【現代思想とジャーナリスト精神】

価値判断の基軸は自らが判断し思考し実践することの主体であるか否かであると考えております。

持続する芝田貞子さんたちの志 ~2016年(核時代71年)第17回平和のためのコンサート~

2016-05-05 08:53:06 | 政治・文化・社会評論
  持続する芝田貞子さんたちの志
~2016年(核時代71年)第17回平和のためのコンサート~
                    櫻井 智志

*写真は講演するお二人のひとり石垣義昭さん

1  概要

第17回平和のためのコンサート
2016年(核時代71年)6月18日(土) 14:00開演(13:30開場)
会場 新宿区 牛込箪笥区民ホール
   都営地下鉄大江戸線 牛込神楽坂駅A1出口徒歩0分
   東京メトロ東西線 神楽坂駅2番出口 徒歩10分
料金 2200円(全席自由)

第1部~講演~ 

石垣義昭・鷹巣直美
「戦争しない憲法九条を守り、活かし、世界に広める」
『憲法9条にノーベル平和賞を』の取組から

第2部~コンサート~

バリトン独唱 奥村泰憲(ピアノ:外林由貴子)
       歌劇「はだしのゲン」から“麦のように強くなれ”他
チェロ独奏  佐藤智孝(ピアノ:児玉さや佳)
       メヌエットト長調(ベートーヴェン 作曲)他  
重唱     アンサンブル・ローゼ(ピアノ:末廣和史)「ゴンドラの唄」他
       ソプラノ   :高橋順子・渡辺裕子
       メゾ・ソプラノ:高崎邦子・芝田貞子
       アルト    :浦 富美・嶋田美佐子  
司会 長岡幸子
主催 平和のためのコンサート実行委員会
後援 アンサンブル・ローゼ  ノーモア・ヒロシマ・コンサート
   ストップ・ザ・バイオハザード国立感染症研究所の安全性を考える会
   バイオハザード予防市民センター
お問合せ:TEL/FAX 03-3209-9666 芝田様(深夜や間違いの電話やファックスにご留意ください)

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2 持続する芝田貞子さんたちの志

 今年2016年(核時代71年)で17回目を迎える。このコンサートの第1回目は2000年(核時代55年)に開催されたと思う。2001年(核時代56年)3月14日、芝田進午先生は胆管ガンのため多くの方々の哀しみのなかでご逝去された。この年に開かれた第2回コンサートの実務からすべての運営を担われたのが、芝田貞子さんだった。それを支えたのが、ご家族と感染研裁判をともに闘われた研究者や市民の方々や芝田先生を尊敬する教え子たちだった。
 この17年間のあいだ、アンサンブル・ローゼの声楽家の皆さんは芝田貞子さんを「芝田先生」と呼ぶようになっていた。かつて芝田進午氏が企画・推進・実務のかなりの実務を担っていた。それらのすべてをいま芝田貞子さんが担っている。しかも初回から17年間も。その前の「ノーモア・ヒロシマ・コンサート」は東京都新宿区と広島市とで開催されていたから、ご夫婦が推進された反核文化としての実践は、数十年にわたる。
 芝田貞子先生が果たされてきた反核文化としてのコンサート推進は、まさに芝田進午先生の開拓者としての同志であり継承者である。17年間企画者であり推進者であり実務の責任者としての継続は、私はひとことも聞いてはいないけれども、想像するに心身ともにかなりの負担や過労となったこともあろうと私には感ぜられる。
 そのような思いに至った時、このコンサートが、福島原発事故でいまだ事故の実態も事故進行がどの程度の段階かも把握できていない今日にもつ意義は大きい。ヒロシマとナガサキの核兵器投下という非人道的戦争犯罪をノーモア・ヒロシマ・コンサートは側面から告発し、ここ数年、ケネディアメリカ駐日大使やアメリカ国務省ケリー長官は広島市の原爆資料館を訪れた。ノーベル平和賞を受けながら、ブッシュ前大統領の致命的な経済失政により受けた傷痕のため、経済政策の復興が実現できずに中間選挙敗北のためあいついでアメリカ軍産複合体と妥協せざるを得ない政治の連続である。それでもキューバとの劇的な国交回復に続き、広島を来日し原爆資料館を訪問する可能性をあきらかにしている。
 ところがそんな日本の国情よりも別の価値観しかわからない安倍晋三氏は、なんと原発や兵器を輸入することで経済振興をはかる暴挙に出た。こんな核時代71年(この呼称は芝田学の反核文化論の成果である)に、平和のためのコンサートの意義は、実に豊かで大きなものがある。

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3 今次コンサートの第1部講演について
 
 「憲法9条にノーベル平和賞を」の運動について、実行委員会共同代表のひとりである石垣義昭さんは、2014年(核時代69年)9月22日に、以下のように述べていらっしゃる。原文をそのまま転載することで読者の判断に供したい。出典は「法学館憲法研究所」のウェブサイトである。
http://www.jicl.jp/hitokoto/backnumber/20140922.html

