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蔵物蔵米商人

2017-06-29 | 生物暗記法

普段旅籠で 蔵も藩。

差(ふださし))(蔵元(くらもと))


[ポイント]

1.各藩の年貢米を蔵元が売買、その代金を掛屋が出納、一方旗本・御家人の給米を札差が売買換金した。

[解説]

1.大坂は「天下の台所」といわれ、西日本や全国の物資の集散地としてさかえた大商業都市であった。西日本や日本海側の諸藩を中心に蔵屋敷を大坂において、領内の年貢米や特産物である蔵物蔵元掛屋と呼ばれる商人を通じて販売し、貨幣の獲得につとめた。

2.蔵屋敷は大坂のほか、江戸・長崎・大津など幕府の直轄都市におかれた。蔵屋敷において、蔵物の取引にたずさわるものを蔵元、代金などの出納にあたるものを掛屋と呼んだ。同じ商人が両者を兼ねることも多かった。


3.幕臣である旗本御家人の俸禄(蔵米)の受取・売却・金融をおこなう商人を札差という。

2016立教大・文:「
問2.江戸時代のこれ(米)に関する記述として正しいのはどれか。次のa~dから1つ選べ。

 a.大坂では堂島で米市場が発展した

 b.蔵元は年貢米の保管・管理をおこなったが、販売はおこなわなかった
 c.脱穀は踏車を使っておこなわれるようになった
 d.水呑百姓はその所持する石高の40~50%を米穀などで領主におさめた

(答:a ※b×販売をおこなう、c×踏車は揚水用具、d水呑百姓は自分の農地を持ってない)


2016早大・人間科学:「

問5 下線部c(18世紀後半の農村)の村内の階層分化に関連する記述として、正しいものはどれか、1つ選べ。

 ア 困窮した百姓に金を貸し、質にとった土地を集めた町人は蔵元と呼ばれ、商品作物の生産流通の中心を担った。

 イ 自分の土地や家を失った百姓は、小作人になるか、年季奉公・日傭稼ぎのために村を離れていった。
 ウ 18世紀後半、幕府は質流れのかたちで田畑が売買されるのを禁じたため、各地で質地騒動が起こった。
 エ 天災や飢饉で疲弊した農村の立て直しを図るため、松江藩の佐竹義和は徹底した勧農抑商策をとった。
 オ 享保の改革では、江戸に流入していた没落農民の帰村・帰農を奨励する旧里帰農令が出された。」

(答:イ ※ア×蔵元→質地地主、ウ×「田畑の質入れは認めるが質流れは認めない」という趣旨の質流地禁止令を農民が質地取り返しができる徳政令と解釈したためおきた騒動、エ佐竹義和は秋田藩主、オ×旧里帰農令は寛政の改革)〉


2016立教大・法済異文:「

問2.これ(札差)に対して旗本・御家人への貸金を放棄させた、寛政の改革における法令の名をしるせ。

(答:棄捐令)〉


2016法大・済(国ビジ)社(政策メディ)現福:「

問14 下線部l天保の改革とよばれる一連の改革の説明として誤っているものを下記のア~オから二つ選べ。

 ア 川越・庄内・長岡3藩の領知をたがいに入れ換えることを命じたが、領民の反対もあって撤回された。

 イ 物価の引き下げを期待し札差の解散を命じたが、江戸への商品輸送量が減り、逆効果となった。
 ウ 江戸に流入した貧民の帰郷を強制する人返しの法を発し、荒廃した農村の再建をはかろうとした。
 エ 関東の農村で治安の乱れが生じたため、関東取締出役を設けて、犯罪者の取り締まりにあたらせた。
 オ 倹約令を出して、ぜいたく品や華美な衣服を禁じ、庶民の風俗もきびしく取り締まった。」
(答:イ×札差→株仲間、エ×関東取締出役は大御所時代)

2013同志社大学・法グロコミュ:「

問コ.以下にあげる史料は1789年に札差に債権の全部または一部を放棄させる目的で幕府が発布した法令である。(   )の中に入る言葉を漢字2字で記せ。
 
旧来之借金は勿論、六ヶ年以前辰年までに借り詰け候金子は、古借・新借之差別無く、(   )之積り相心得べき事。」


(答:棄捐)〉


2014文教大学・全学部:「

問6 下線部(e)金融業に関連して、江戸時代、幕府の年貢米の売却を扱い、旗本・御家人への金融を行った商人の名称として最も適切なものはどれか。次の中から一つ選べ。」

