暗く毛プラン札幌の。
(札幌農学校)(ケプロン)(クラーク)
[point]
1.札幌農学校はケプロンの提言で創設、クラークが教育にあたった。
[解説]
1.ケプロン(H.Capron)(1804~85)は、開拓使のお雇い外国人。当時アメリカ政府の農務局長であったが、新政府に請われ、数人の技術者を率いて来日。4年の任期中に3度道内を調査し、農林漁業・鉱工業の振興などについての意見書「ケプロン報文」を提出して帰国。これがその後の北海道近代化の重要な指針となった。そのなかで技術者養成のための農学校の創設も提言している。江戸中期のオランダ商館医ケンペルと間違えないこと。
2.クラーク(W.S.Clark)(1826~86)は、アメリカの科学者・教育家・軍人。1876年、同じアメリカ人でケプロンの路線を継ぐ教育者として開拓使が招く。札幌農学校教頭として農学・植物学・英語を教授。またキリスト教に基づく道徳教育に力を入れる。1877年4月帰国。‘Boys Be Ambitious’(少年よ、大志をいだけ) でよく知られているが、わずか8ヶ月の滞在だった。
〈2015早大・文
芝公園は、増上寺そのほかの社寺地を利用して作られた。付近には、大教院、d.開拓使仮学校・海軍施設・勧工場など政府の富国強兵政策に関係する施設が多く存在していたが、のちには高級料亭紅葉館や、総理大臣を務めたし原敬の邸宅が近辺につくられるなど、しだいに周辺の雰囲気は変化していった。
問5 下線dの学校は、その後移転し学校名を改める。この移転後の学校について述べた記述として、誤っているものを1つ選べ。
ア 大農場制度の移桂を図った。
イ 東京大学農学部の前身である。
ウ 内村鑑三はこの学校の卒業生である。
エ 新渡戸稲造はこの学校の卒業生である。
オ アメリカ人クラークを招いた。」
(答:イ×)〉
〈2014立大・現心社会コミュ福:「また1876年には、北海道の開発のため、アメリカの科学者・教育家である( ハ )を初代教頭として招いて札幌農学校を開校した。」
(答:クラーク)〉
〈2013愛知教育大・前期
問4 次の文章は、重要文化財「札幌農学校第2農場」のパンフレットの一部である。これを読み問いに答えよ。
当施設は、明治9(1876)年9月13日、W.Sクラーク先生の大農経営構想によって、一戸の酪農家をイメージした北海道開拓の模範農場として発足しました。模範家畜房と穀物庫は、明治10(1877)年秋に落成して日本最古の洋式農業建築として建築学的にも貴重なものです。
問1 文中の「W.Sクラーク」のような人物を総称して何と呼んでいるか答えよ。また、そのような人たちが果たした役割を述べよ。
問2 文中にある「北海道開拓」についで、当時この目的のために設置されていた官庁名を答えよ。」
(答:1お雇い外国人、2開拓使)〉
〈2010明大・政経
明治期に入ると、政府は積極的にお届い外国人を雇用し、西欧の科学技術、法制度、教育、医学などの早期導入を図った。1869年、北海道の開拓を目的として北海道開拓使が設けられると、元アメリカ合衆国農務局長[ 2 ]が開拓使顧問として招かれ、大農経営を取り入れたほか、札幌農学校の設立指導等も行った。
設問2 空欄[ 2 ]にあてはまる人物は誰か。A~Eからひとつ選べ。
Aクラーク Bマレー
Cグリフィス
Dケプロン Eモース」
(答:D)
B.ダビッド・モルレー(David Murray [ˈdeɪvɪd ˈmʌri], 1830年10月15日 - 1905年3月6日)はアメリカ合衆国の教育者、教育行政官。オルバニー・アカデミー校長、ラトガース・カレッジ教授、日本国学監、ニューヨーク州大学校理事会事務局長を歴任した。明治初期に日本政府が招聘したお雇い外国人の一人であり、1873年(明治6年)から1878年(明治11年)まで文部省顧問として教育制度の整備に貢献。東京大学、東京女子師範学校(お茶の水女子大学の前身)および同校附属幼稚園、教育博物館(国立科学博物館の前身)、東京学士会院(日本学士院の前身)の設立を助けたほか、中央集権的な「学制」改正案をまとめた。ダビット・モルレー、デイビッド・マレーなどとも表記される。
C.
ウィリアム・エリオット・グリフィス(William Elliot Griffis, 1843年9月17日 - 1928年2月5日)は、アメリカ合衆国出身のお雇い外国人、理科教師、牧師、著述家、日本学者、東洋学者である。
明治時代初期に来日し、福井と東京で教鞭をとった。帰国後は日本の紹介につとめたほか、朝鮮についても紹介した。