●奈良時代(元明天皇)
710(和銅3)年 〈平城京遷都〉★★
Empress Gemmei moves capital to Heijyokyo.
南都(なんと)平城 厳命す。
710年 奈良時代 平城京 条坊 元明天皇 朱雀大路
律令国家の体制が整うにつれ、壮大な都城建設の意欲が高揚。藤原京の建設はその第一歩であった。その後元明天皇は奈良に大規模な平城京を造営し、710年に遷都した。都の中央には朱雀大路が走り、碁盤目状の道路である条坊で区画された。都が平安京に遷されるまでの約80年間を奈良時代という。
2015早大・商
次の文章を読んで、下記の設問(A~J)に笞えよ。解答はもっとも適当なものを1つ選び、解笞記入欄のその番号をマークせよ。もし、適当なものがなければ6をマークせよ。
奈良時代の天皇の歴史についてみてみよう。
天武天皇の子として生まれたイ草壁皇子は、将来を嘱望されながら、若くして世を去った。そこで、天武の皇后であった持統天皇が即位した。彼女は、草壁皇子の子である軽皇子に期待し、彼が15歳になると皇位を譲った。文武天皇である。しかし、その文武天皇も病弱であり、即位後10年程で亡くなってしまう。だが、文武と[ ロ ]の間に生まれた首皇子はまだ年若い。そこで、文武の母がハ元明天皇として即位し、ついで、文武の姉妹であった元正天皇も皇位に就いた。二代続けてのニ女帝である。
やがて、首皇子が成長すると、ホ聖武天皇として即位した。聖武の皇后は、へ藤原不比等とト県犬養三千代の間に生まれた光明子であった。二人の間に待ちに待った男子が誕生したが、まもなく夭逝し、女子のみが成長した。阿倍内親王、後の孝謙天皇である。彼女は一生不婚でチ淳仁天皇をはさんで再び即位し、称徳天皇となった。
しかし、ここで聖武・光明子の系譜d途絶えた。そこで群臣たちは称徳天皇亡き後、白壁王を擁立した。リ光仁天皇である。
問A 下線部イ草壁皇子のライバルであり、謀反の疑いをかけられて自殺した人物は誰か。
1.山背大兄王 2.有馬皇子 3.大津皇子 4.舎人親王 5.高市皇子
(答:3)
問B 空欄ロにあてはまる人物は誰か。
1.藤原宮子 2.藤原明子 3.藤原薬子 4.藤原順子 5.藤原威子
(答:1)
問C 下線部ハ元明天皇の時の出来事として誤っているものはどれか。
1.平城京に遷都した。
2.『日本書紀』が完成した。
3.和同開称を鋳造した。
4.『風土記』の作成を命じた。
5.蓄銭叙位令を出した。
(答:2 ※元明天皇(707~15)、遷都710、日本書紀720、和同開珎710、風土記の編集命令713、蓄銭叙位令711)
問D 下線部ニ女帝に関連して、女帝の組み合わせとして正しいものはどれか。
1.舒明-斉明 2.欽明-斉明
3.欽明-推古 4.敏達-皇極
5.舒明-皇極
(答:6)
問E 下線部ホ聖武天皇が遷都した順番が正しいものはどれか。
1.難波-紫香楽-恭仁
2.難波-恭仁-紫香楽
3.紫香楽-恭仁-難波
4.恭仁-紫香楽-難波
5.恭仁-難波-紫香楽
(答:5※恭仁京(740~44)→難波宮(744)→紫香楽宮(742離宮建設、743大仏造立の詔、744遷都→平城京還都(745~84))
問F 下線部ヘ藤原不比等について述べた文として誤っているものはどれか。
1.大宝律令の編纂に参加した。
2.平城京遷都に尽力した。
3.藤原鎌足の子であった。
4.東大寺建設に尽力した。
5.養老律令編簒の中心となった。
(答:4 ※不比等(659~720)、745聖武天皇が発願)
問G 下線部ト県犬養三千代のもう一人の子は誰か。
1.吉備真備 2.橘奈良麻呂 3.玄(ぼう) 4.石上宅嗣 5.橘諸兄
(答:5)
問H 下線部ト県犬養三千代に関わりの深いと伝えられているものはどれか。
1.法隆寺橘夫人念待仏
2.薬師寺薬師三尊像
3.薬師寺聖観音像
4.東大寺戒壇院四天王像
5.東大寺日光・月光菩薩像
(答:1▼)
問I 下線部チ淳仁天皇が流されたのはどこか。
1.讃岐国 2.隠岐国 3.佐渡国
4.土佐国 5.淡路国
(答:5)
問J 下線部リ光仁天皇について述べた文として誤っているものはどれか。
1.即位した時の年齢は60歳を超えていた。
2.天智天皇の孫であった。
3.道鏡を観世音寺に流した。
4.桓武天皇の父であった。
5.加墾禁止令を廃止した。
(答:3)
2015関西大・全学部
平安京の中央北端は平安宮(大内裏)という宮域である宮域内の南中央を占めるのは正庁の( 2 )で、南面に設けられた応天門の炎上をめぐる事件が9世紀後半に起こり、その炎上の様子は『( 3 )』に描かれる。宮域には( 2 )のほか、天皇の居所である内裏や諸官庁があり、また平安宮外の南には神泉苑という広大な禁苑があった。(中略)内裏の正殿は中央やや南に位置する( 5 )で、正面の南庭とあわせて公式の儀式・行事の場となった。
(2朝堂院、3伴大納言絵巻、5紫宸殿、問題には選択肢が30語あり)〉
〈2013大阪大・前期:「(I)平城京は、およそ10万人が住む政治都市であったといわれる。平城京はどのように区画され、いかなる施設が配置されていたのか、その概要を述べなさ
い(200字程度)。」〉
〔解答例〕
平城京は、碁盤の目状に東西・南北に走る道路で区画される条坊制を持つ都市であった。中央を南北に走る朱雀大路で東の左京と西の右京とに分けられ、左京の張り出し部に外京もあった。中央北の平城宮には、天皇が生活する内裏、政務・儀礼を行う大極殿・朝堂院、二官・八省などの官庁がおかれた。京域内には貴族・官人や庶民の住宅、官営の東市・西市が置かれた。薬師寺・興福寺などの大寺院も建立され,鎮護国家の法会を行った。(203字)〉