その結果は、誠に驚くべきことで、「勝軍地蔵」という極めて特殊な図像であり、且つその制作年代も鎌倉末期に遡り得る該尊の別尊著色仏画としては最古作に位置づけうるものであることが判明した。筆者自身も未だ信じかねるものがある。
 前例がないだけに充分な研究は未だ行い得ていないが、調査の結果と判明したことを以下に論じ、向後の斯界の研究に資したい。
--------------
この口絵1というのを見ると、愛宕系のずんぐりむっくりした騎馬武者姿の勝軍地蔵とは似ても似つかない優美な双身像なので、ちょっとびっくりしました。
ちなみに親王院は平城天皇皇子の真如親王が開基だそうで、高野山なのに「本尊不動明王は、智証大師の作」というのも妙なものですね。
『尭榮文庫研究紀要』は親王院が出しているそうです。

http://www.shinnouin.jp/shinnouin.html
http://www.iwata-shoin.co.jp/bookdata/za0005.html

>筆綾丸さん
>5月28日の調伏の記述が六月条にある
いや、これは単なる記載ミスじゃないですかね。
いろいろレスしたいのですが、また後で。

>阿哈馬江さん
亀山上皇の皇子を並べてみると、恒明親王だけに自分の幼名である「恒仁」から「恒」の字を与えて、また「仁」4人「良」3人とは別に一人だけ「明」を用いているので、やっぱり別格扱いだなあと感じます。
最晩年の子に向けられた異常な愛情ですね。
http://www015.upp.so-net.ne.jp/gofukakusa/miura-hiroyuki-ryotomondaino-ichiharan.htm

>NAO4@吟遊詩人さん
赤い鳥居が怖いです。
夢に出てきそう。

>うえんつさん
これですかな。
http://www2.ocn.ne.jp/~heiryu/sub.html
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奈良の新マスコット

2008-03-06 | その他
奈良の新マスコット 投稿者:鈴木小太郎 投稿日:2008年 3月 6日(木)01時18分6秒

産経新聞より。
-----------------
 平城宮跡(奈良市)を主会場に開催される平城遷都1300年祭を2年後に控え、奈良県などでつくる事業協会が発表したマスコットキャラクターのデザインが波紋を呼んでいる。不評が多く、地元の市民グループは5日、白紙撤回を求める署名活動に乗り出す方針を決定。これに対し、同協会は「変更しない」と強気の構えを示している。
http://sankei.jp.msn.com/life/trend/080305/trd0803052341018-n1.htm

キューピーマヨネーズからも抗議されるカモ。
せめて鹿の角をカブリものにすればよかったのに。
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『承久三年四年日次記』

2008-03-06 | 勝軍地蔵と良助法親王
投稿者:鈴木小太郎 投稿日:2008年 3月 6日(木)00時50分23秒

>筆綾丸さん
またまた首藤善樹氏の論文からの孫引きで恐縮です。
-------------
もう一は『承久三年四年日次記』である。これは仁和寺の日次であるが、承久三年(一二二一)五月廿八日条に次のごとく記されている。
 廿八日、辛亥、立毘沙門供養勝軍地蔵勝敵。以聖覚法印為導師。
 被遣主典代俊職。大蔵卿願文章為長卿。清書前宮内権少輔行能。
これは、清水寺の住侶等が勝軍地蔵・勝敵毘沙門を造立供養し、その導師は聖覚法印であり、主典代紀俊職が遣され、願文は大蔵卿菅原為長が草し、前宮内卿権少輔藤原行能が清書したというのである。
 導師を勤めた安居院の聖覚は、後鳥羽上皇の重用を受けており、主典代俊職は後鳥羽上皇の院司である。願文とは、すなわち承久の乱にさいした後鳥羽上皇の関東調伏の願文であったことは、推察に難くない。
--------------
仁和寺の人がただ「聖覚法印」と言っているのだから、安居院法印聖覚で間違いないように思いますが、大原嘉豊氏の「高野山親王院所蔵『勝軍地蔵』画像に関する考察」(『尭榮文庫研究紀要』6,2005)でも、「東大寺聖覚が供養導師になった」とありますね。
ふーむ。気になる。
ま、私が承久三年の聖覚を延暦寺の人みたいに書いたのもトンチンカンでしたね。

