投稿者:鈴木小太郎 投稿日:2021年 9月17日(金)13時20分46秒
(その4)で「民部卿局」が下総国遠山方御厨を大徳寺に寄附したことを承認する元弘三年七月一日付の後醍醐天皇綸旨を紹介しましたが、遠山方御厨に関しては『成田市史 中世・近世編』(成田市、1986)に次のような説明があります。(p107以下)
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大徳寺への寄進
京都紫野の臨済宗竜宝山大徳寺は宗峰妙超の創建になる名刹で、たくさんの古文書を残しており、そのなかに遠山方御厨に関する五点の文書が含まれている。
A 後醍醐天皇綸旨
下総国遠山方御厨、民部卿局寄付の旨に任せて、大徳寺の管領相違有るべからず。てえれば、
天気此くの如し。よって執達件の如し。
〔範国〕
元弘三年七月一日 式部少輔(花押)
宗峰上人御房
B 後醍醐天皇綸旨
下総国遠山形御厨領家ならびに地頭職の事。申し入れ候のところ、永代知行候て、大徳寺ニ寄付の条、子細あるべからざるよし、
天気候うところなり。あなかしく。
〔元弘三年〕 〔千種〕
八月六日 左中将忠顕
民部卿とのへ
C 後醍醐天皇綸旨
下総国遠山方御厨領家ならびに地頭職、具行卿菩提所として、民部卿局大徳寺に寄付するの由、聞こし食されおわんぬ。永代管領相違有るべからず。てえれば、
天気此くの如し。これを悉くせ、以って状す。
〔千種忠顕〕
元弘三年八月十日 左中将(花押)
宗峯上人御房
D 官宣旨
左弁官下す竜宝山大徳禅寺
応に永く一円不輸の寺領として、国司守護使并びに役夫工米諸役を停止す
べき、信濃国伴野庄、下総国遠山方御厨、播磨国浦上庄、同小宅三職方、
同三方西郷、紀伊国高家庄等の事。
右、彼の寺の住持沙門妙超の今月日の奏状を得るに偁く。皇帝陛下伏して乞うらくは、儻ちに宣慈を蒙りて、これに官符を賜れば、妙超幸願に勝えず。所謂当寺は啻に(臺ハ啻ノ誤記カ)尋常たらず、聖運廓開の梵宇、宝祚万歳の勝槩なり。玆に因って、寺五山に冠し、位上藍たり。而るに令法久住、利済億劫は、偏えに食輪を以て最となす。昔日吾仏、仏法を以て国王、大臣、有力の檀越に付嘱す。実に是ゆえあるところなり。妙超専ら要す。信州伴野庄・下総国遠山方御厨・播州浦上庄・同小宅三職方・同三方西郷・紀州高家庄四箇村等、各国司守護使并びに役夫工米諸役を停止し、一円不輸の寺領として、未来際に至るまで、転変の儀なく、須く僧衆の止住を資くべし。早く公拠を下され、将来の亀鑑に備えられんことを。然らば即ち、王法と仏法と永く昌え、皇風と祖風と鎮に扇ん。てえり。権中納言藤原朝臣公泰宣す。勅を奉わるに請うに依れ。寺よろしく承知し、宣によりてこれを行え。
〔冬直〕
建武元年八月廿一日 大史小槻宿祢(花押)
〔正経〕
右中弁藤原朝臣(花押)
E 光厳院院宣
大徳寺領下総国遠山方御厨、知行相違有るべからず。てえれば、
院宣此くの如し。よって執達件の如し。
〔柳原資明〕
建武三年十月廿五日 参議(花押)
宗峯上人禅室
いかなる経緯を経たのか、遠山方御厨の領家・地頭職は鎌倉時代末に北畠具行の領掌するところとなっていた。具行は村上源氏流で、南朝勢力の主柱として活躍した北畠親房とは三歳年長の同族に当たる。具行は後醍醐天皇が即位する以前から近侍にあり、天皇の抜擢により、嘉暦元年(一三二六)三七歳で参議となり、幕府によって捕えられた元弘元年(一三三一)に従二位となった。正中の変で一度は失敗した天皇が笠置城に臨幸して再度討幕の挙兵を行なったこの年八月、天皇に供奉し落城後、召し捕えられたのである。翌年、天皇の重臣として関東に送られることになった彼は、途中近江国柏原で斬首された。六月十九日、四三歳であった。