 1蔵元 2掛屋 3札差 4問丸」


(答:3)〉

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第5章 ヨーロッパ世界の形成と発展

2017-06-29 | 生物暗記法

第5章 ヨーロッパ世界の形成と発展

3節 西ヨーロッパ中世世界の変容(前)

用語リストへア.十字軍とその影響
■ポイント 十字軍はなぜ起こされたか、またどう変質し、どんな影響を与えたか理解する。
農業技術の進歩  11~13世紀 気候の温暖化に伴い、農業技術の変化・進化が起こった。
  •  三圃制 の普及( 5章1節参照)。
    =b 耕地を春耕地・秋耕地・休耕地に三分して作物を輪作し、地味の低下を防ぐ農法。  
  •  重量有輪犂 の普及:耕地を深く耕すことを可能にし、また細長い条地にわける開放耕地となった。
  • その他 d 水車 の改良など。
  • 農村の変化:耕地の共同耕作や共同牧場での作業を通じ、e 村落共同体 が形成された。
    影響 f 生産力を向上させ、人口増加をもたらし、西ヨーロッパ・キリスト教世界の膨張運動が起こった。  
西ヨーロッパ世界の膨張 
  • 耕地の拡大:a 修道院による開墾運動  。(4節参照) ・b オランダの 干拓  の拡大。
  •  ドイツ人の東方植民   :エルベ以東のd スラヴ人  地域への侵出。(後出)
  •  イベリア半島での国土回復運動 :イスラーム教に対するキリスト教の攻勢。(後出)
  • 聖地f イェルサレム  へのg 巡礼  の流行など。
      → ▲ローマやサンチャゴ=デ=コンポステラ(スペインの西北端)もその目的地とされた。
C十字軍運動の開始 
    • 11世紀 イスラーム教勢力のa セルジューク朝  が小アジア・パレスティナに進出。
       イェルサレムを支配 →  ビザンツ皇帝 がローマ教皇b ウルバヌス2世  に救援を要請。

Text p.138

  • 1095年 教皇b ウルバヌス2世  、c クレルモン宗教会議  を開催。
     ヨーロッパ諸国の君主・諸侯にd 聖地回復をめざす聖戦(十字軍の派遣)  を提唱。
     教皇のねらい:e 叙任権闘争での教皇権の優位  の確立と、f 東西教会の統合  をはかること。

解説

クレルモン宗教会議はカトリック教会の歴史上は正式な「公会議」とはされていない。もともと┼字軍派遣のために招集されたわけではなく、聖職売買の禁止や聖職者妻帯の禁止、聖職叙任権の奪回などの教会改革についての宗教会議であったが、その最後にウルバヌス2世が、聖地回復を呼びかけた。その時教皇は、パレスチナを「乳と蜜の流れる国」と呼び、キリスト教徒の移住を勧めたのだった。
十字軍運動の展開  11世紀末~13世紀の約200年にわたって展開された(回数には諸説あり)。
    • 第一回  a 1096 年に出発し、1099年に聖地を回復、略奪。b イェルサレム王国  を建設。
        → イスラーム世界はまとまりを欠いていたが、まもなく勢力を回復し激しい抗争が続く。

解説

1099年に十字軍がイェルサレムを占領したとき、十字軍兵士によってイスラーム教徒やユダヤ教徒の7万人が虐殺され、「岩のドーム」などの財宝が略奪された。この時成立したイェルサレム王国の国王となったロレーヌ侯ゴドフロワは「聖墳墓の守護者」を名乗ったが、実態は世俗的国家で、十字軍の諸侯に土地を分け与えた。
  • 第二回  1147~49年 独王(コンラート3世)・仏王(ルイ7世)が参加 両者反目し失敗。
      1187年 c サラディン(サラーフ=アッディーン)  率いるアイユーブ朝軍がイェルサレムを占領。
  • 第三回  1189~92年 独王d フリードリヒ1世 ・仏王e フィリップ2世  英王f リチャード1世  
         が参加し最大の規模となる。しかし独王が途中で溺死、仏王が英王と対立し帰国。
       → 英王f リチャード1世  がc サラディン と単独講和に成功するも、聖地奪回出来ず。