>甲冑の異人を良助法親王とする議論には論理の飛躍がある
そうですね。
この結論を出すために、黒田氏はかなり無理していますね。
例えば、金ならうなるほど持ってるぜ、という「前太政大臣西園寺入道」は、黒田氏の西園寺実兼説より、首藤善樹氏の西園寺公経説の方がはるかに自然ですね。
大原嘉豊氏の論文は、また後で紹介します。

>うえんつさん
>こんなに鎌倉が愛しく切ないなんて。。。
和歌で愚痴を言うのは、あまり良い趣味ではないですね。
宗尊親王はしみったれた性格だから早死にしてしまったのでは、と思います。
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安居院か?

2008-03-05 | 勝軍地蔵と良助法親王
投稿者:鈴木小太郎 投稿日:2008年 3月 5日(水)01時51分51秒  

>筆綾丸さん
「東大寺」聖覚となってますが、藤原通憲の孫、能説で有名だった天台僧の澄憲の子の安居院法印聖覚であれば、「東大寺」は変ですね。
ただ、清水寺は延暦寺とは仲が悪いというか、しょっちゅう戦争してましたので、安居院法印聖覚で本当によいのか、気になります。

ところで、首藤善樹氏は、「元亨釈書よりも以前の史料を二点見出し得た」として、
-----------
その一は『多武峯略記』下である。『多武峯略記』は奥書に「建久八年<歳次丁巳>閏六月十二日於多武峯南院検校静胤撰之」とあり、鎌倉初期の多武峯の寺誌である。
  多楽院。<号勝軍堂>
  件堂者大法師済厳為外祖父尭観往生極楽所建立也。安置勝軍地蔵像。
これが管見における初見史料である。多武峯に多楽院という別院があり、勝軍堂と名付けられ、大法師済厳が外祖父尭観の往生極楽のために建立したもので、勝軍地蔵像を安置しているという。済厳は、同じく多武峯の平等院経蔵を白河院の勅宣を受けて建立したとされており、おおよその時代を想定できるであろう。したがって、この史料を表面的に読むならば、おそらくは白河院政期に、往生極楽のために多楽院すなわち勝軍堂が建立され、勝軍地蔵像が安置されたということになる。しかし、この多楽院が済厳により、外祖父の往生極楽のために建立されたのは事実であるとしても、当初から勝軍堂と呼ばれ、勝軍地蔵が安置されていたかどうかは、疑問が残るであろう。
-----------
とされていて、白河院政期は早すぎるだろうという考えのようです。
ただ、承安三年(1173)に、延暦寺傘下の多武峯は興福寺大衆と大規模な合戦をやって全山炎上してしまったので、この時期に「軍神としての将軍地蔵が祀られるに至る要因は、少なからず認められるであろう。」とされてますね。
そして、史料の第二として、黒田氏が初見史料としている『承久三年四年日次記』を紹介されてます。
黒田氏がなぜ建久八年時点での多武峯における勝軍地蔵の存在を否定するのか、理由はあまりはっきり書いてないですね。
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鎌倉の里

2008-03-05 | 日本文学
投稿者:鈴木小太郎 投稿日:2008年 3月 5日(水)00時54分28秒

>うえんつさん
実朝に、「宮柱 ふとしきたてゝ よろつ代に今そさかへん かまくらの里」という歌があるそうで、宗尊親王はこれを受けているのかもしれないですね。
ちなみに『増鏡』にも、巻二「新島守」の冒頭近く、
-----------------
又源氏武者といふも、清和の御門、あるは宇多院などの御後どもなり。二条院の御時、平治の乱に、伊豆の国蛭が小島へ流されし兵衛佐頼朝は、清和の御門より八代の流れに、六条判官為義といひし者の孫なり。左馬頭義朝が三男になむありける。西八条の入道大臣、やうやう栄花衰へんとて、後白河院をなやまし奉りしかば、安からず思ほされて、かの頼朝を召し出でて、軍を起し給ひしに、しかるべき時や至りけむ、平家の人々は、寿永の秋の木枯しに散りはてて、遂にわたつ海の底のもくづと沈みにし後、頼朝いよいよ権をほどこして、さらに君の御後見を仕うまつる。相模の国鎌倉の里といふ所に居りながら、世をばたなごころの中に思ひき。みな人知り給へることなれば、いまさらに申すも中々なれど、院の上、位につかせ給ひしはじめより、世のかためと成りて、文治元年四月、二の階をのぼりしも、八島の内の大臣宗盛を生捕りの賞と聞ゆ。建久の初めつかた、都にのぼる。その勢ひのいかめしき事、いへばさらなり。
-----------------
とありますね。