元弘三年五月幕府が滅亡し、六月後醍醐天皇が京都に帰り建武政権が成立すると、北畠具行の母民部卿局は息子の菩提を弔うため遠山方御厨の領家・地頭職を大徳寺に寄進した。A・B・C三通の後醍醐天皇綸旨は、天皇がこの寄進を許可するため民部卿局と大徳寺の宗峰上人妙超にあてて発給した綸旨(蔵人が天皇の命を奉じて出す奉書形式の文書)である。翌建武元年(一三三四)に妙超は遠山方御厨を含む六か庄を一円不輸の寺領として、国司・守護使の入部や役夫工米以下の諸役賦課を停止されるよう申請した。Dはこの妙超の申請を認めた朝廷からの官宣旨である。【後略】
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長々と引用しましたが、本当に「遠山方御厨の領家・地頭職は鎌倉時代末に北畠具行の領掌するところとなってい」て、「北畠具行の母民部卿局は息子の菩提を弔うため遠山方御厨の領家・地頭職を大徳寺に寄進した」のかはかなり疑問です。
まず、『公卿補任』・『尊卑分脈』には北畠具行の母の名は記されていません。
また、領家職はともかく、地頭職を後醍醐近臣の北畠具行が有していたというのも不自然であって、実際には領家職・地頭職とも旧幕府側の誰かが有していて、幕府崩壊で没収されたと考えるべきではないかと思います。
そして、『尊卑分脈』を見ると従三位北畠親子は北畠具行の従兄妹なので、やはり「民部卿局」は北畠親子であり、後醍醐は北畠具行の菩提を大徳寺に弔わせるために、北畠親子を名目的な寄進者としただけではないかと私は考えます。
『講座日本荘園史5 東北・関東・東北地方の荘園』(吉川弘文館、1990)でも、下総国を担当した伊藤喜良氏は、「当御厨は元弘三年、後醍醐天皇によって領家職、地頭職ともに大徳寺に寄進され、一円不輸領とされた」(p161)としていて、「民部卿局」の名前もありません。
伊藤氏も、実質的には後醍醐が寄進者だ、と考えておられるようです。
なお、『増鏡』巻十六「久米のさら山」には北畠具行の妻の悲劇が丁寧に描かれ、そこに「内にさぶらひし勾当の内侍は、つねすけの三位女なりき」とあります。
http://web.archive.org/web/20150918011329/http://www015.upp.so-net.ne.jp/gofukakusa/genbun-masu16-tomoyuki1.htm
しかし、「つねすけの三位」が誰かははっきりせず、『増鏡(下)全訳注』(講談社学術文庫、1983)において、井上宗雄氏は、
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「つねすけの三位」は尾張本ほか「経朝の三位」とする本も多い。ただし経朝は建治二年に没した人であって、その女子が後醍醐に愛される年齢にはなりえない。<大系>補注の考証によると、この世尊時経朝男の経尹〔つねまさ〕の娘に、『分脈』には「女子 後醍醐院 勾当内侍」とみえ、これではないか。ただし『分脈』にはこの「女子」の上に「新田義貞朝臣室」とあるが、これは後の注記の可能性がある。義貞が後醍醐から勾当内侍を賜った有名な話が『太平記』巻二十にみえるが、これはむしろ『増鏡』のこの話の派生ではないか、と推察している。妥当な説と思われる。
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とされています。(p309以下)
『増鏡』の話がどこまで史実を反映しているのかは分かりませんが、世尊寺経尹の周辺に「民部卿」がいるかは一応調べる価値がありそうです。
ただ、仮に「民部卿」が存在したとしても、「民部卿局」はあくまで形式的寄進者と考えるべきではないかと思います。
