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歴史学・田口卯吉

2017-12-21 | 生物暗記法

いやな名卯吉改称し。

1877年田口卯吉『日本開化小史』


[point]

1.歴史学の田口卯吉の主著は、『日本開化小史』である。

[解説]

1.田口卯吉(1855~1905)は、幕臣の家に生まれる。英語を学び、さらに医学を目指すが転向、大蔵省翻訳局に入る。洋書翻訳がきっかけで経済学や歴史学に目覚める。1877年に『日本開化小史』を自費出版し、以後1882年までに全6巻を著す。以後、『群書類従』など史書を編纂、在野の歴史家として多大な業績を残した。両毛鉄道の経営、衆議院議員をつとめるなど多方面で活躍した。。 

2017関西大・全学部

問13 この史料は『日本開化小史』であるが、著者は誰か。
 ア久米邦武 イ津田左右吉 ウ田口卯吉」
(答:ウ)〉

2016早大・人間科学

問5 下線部d自由主義・功利主義に関連して、以下に挙げた人物とその著作(翻訳書を含む)の組み合わせのうち、誤っているものはどれか、1つ選べ。もし該当するものがなければ、カをマークせよ。
 ア 田口卯吉『日本開化小史』
 イ 中江兆民「民約訳解」
 ウ 中村正直『西国立志編』
 エ 西周『自由之理』
 オ 福沢諭吉『西洋事情』」

(答:エ×、※『自由之理』はJ.S.ミル『On Liberty』の中村正直による訳書名)〉

2012明大・文

  近代的な学問研究は、当初、お雇い外国人らに学ぶかたちで開始されたが、やがて日本人学者自身による各分野の専門研究・教育ができるようになった。日本史の分野では、在野の史学者・経済学者である[ e ]が『日本開化小史』を発表し、新しい歴史観が示された。

問5.空欄eにあてはまる人物の氏名を記せ。」


(答:田口卯吉)〉


2012立命館大・文系A方式

問e 下線部2『日本開化小史』の著者は誰か。」

(答:田口卯吉)〉

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総合・地域史 ★★ ユーラシア(モンゴル後のロシアと清)

2017-12-21 | 入試問題+ゴロ合わせ

 2010 京都大学(改)

【問】次の文章の(   )の中に最も適切な語句を入れ、下線部(1)~(7)について後の問に答えよ。

 16~17世紀、ユーラシアの東西にふたつの帝国が形成され始める。やがて、ともに巨大化したのち、いずれも政体は変化したが国としての大きなかたまりは現在まで続いている。すなわちロシア連邦と中華人民共和国である。
 それぞれの源流・発端はある意味でモンゴル帝国と無縁ではない。(1).ルーシと呼ばれた地域は、ゆっくりとモンゴルからの自立姿勢を強め、やがて16世紀半ば、王となった(  a  )はカザンとアストラハンのふたつのモンゴル国家を接収してヴオルガ流域を制圧し、 (2).そこから東方にむけて少数の兵を派遣した。かくて、 17世紀前半には太平洋岸にまで到達する。こののち、(3).ロシアはアジアとヨーロッパにまたがる広大な勢力圏を保持することになる。なお、黒海に臨む一帯には、1783年まで(  b  )というモンゴル国家が存在し続けた。

 一方、アジア東方では、かつてモンゴル治下にあった大興安嶺以東の(  c  )族のなかからヌルハチが台頭し、 1616年にはハンを称した。ついで、(4)その子の(  d  )は1636年に、本来は“主人筋”であった内モンゴル諸王侯に推戴されて、大元国(ダイオン=ウルス)をひきつぐ帝王として即位し、国号を大清国(ダイチン=グルン)とした。これ以後、清朝は満蒙連合政権の性格を色濃くおびた。そして1644年に明朝が滅ぶと、(5).清は入関して北京に入り、否応なく中華本土も包み込む多元帝国となっていった。

 (6).康煕帝・(  e  )から乾隆帝にいたる三人の皇帝の治世は外モンゴルおよび(  f  )仏教文化圏をめぐって、やはりモンゴル帝国以来の由緒をもつ(  g  )と激しく争いあう時代でもあった。(7).清朝は1755年から59年にかけて、ついにパミール以東を制圧し、現在に続く巨大な版図を樹立したが、 1793年に乾隆帝のもとを訪れた(  h  )が率いる使節団の目には、“虚飾の老大国"に見えていたのも一方の事実であった。

(1)
ルーシを含むユーラシアの西北部を支配したこの モンゴル国家は何というか。
(2)
1582年にシビル=ハン国の首都を占領したのは誰か。
(3)
ロシアは、ある山脈を境に、そこから東方の大地をながらく属領視することになった。何という山脈か。
(4)
このときの首都はどこか。
(5)
このときの清朝の皇帝は誰か。
(6)
康煕帝時代に国境画定をめぐってロシアとの間で結ばれた条約を何というか。
(7)
このとき清軍の一部はパミールをこえて西南方にも進出し、アフマド=シャーによって建国されてからまもない国家に接近した。何という王国か。
 

解 答 

イヴァン4世 クリム=ハン国 女真(女直) ホンタイジ 雍正帝
設問1 設問2
チベット ジュンガル マカートニー キプチャク=ハン国 イェルマーク
設問3 設問4 設問5 設問6 設問7
ウラル山脈 瀋陽 順治帝 ネルチンスク条約 アフガニスタン王国

解 説: 

設問4:女真のヌルハチが建国した後金(アイシン)は、1625年に瀋陽を都とした。次いでホンタイジ(太宗)がこの都を盛京と命名した。順治帝の時、1644年に中国本土に侵攻して都を北京に移した。瀋陽は副都とされ、奉天府といわれた。
設問7:アフガニスタン王国は、1747年に成立した、ドゥッラーニー朝。アフマド=シャーは、それまでアフガニスタンを支配していたサファヴィー朝とムガル帝国の勢力から、民族の独立を勝ち取り、カーブルを都とした。乾隆帝の時の清軍が一時侵攻したが、このことはほとんど触れられないので難問。
 
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