解説

サラディンに占領されたイェルサレムを奪回するために起こされた第三回十字軍は、イギリス・フランス・ドイツ三国の国王が参加するという最大規模のものであったが、途中ドイツ王は小アジアで事故死しったためドイツ軍は引き返し、英仏両軍は本国で対立していたので共同作戦はうまくいかなかった。ようやくアッコンを奪回したところでフランス王は帰国、残ったイギリス王リチャード1世がサラディンとの間で休戦協定を結んで帰国した。聖地奪回はできなかったが巡礼の安全を確保することができた。
E十字軍運動の変質  ▲背景 13世紀初頭の世界情勢 a モンゴル帝国  の成立(1206年)。
    • 第四回  1202~04年 b ヴェネツィア  商人の要求でc コンスタンティノープル  を攻撃。
    • その地にd ラテン帝国  を立てる(前出)。ビザンツ帝国は一時消滅し、亡命政権をつくる。

解説

第4回十字軍 ローマ教皇インノケンティウス3世が提唱し、フランス諸侯がそれに応じて参加したが、その輸送を請け負ったヴェネツィア商人がコンスタンティノープルを占領することを提案して途中で方向が転換された。ヴェネツィアは東地中海の貿易でコンスタンティノープル商人と激しく競争していたのだった。聖地回復をほったらかしたことに対してインノケンティウス3世は第4回十字軍を破門にしたが、後に東方教会を統合する機会であると考えてそれを許した。
ラテン帝国 フランドル伯ボードワンを皇帝としたが実権はヴェネツィア商人が握っていた。それ以外にもいくつかのキリスト教徒諸侯を君主とする国が造られている。コンスタンティノープルを中心に東方との交易権を拡大しようとしたが、北方のブルガリアや、小アジアのビザンツ帝国の亡命政権であるニケーア帝国に攻撃され、ふるわず、1261年にニケーア帝国によって倒された。ニケーア帝国のミカエル8世はビザンツ皇帝となり、新たなパレイロゴス朝を始めるが、それがビザンツ帝国最後の王朝となる。
  •  宗教騎士団  の活動 f ドイツ騎士団   、 テンプル騎士団 、 ヨハネ騎士団 など。
       = 巡礼路・聖地の治安維持を目的とした騎士修道団。次第に秘密結社化する。
十字軍運動の終結  1212年 a 少年十字軍  の失敗。
  • 第五回  1228~29年 ▲皇帝b フリードリヒ2世   話し合いで聖地一時回復。
  • 第六回  1248~54年 仏王c ルイ9世  が主導。エジプト攻撃に失敗。
  • 第七回  1270年 仏王c ルイ9世  が主導。海路チュニスへの遠征失敗。王も病没。
・1291年 十字軍最後の拠点d アッコン  が陥落しe イェルサレム王国  滅亡、十字軍時代終わる。

地図 主な十字軍の経路

十字軍
 イスラーム勢力圏
 a 第1回十字軍  
 b 第3回十字軍  
 c 第4回十字軍  
 d 第6回十字軍  
 e 第7回十字軍  
 f 東方植民    
 g レコンキスタ  
 h ラテン帝国   

まとめ:運動への参加意図 聖地回復という宗教的情熱と共に、参加者の意図には次のようなものがあった。
     
  • ローマ教皇:a 教皇権を確立すると共に、東西教会の統一を目指した。  
  •  
  • 諸侯・騎士:b 従軍することによって、新たな領地と戦利品を求めた。  
  •  
  • 都市の商人:c 東方との遠隔地取引による商業的利益の拡大を求めた。  
  •  
  • ▲農民:十字軍に参加することでd 負債の帳消し、農奴身分からの解放を求めた。  
十字軍運動の結果:a 聖地回復には失敗    、その後の西ヨーロッパ世界に大きな影響を与えた。
影響
     
  1. 結果的に聖地回復ができなかったことによって、b  教皇の権威の動揺がはじまった。  
  2.  
  3. 遠征軍を指揮したc 国王の権威は高まった。  
  4.  
  5. 長期の遠征によりd 諸侯・騎士の没落が始まった。  
  6.  
  7. 十字軍の出港地となったe イタリア諸都市の繁栄がはじまった。  
  8.  
  9. 地中海貿易によるf 東方との貿易が再び活発になりヨーロッパの商業が復興した。  
  10. 先進文化圏であるg ビザンツ帝国、イスラーム圏の文化が流入することとなった。  

Text p.139

 → 十字軍は、中世の西ヨーロッパの国家、社会、文化を大きく転換させる契機となった。  
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用語リストへイ.商業の発展
■ポイント 11~12世紀に商業が復活した理由、商業圏の地域的違いを理解し主要都市の位置を確認する。
 
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