第17回配信です。
一、『鎌倉仏教の研究』(平楽寺書店、1957)の構成
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親鸞をめぐる諸問題
覚信尼について
「いまこせんのはは」について
親鸞の消息について─服部之総氏の批判に答えて─
初期真宗教団の社会的基盤について
教行信証(坂東本)について
「獅子身中の虫」と「諸仏等同」について
親鸞像について
西本願寺本親鸞伝絵について
「鏡御影」の賛について
一遍について
一遍上人の時宗について
時宗芸術史上の一、二の問題について
一遍の著述と推定される聖教について
藤沢市清浄光寺の時衆過去帳
慈円と未来記
愚管抄について
南北朝内乱と未来記について─四天王寺御手印縁起・慈円和尚夢想記─
慈円和尚夢想記について
御影堂について
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二、「はじめに」
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親鸞をめぐる諸問題
覚信尼について
「いまこせんのはは」について
親鸞の消息について─服部之総氏の批判に答えて─
初期真宗教団の社会的基盤について
教行信証(坂東本)について
「獅子身中の虫」と「諸仏等同」について
親鸞像について
西本願寺本親鸞伝絵について
「鏡御影」の賛について
一遍について
一遍上人の時宗について
時宗芸術史上の一、二の問題について
一遍の著述と推定される聖教について
藤沢市清浄光寺の時衆過去帳
慈円と未来記
愚管抄について
南北朝内乱と未来記について─四天王寺御手印縁起・慈円和尚夢想記─
慈円和尚夢想記について
御影堂について
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二、「はじめに」
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「鎌倉仏教の研究」の書名に纏められて、発表される親鸞・一遍・慈円関係の論文十六篇のうち、十一篇は専門雑誌に発表した旧稿であり、「覚信尼について」「いまこせんのははについて」「一遍上人の時宗について」の三篇は終戦以前に発表されたものである。今回これらの旧稿を再録するに当つて、仮名遣いを新仮名遣いに統一した外、改訂は用語用字の誤りなどを二三訂正削除するに止め、大体は旧稿のままにしておいた。この書で初めて発表される五篇は、一昨年の秋この書の出版を計画した後に、起稿したものである。
【中略】(親鸞・一遍・慈円に関する研究動向)
私は北海道の片田舎の真宗寺院に生まれたが、第三高等学校に入学して、中村直勝博士の手ほどきを受け、国史研究を志望するようになり、京都帝国大学史学科に入つた。在学中は主として故三浦周行博士の厳格な教授を受けて、実証的な研究法を身に付けるようになり、中世社会経済の究明を生涯の研究課題に定めた。三浦博士は、私が大学を卒業すると間もなく、退官され、次いで死去されたが、大学院在学中は西田直二郎博士の指導を受け、大学院退学後は、博士の推薦で京都府庁の史蹟国宝の調査嘱託となつた。それ以来、昭和二十六年八月京都大学文学部の教官となるまでの満十五年間、私は文化財の調査保存を主な職務としていた。
私が中世仏教に深い関心を持つようになつた始めは、大学院に在学した間であつた。当時親鸞の女覚信尼をめぐつて、激しい論争が行われていたが、この論争は誤つた史料解釈の上に惹き起されたことに気づいたのが、その動機であつた。宗教・史論など思想を取扱う歴史研究では、施策の論理追求に重きが置かれ、ややもすると社会との交渉面の史料考証が閑却されたり、行われても厳密でなかつたりする。また史料蒐集の範囲が限られているために、史料考証が独断に陥つたり、重大な史実を見逃したりする。このような欠陥に気づいた私は、寺院の文化財調査の傍ら、この方面の史料蒐集にも心がけた。この書に収められている数篇の論文は、このようにして蒐められた史料を基にして、纏められたものである。東西両本願寺・専修寺・清浄光寺・青蓮院など、多くの寺院が快く私に所蔵の文化財の調査を許可したことに、衷心より御礼を申上げる。
【中略】(出版社・恩師・学友・親族への謝辞)
最後に、困難な学術論文集の出版を申出られた井上氏、原稿の取揃清書に尽力して頂いた黒田俊雄氏と勢津子夫人、激務のなかで索引を作製された石田善人氏、困難な写真撮影をして頂いた高橋猪之介氏の好意によつて、この書が出来上つたことを銘記して、御礼の言葉とする。
昭和三十二年四月二十八日
満五十回の誕生の日に
赤松俊秀
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三、「覚信尼について」
【中略】(親鸞・一遍・慈円に関する研究動向)
私は北海道の片田舎の真宗寺院に生まれたが、第三高等学校に入学して、中村直勝博士の手ほどきを受け、国史研究を志望するようになり、京都帝国大学史学科に入つた。在学中は主として故三浦周行博士の厳格な教授を受けて、実証的な研究法を身に付けるようになり、中世社会経済の究明を生涯の研究課題に定めた。三浦博士は、私が大学を卒業すると間もなく、退官され、次いで死去されたが、大学院在学中は西田直二郎博士の指導を受け、大学院退学後は、博士の推薦で京都府庁の史蹟国宝の調査嘱託となつた。それ以来、昭和二十六年八月京都大学文学部の教官となるまでの満十五年間、私は文化財の調査保存を主な職務としていた。
