対の紋入り提灯が2組残してあるものの、今年は1組出しただけでした
この提灯を13日の午後からずっと灯していて、今日の日没後に消しました
昼間は消したら、と私が言うものの、トトさんのやりたいスタイルでした
もうご先祖さまは皆さん帰っていかれたことでしょう
今日は終戦記念日
戦争を知らない世代の私ですが、母がよく話してくれた戦争体験の話は体に染みついています
母は青年師範学校の最後の年に、学徒動員で名古屋の三菱軍需工場へ行き、そこで被災しました
夜半の空襲に遭い、命からがら火のないところへと逃げたそうです
その時、トイレに落ちてしまったとも何回か聞きました
被災したという証明書一枚持ち、汽車に乗り(その証明書で無賃乗車できたそう)何日もかけて帰り着いた鹿児島
鹿児島の街も焼け野原になっていたそうです
戦争中と戦後しばらくは さつまいもとカボチャばかり食べたからと、どちらももう食べたくないと言っていた母
また飛行機が上空を通過すると、B29の爆撃を思い出して怖いとも言っていました
私が幼少時には プロペラ飛行機が宣伝用のビラを撒いていましたが、そのプロペラ機の音もすごく嫌っていました
そのせいか、母がたまにいない夕方、上空で飛行機の通過する音がすると私まで不安になっていだ事を思い出しました
父の戦争体験は聞いた記憶がありません
いま私たち夫婦は 父の生まれ育った地で暮らしています
近くに特攻隊の飛行場があったので、家の向かい側の側溝脇に防空壕が掘ってありました
その防空壕に入ったりしたのか、そんな話は父からも祖父母からも聞いたことはないのですが、子供の頃夏休みに祖父母のところに行くと、収穫したスイカやマクワウリがその防空壕に保存してありました
父の姉が飛行場の陸軍の所で事務の仕事をしていたそうです
たまに珍しい食料を貰って帰ってくることがあり、缶入りのバターも貰ってきたことがあったとか
軍人はうまいもの食べているなぁと思ったと、その話だけは父から聞きました
その後、火垂るの墓の映画で 缶入りのバターが出てきた時、父の話を思い出しました
母は昭和58年に亡くなりましたから、日本が右肩上がりの時代です
日本の繁栄は、戦争を放棄して軍事費に回さないからだと言っていました
たしかにそうだったのでしょう
これからも戦争に巻き込まれない事を願うばかりですが、軍事力はある程度必要だと私は思うようになりました
安全保障というものは、お金を他国に払って出来るものでもないでしょう
コロナワクチンひとつとっても、自国で開発して調達出来ない今の日本に危機感を持ちました
まぁ何にしても、経済がうまく回らなければどうすることもできないし
あーやはりコロナ禍が収束しなければ
私の軽い頭の中でさえ、問題が堂々巡りしています
☆ ☆ ☆ ☆ ☆
大雨特別警報は解除になりましたが、今日もよく降りました
そんな午後、ベス🐕🦺が散歩に行きたがるので車で平和公園へ
歩き始めたベス🐕🦺がいつものコースから外れて、閉まっている店の軒下へ向かいました
するとポツポツと雨が降り出し、雨宿り
やはりベス🐕🦺は、雨が降り出すのがわかるようです
しばらくして止んでまた歩き始めましたが、途中からまたリードをぐいと引いて止まります
どこへ行きたいの?と、持っているリードを緩めると
Uターンして駐車場の方へ歩き出すベス
迷う事なく、車のところへ
車の横で座り込んで、動こうとせず
散歩は諦めて、ベスの脚を洗って拭いて車に乗り込むと、降り出しました
でも家に帰り着くと雨は止んでいます
そうなるとまた出かけたくて、車から出ようとしないベス🐕🦺
でももうお仕舞い
あーあと何日、同じような事を繰り返すのでしょう
浸水被害に遭われたり、被災された方々にはお見舞い申し上げます
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