(その4)で「民部卿局」が下総国遠山方御厨を大徳寺に寄附したことを承認する元弘三年七月一日付の後醍醐天皇綸旨を紹介しましたが、遠山方御厨に関しては『成田市史 中世・近世編』(成田市、1986)に次のような説明があります。(p107以下)
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大徳寺への寄進
京都紫野の臨済宗竜宝山大徳寺は宗峰妙超の創建になる名刹で、たくさんの古文書を残しており、そのなかに遠山方御厨に関する五点の文書が含まれている。
A 後醍醐天皇綸旨
下総国遠山方御厨、民部卿局寄付の旨に任せて、大徳寺の管領相違有るべからず。てえれば、
天気此くの如し。よって執達件の如し。
〔範国〕
元弘三年七月一日 式部少輔(花押)
宗峰上人御房
B 後醍醐天皇綸旨
下総国遠山形御厨領家ならびに地頭職の事。申し入れ候のところ、永代知行候て、大徳寺ニ寄付の条、子細あるべからざるよし、
天気候うところなり。あなかしく。
〔元弘三年〕 〔千種〕
八月六日 左中将忠顕
民部卿とのへ
C 後醍醐天皇綸旨
下総国遠山方御厨領家ならびに地頭職、具行卿菩提所として、民部卿局大徳寺に寄付するの由、聞こし食されおわんぬ。永代管領相違有るべからず。てえれば、
天気此くの如し。これを悉くせ、以って状す。
〔千種忠顕〕
元弘三年八月十日 左中将(花押)
宗峯上人御房
D 官宣旨
左弁官下す竜宝山大徳禅寺
応に永く一円不輸の寺領として、国司守護使并びに役夫工米諸役を停止す
べき、信濃国伴野庄、下総国遠山方御厨、播磨国浦上庄、同小宅三職方、
同三方西郷、紀伊国高家庄等の事。
右、彼の寺の住持沙門妙超の今月日の奏状を得るに偁く。皇帝陛下伏して乞うらくは、儻ちに宣慈を蒙りて、これに官符を賜れば、妙超幸願に勝えず。所謂当寺は啻に(臺ハ啻ノ誤記カ)尋常たらず、聖運廓開の梵宇、宝祚万歳の勝槩なり。玆に因って、寺五山に冠し、位上藍たり。而るに令法久住、利済億劫は、偏えに食輪を以て最となす。昔日吾仏、仏法を以て国王、大臣、有力の檀越に付嘱す。実に是ゆえあるところなり。妙超専ら要す。信州伴野庄・下総国遠山方御厨・播州浦上庄・同小宅三職方・同三方西郷・紀州高家庄四箇村等、各国司守護使并びに役夫工米諸役を停止し、一円不輸の寺領として、未来際に至るまで、転変の儀なく、須く僧衆の止住を資くべし。早く公拠を下され、将来の亀鑑に備えられんことを。然らば即ち、王法と仏法と永く昌え、皇風と祖風と鎮に扇ん。てえり。権中納言藤原朝臣公泰宣す。勅を奉わるに請うに依れ。寺よろしく承知し、宣によりてこれを行え。
〔冬直〕
建武元年八月廿一日 大史小槻宿祢(花押)
〔正経〕
右中弁藤原朝臣(花押)
E 光厳院院宣
大徳寺領下総国遠山方御厨、知行相違有るべからず。てえれば、
院宣此くの如し。よって執達件の如し。
〔柳原資明〕
建武三年十月廿五日 参議(花押)
宗峯上人禅室
いかなる経緯を経たのか、遠山方御厨の領家・地頭職は鎌倉時代末に北畠具行の領掌するところとなっていた。具行は村上源氏流で、南朝勢力の主柱として活躍した北畠親房とは三歳年長の同族に当たる。具行は後醍醐天皇が即位する以前から近侍にあり、天皇の抜擢により、嘉暦元年(一三二六)三七歳で参議となり、幕府によって捕えられた元弘元年(一三三一)に従二位となった。正中の変で一度は失敗した天皇が笠置城に臨幸して再度討幕の挙兵を行なったこの年八月、天皇に供奉し落城後、召し捕えられたのである。翌年、天皇の重臣として関東に送られることになった彼は、途中近江国柏原で斬首された。六月十九日、四三歳であった。