私が中世仏教に深い関心を持つようになつた始めは、大学院に在学した間であつた。当時親鸞の女覚信尼をめぐつて、激しい論争が行われていたが、この論争は誤つた史料解釈の上に惹き起されたことに気づいたのが、その動機であつた。宗教・史論など思想を取扱う歴史研究では、施策の論理追求に重きが置かれ、ややもすると社会との交渉面の史料考証が閑却されたり、行われても厳密でなかつたりする。また史料蒐集の範囲が限られているために、史料考証が独断に陥つたり、重大な史実を見逃したりする。このような欠陥に気づいた私は、寺院の文化財調査の傍ら、この方面の史料蒐集にも心がけた。この書に収められている数篇の論文は、このようにして蒐められた史料を基にして、纏められたものである。東西両本願寺・専修寺・清浄光寺・青蓮院など、多くの寺院が快く私に所蔵の文化財の調査を許可したことに、衷心より御礼を申上げる。
【中略】(出版社・恩師・学友・親族への謝辞)
最後に、困難な学術論文集の出版を申出られた井上氏、原稿の取揃清書に尽力して頂いた黒田俊雄氏と勢津子夫人、激務のなかで索引を作製された石田善人氏、困難な写真撮影をして頂いた高橋猪之介氏の好意によつて、この書が出来上つたことを銘記して、御礼の言葉とする。
昭和三十二年四月二十八日
満五十回の誕生の日に
赤松俊秀
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三、「覚信尼について」
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【前略】
現在知られている史料のなかにて、最も早く覚信尼に就いて概括的にその一生を録しているものは覚信尼の孫覚如の手になると認められている、本願寺留守職相伝系図であるが、覚信尼に関する部分を抽記すると、次の如くである。
覚信尼 元久我太政大臣通光公女房、号兵衛督局、皇太后宮大進有範孫、親鸞上人息女
日野宮内少輔兼左衛門佐広綱妾、以当敷地、寄付本師親鸞上人影堂敷財主也。
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2022年10月の中間整理(その1)
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/a51ac87b2f3a875e870d8c9f1d1663e6
四、浄土真宗とマルクス主義
【前略】
現在知られている史料のなかにて、最も早く覚信尼に就いて概括的にその一生を録しているものは覚信尼の孫覚如の手になると認められている、本願寺留守職相伝系図であるが、覚信尼に関する部分を抽記すると、次の如くである。
覚信尼 元久我太政大臣通光公女房、号兵衛督局、皇太后宮大進有範孫、親鸞上人息女
日野宮内少輔兼左衛門佐広綱妾、以当敷地、寄付本師親鸞上人影堂敷財主也。
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2022年10月の中間整理(その1)
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/a51ac87b2f3a875e870d8c9f1d1663e6
四、浄土真宗とマルクス主義
服部之総(はっとり・しそう、1901-56)
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%9C%8D%E9%83%A8%E4%B9%8B%E7%B7%8F
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%9C%8D%E9%83%A8%E4%B9%8B%E7%B7%8F
田中真人「日本戦闘的無神論者同盟の活動」を読む。(その1)
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/9779cb4e1113df86574119a5ba3c1b9c
「細い顔に金縁眼鏡が似合うこの学習院出の紳士」(by 色川大吉)
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/84eb8f1926d6a80699fce2e084af732c
村上重良を探して(暫定的、そして残念的結論)
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/c0c5e72106e7076d4bc0abf07954accb
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/9779cb4e1113df86574119a5ba3c1b9c
「細い顔に金縁眼鏡が似合うこの学習院出の紳士」(by 色川大吉)
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/84eb8f1926d6a80699fce2e084af732c
村上重良を探して(暫定的、そして残念的結論)
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/c0c5e72106e7076d4bc0abf07954accb