>NAO4@吟遊詩人さん
>元々、農村だと思います。
ひ、ひどい。
高声寺なんて、なかなか立派じゃないですか。
私はそれなりに栄えた町との印象を受けましたけど。
http://www.city.bando.lg.jp/sights/historical_masakado/masakadosiseki6.html
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清見関

2008-03-03 | 勝軍地蔵と良助法親王
投稿者:鈴木小太郎 投稿日:2008年 3月 3日(月)00時34分26秒    

さて、『国立歴史民俗博物館研究報告109』(2004年3月)で初めて黒田智氏の「勝軍地蔵と『日輪御影』」を読んだときは、すごい論文だなあと思ったのですが、今回、首藤善樹氏の非常に手堅い論文、「勝軍地蔵信仰の成立と展開」とじっくり読み比べてみたら、黒田氏の論文の荒っぽさが気になって仕方ないですね。
ま、それは後で書くとして、首藤氏の論文からの孫引きで恐縮ですが、今日は『元亨釈書』延鎮伝を紹介したいと思います。
昔はこれが勝軍地蔵の初見史料だと思われていたそうです。

------------------
釈延鎮。報恩法師之徒也。居清水寺。与坂上将軍田村遇。因為親友。奥州逆賊高丸。語鎮曰。我承皇詔征夷賊。仮法力争得不辱命。其加意焉。鎮諾。高丸已陥駿州。次清見関。聞将軍出師。退保奥州。官師与賊交鉾。官軍矢尽。于時小比丘及小男子拾矢与将軍。将軍異之。已而将軍親射高丸而斃於神楽崗。献首帝城。将軍先詣鎮曰。因師護念已誅逆寇。不知師之所修何法哉。鎮曰。我法中有勝軍地蔵。勝敵毘舎門。我造二像供修耳。将軍便説二人拾矢事。乃入殿見像。矢疵刀痕被其体。又泥土塗脚也。将軍大驚奏事。帝加敬焉。
------------------

先に「良助私記」を紹介したときに、突然「富士山清見関」が出て来て、若干奇異な感じをもたれた方がいるかもしれませんが、清水寺の坂上田村麻呂伝承にも清見関が出てくるんですね。
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バヌーリとは おれのことかと ベルヌーイ

2008-03-01 | 勝軍地蔵と良助法親王
投稿者:鈴木小太郎 投稿日:2008年 3月 1日(土)10時32分52秒    

これから出かけますので、良助法親王のことは後で書きます。
ちなみに冬野の良助法親王のお墓とその周辺はこんな感じです。(↓)

http://www1.kcn.ne.jp/~nishiura/new_page_21.htm
http://www.hpmix.com/home/tounomine/U11.htm
http://hattoris.sakura.ne.jp/soinabuti040502.htm

>NAO4@吟遊詩人さん
こっそり直しました。

>筆綾丸さん
>Bernoulliをバナライと発音
少し気になって“Surely You're Joking,Mr.Feynman!”を見たら、ファインマンは年上のルームメイト達に
“Why don't you use the Baronallai's equation?”
と言って、結局、
It turned out it was Bernoulli's equation that I meant, but I had read all this stuff in the encyclopedia without talking to anybody about it, so I didn't know how to pronounce anything.
となったそうですね。

私がカマキュラ君に「Baronallai」を発音させたところ、「バロナレイ」(レイにアクセント)と言っておりました。
辞書で調べると、アメリカ人はBernoulliを「バヌーリ」(ヌにアクセント)と発音するようなので、仮にファインマンとルームメイトの会話を日本人が横で聞いていたら、余計訳が分からない話になりそうですね。
ちなみに、カマキュラ君とは、ネットで無料で手に入れたRead Please という英語読み上げソフトに私が勝手につけた愛称で、Kamakuraをカマキュラと発音します。Emperor Udaを「ユーダ」 と言ったのもカマキュラ君です。


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