元弘三年五月幕府が滅亡し、六月後醍醐天皇が京都に帰り建武政権が成立すると、北畠具行の母民部卿局は息子の菩提を弔うため遠山方御厨の領家・地頭職を大徳寺に寄進した。A・B・C三通の後醍醐天皇綸旨は、天皇がこの寄進を許可するため民部卿局と大徳寺の宗峰上人妙超にあてて発給した綸旨(蔵人が天皇の命を奉じて出す奉書形式の文書)である。翌建武元年(一三三四)に妙超は遠山方御厨を含む六か庄を一円不輸の寺領として、国司・守護使の入部や役夫工米以下の諸役賦課を停止されるよう申請した。Dはこの妙超の申請を認めた朝廷からの官宣旨である。【後略】
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長々と引用しましたが、本当に「遠山方御厨の領家・地頭職は鎌倉時代末に北畠具行の領掌するところとなってい」て、「北畠具行の母民部卿局は息子の菩提を弔うため遠山方御厨の領家・地頭職を大徳寺に寄進した」のかはかなり疑問です。
まず、『公卿補任』・『尊卑分脈』には北畠具行の母の名は記されていません。
また、領家職はともかく、地頭職を後醍醐近臣の北畠具行が有していたというのも不自然であって、実際には領家職・地頭職とも旧幕府側の誰かが有していて、幕府崩壊で没収されたと考えるべきではないかと思います。
そして、『尊卑分脈』を見ると従三位北畠親子は北畠具行の従兄妹なので、やはり「民部卿局」は北畠親子であり、後醍醐は北畠具行の菩提を大徳寺に弔わせるために、北畠親子を名目的な寄進者としただけではないかと私は考えます。
『講座日本荘園史5 東北・関東・東北地方の荘園』(吉川弘文館、1990)でも、下総国を担当した伊藤喜良氏は、「当御厨は元弘三年、後醍醐天皇によって領家職、地頭職ともに大徳寺に寄進され、一円不輸領とされた」(p161)としていて、「民部卿局」の名前もありません。
伊藤氏も、実質的には後醍醐が寄進者だ、と考えておられるようです。
なお、『増鏡』巻十六「久米のさら山」には北畠具行の妻の悲劇が丁寧に描かれ、そこに「内にさぶらひし勾当の内侍は、つねすけの三位女なりき」とあります。
http://web.archive.org/web/20150918011329/http://www015.upp.so-net.ne.jp/gofukakusa/genbun-masu16-tomoyuki1.htm
しかし、「つねすけの三位」が誰かははっきりせず、『増鏡(下)全訳注』(講談社学術文庫、1983)において、井上宗雄氏は、
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「つねすけの三位」は尾張本ほか「経朝の三位」とする本も多い。ただし経朝は建治二年に没した人であって、その女子が後醍醐に愛される年齢にはなりえない。<大系>補注の考証によると、この世尊時経朝男の経尹〔つねまさ〕の娘に、『分脈』には「女子 後醍醐院 勾当内侍」とみえ、これではないか。ただし『分脈』にはこの「女子」の上に「新田義貞朝臣室」とあるが、これは後の注記の可能性がある。義貞が後醍醐から勾当内侍を賜った有名な話が『太平記』巻二十にみえるが、これはむしろ『増鏡』のこの話の派生ではないか、と推察している。妥当な説と思われる。
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とされています。(p309以下)
『増鏡』の話がどこまで史実を反映しているのかは分かりませんが、世尊寺経尹の周辺に「民部卿」がいるかは一応調べる価値がありそうです。
ただ、仮に「民部卿」が存在したとしても、「民部卿局」はあくまで形式的寄進者と考えるべきではないかと思います。