森の中にし 腹痛だ。
森有礼(もりありのり)・中村正直(なかむらまさなお)加藤弘之(かとうひろゆき)・西村茂樹)(西周(あまね)・(福沢諭吉・津田真道(つだまみち))
なおこの明六社は1875年の讒謗律で解散(サボり解散の明六社)。
[point]
1.明六社は森有礼の発議に西周・加藤弘之・中村正直・西村茂樹・福沢諭吉・津田真道が参加して発足。
[解説]
1.明六社の名は、明治六年(1873)発足にちなむ。機関誌は『明六雑誌』。旧幕府の開成所(洋学教育機関)出身者が多い。同誌は新聞紙条例・讒謗律発布に動揺して廃刊にいたる。
2.西周(1829~97)は、津和野藩出身。初期の軍制整備に活躍し、軍人勅諭の初稿を起草。啓蒙思想家だが西洋哲学を最初に紹介し、「哲学」だけでなく日常何気なく使っている「主観」「記号」「命題・定義・演繹・帰納」「肯定・否定」をはじめ用語多数を和訳創案して、我が国には未知の概念を定着させた功績で知られる。
3.津田真道(1829~1903)は、津山藩出身。官僚・法学者・啓蒙思想家。江戸で佐久間象山などに洋学を学ぶ。蕃書調所教官となり、幕命でオランダに留学し、法学・経済学を学び、帰国後わが国初の西洋法律書『泰西国法論』を著す。維新後、司法省・元老院にも勤務し、新律綱領などを編纂。
4.中村正直(1832~91)は、江戸生まれ。幕府の儒官出身。個人主義道徳を説き、啓蒙思想の普及に努めた。
5.福沢諭吉(1834~1901)は、豊前中津藩(大分県)の出身。下級藩士の次男として生まれた啓蒙思想家。大坂に出て緒方洪庵に蘭学を学ぶ。また独学で英学をおさめた。1860年咸臨丸に同乗したのをはじめ3回、幕府の遣外使節に随行し、欧米を視察。維新後は政府の招きを断り、教育と言論による啓蒙活動に邁進(まいしん)。68年慶応義塾を創設して人材育成に努める。『西洋事情』『学問のすゝめ』『文明論の概略』などを著した。英功利主義の影響を受け、個人および国家の「独立自尊」を主張したが、自由民権運動には冷淡であった。82年『時事新報』を創刊。次第に国権論に傾き、日清戦争では主戦論を展開。
6.加藤弘之(1836~1916)は、但馬出石(いずし)藩(兵庫県)出身。維新後、天賦人権論を説く啓蒙思想家としてスタート。やがて国家主義思想へと転向。
7.森有礼(1847~89)は、薩摩藩(鹿児島県)出身。初代文部大臣として、ドイツ式の学校令を制定して国家主義的教育体制を確立。帝国憲法発布の日、急進的な欧化主義者であったことが一因で、国権主義者の反発をうけ暗殺された。
8.西村茂樹(1828~1902)は、佐倉藩出身。主著『日本道徳論』。皇室中心の国民道徳を説き、国粋主義の先駆となる。
〈2017中央大・経済
問2.次の説明のうち、下線部①の明六社の結成に加わった人物についてのものにはイ、そうでない人物についてのものにはロをマークしなさい。
a.幕末に薩摩藩からイギリスに留学し、後に初代文部大臣として学校令を公布した。
b.幕末に洋書調所の教官としてオランダに留学し、同地で学んだ国際法に関する『万国公法』を刊行した。
c.『真政大意』を刊行して天賦人権思想を紹介したが、後に、社会進化論の立場から『人権新説』を刊行して天賦人権論を批判した。
d.『古事記』・『日本書紀』に科学的分析を加えて古代史研究に新境地をひらいたが、著書『神代史の研究』について発禁処分を受けた。」
(答:aイ森有礼、bイ.津田真道、cイ.加藤弘之、dロ.津田左右吉)〉
〈2017早大・社会
問8 下線部(7)明治期の啓蒙思想に関連して、近代思想の普及を担った明六社に参加しなかった人物は誰か。1人選べ。
イ大木喬任 ロ津田真道
ハ西村茂樹 ニ西周
ホ中村正直
(答:イ)〉
〈2016早大・政経
幕府の留学生として下線部11阿蘭陀で学び、明治維新後は兵部省に出仕し、徴兵令制定に関与した人物が、旧幕府系洋学者らと結成した思想団体を何というか。漢字で記せ。」
(答:明六社 ※西周は明治維新後は、兵部省に入り、徴兵令・軍人勅諭など関わる)〉
〈2015立命館大・全学部2/2:「
hかれは、幕末から明治期に活躍した啓蒙思想家として著名な人物である。8明六社の創設にも関わり、主著『文明論之概略』のなかでは、それまでの日本の歴史や文明のあり方を厳しく批判し、西欧文明に学びつつ、日本の独立をはかれと主張している。
問h 下線部hの「かれ」の氏名を答えよ
問r 下線部8明六社に関連して、「明六社」の創設者の一人で、当初は天賦人権論の立場であったが、のちに社会進化論の立場から天賦人権論を否定するに至った『人権新説』の著者として知られる人物は誰か。もっとも適当な名を下から一つ選べ。
あ森有礼 い西村茂樹
う加藤弘之 え植木枝盛」
(答:h福沢諭吉、rう)〉
〈2015関西大・済文社会など
維新後、新政府に仕え、明六社にも参加した(1)【ア加藤弘之 イ森有礼 ウ中村正直】は、『国体新論』などで天賦人権論を紹介したが、1882年刊の『人権新説』では、天賦人権論を否認し、自由民権運動に反対の立場をとった。」
(答:ア)
〈2014明大・情報コミュ
明六社のメンバーで、( ウ )を起草した西周は、幕末から明治初年の段階では妻升子の表記を、旧姓で「石川升子」としていたが、民法施行後には、「西升子」と変更していた。婚姻した女性は、男性側の姓を名乗り、男性の家に入ることが制度として強制されたのである。」
(答:ウ.軍人勅諭)〉
〈2013立大・法済異文化:「
問7ⅰ.この人物(森有礼)と西周ら洋学者が創設した啓蒙思想団体はどれか。次のa~dから1つ選べ。
a.硯友社 b.交詢社
c.明六社 d.立志社」
(答:c)
※a.硯友社は1885年に発足した、明治期の文学結社。
b.交詢社
c.明六社 d.立志社」
〈2012早大・文
1873年、アメリカから帰国した[ A ]は、洋学者の西村茂樹らと相談の上、明六社を結成した。同社は翌年、機関誌『明六雑誌』を創刊、西洋の知識を日本に紹介し多大な影響を与えた。
問1 空欄Aの人物は、のち初代文部大臣に就任した。その人物は誰か。漢字で記述せよ。」
(答:森有礼)〉
〈2010明大・政経
設問2 下線部(ア)蕃書調所はその後、名称を洋書調所、開成所と変えていくが、津山藩士でオランダ留学後、開成所の教授となり、のちに明六社に参加した啓蒙思想家は誰か。A~Dからひとつ選べ。
A福沢諭吉 B森有礼
C津田真道 D加藤弘之」
(答:C)※津山藩士