====引用開始=====

この運動の始まり
 私たちが進めている「憲法9条にノーベル平和賞を」の運動は、私たちが最初ではありません。私たちの把握できている限り、1991年にアメリカで「第9条の会」を立ち上げた現オハイオ大学名誉教授のチャールズ・オーバービー教授や日本の全印総連女性部でも起こしています。
 今回の私たちの運動の発案者である鷹巣直美さんはこうした経緯を知らないまま、同様の趣旨のメールを何回かにわたってノルウエイのノーベル委員会に送ったそうです。すると委員会からメールが返って来ました。そこには①憲法の条文は受賞の対象にならない。受賞者は個人か団体であることが必要。②ノミネートにはノーベル委員会が認めた推薦資格を持つ人の推薦書が必要。③推薦は毎年2月1日に締め切られる。などのことが書いてありました。
 そこで鷹巣さんは2012年にEUが団体で受賞していることにヒントを得て、「憲法9条を70年近く保持し続けている日本国民にノーベル平和賞を」という今回の運動を思いついたといいます。その提案を受けて相模原市と座間市の「9条の会」が合同で実行委員会を立ち上げたのが昨年の8月でした。「全国9条の会交流集会」で協力を呼びかけたのが11月で、「神奈川新聞」や「東京新聞」(1月)がこの運動を紹介した頃から運動が広がり始めました。2月1日の締め切り前に推薦書(13個人と1グループ)とそれまでに集まった署名約2万筆を送ることができました。
海外の反響に驚く!
 4月9日にノルウエイの委員会から推薦を受理したという連絡が入ると、マスコミなどの大きく取り上げるところとなりました。特に韓国や香港をはじめとする海外からの反響が大きかった事に驚きました。直後から署名も急速に広がりはじめました。次から次にかかってくる電話の「署名用紙を送ってください」という問い合わせに十分対応できないほどでした。多くの方にご迷惑をお掛けして申し訳なく思っています。
 ノミネートの連絡が入った直後のことでした。以前から護憲運動を続けている「9条の会」を受賞対象者として推薦していた東工大の先生から、「私の推薦書も受理されましたよ、ともに頑張りましょう!」という連絡がありました。私たちは受賞対象者を「日本国民に」としています。今年「ノーベル平和賞」にノミネートされた個人および団体は278に上るといわれていますが、その中に「日本国憲法」を推薦した二つの団体が含まれていたのです。
 さて、今回の運動を通じて最も強く感じたのは、署名用紙に添えられてくる手紙の殆どに「とてもいい運動を始めてくださいました。皆さん気持ちよく署名してくれます」とか、「この運動を知って希望と勇気が湧いてきました」などの感謝の言葉や「この運動の実現を祈っています」などと書かれていた事でした。そうした声を実行委員会ニュース(現在6号まで発行)にも毎回紹介してきましたが、そうした手紙に私たち実行委員がどれほど励まされたか知れません。改めてお礼申し上げます。
「アジア平和賞」をいただきました
 8月15日、マレーシアのクアラルンプールで授賞式がありました。この賞の受賞については実行委員会ニュースNo.7(9月下旬発行)で詳しく報告しますが、私たちの運動の意義を改めて確認させてくれる賞でした。
 実行委員会ニュースに毎回書いている文があります。それは≪憲法九条のすばらしさを共有し、守り、活かし、世界に向けて広めていく取り組みの一つとして、思想・政党・宗教などのあらゆる違いを超えて、「憲法9条にノーベル平和賞を」の一点で一致し、協力して活動しています。≫というものです。この一文に私たちの運動の思いが込められています。しかし、「ノーベル平和賞」を受賞する事が最終目標ではありません。それは一つの通過点なのです。
 日本国憲法を守り、活かし、広めていくのはあくまで日本国民です。日本国憲法の持つ素晴らしい精神。「平和主義」、つまり、もう二度と戦争はしませんという不戦の誓いです。「基本的人権の尊重」、つまり、一人ひとりを人間として尊び、その幸せを実現していくことです。「主権在民」つまり、国民を主人公とする社会の実現です。
 ある人が言いました。「9条はノーベル平和賞に値するのか」と、そして「ノーベル平和賞は9条に値するのか」と。私は今回の運動を通して「この運動はそのことを問う運動でもあるのだということが」少し分かってきた気がしているところです。
===引用終了=====
 石垣義昭さんは、1941年、北海道に生まれて室蘭栄高校、都留文科大学国文科卒業、武蔵工業大学(現東京都市大)付属中高校に勤務なさり、2005年にご退職された。現在は、「不登校を考える東京私学の会」の代表や東京父母懇談会「電話教育相談」・相談員もなされていらっしゃる。「教室に感動が広がるとき」(近代文藝社)などのご著作を出版なされている。
 この「憲法9条にノーベル平和賞を」の取り組みを日本で最初にとり組まれたかたが、鷹巣直美さんである。ウィキペディアに以下のような紹介がなされている。
【憲法9条にノーベル平和賞を(The Nobel Peace Prize for Article 9 of the Japanese Constitution.)は神奈川県座間市の日本バプテスト連盟会員の鷹巣直美さんが発案した、日本国憲法第9条にノーベル平和賞が与えられることをもとめた社会運動である。】
 この後に詳細な説明が続く。是非、鷹巣直美さんの講演をじかに聴いていただけたら幸いである。

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4 もうひとりの共同代表落合功さんのこと
 東京新聞神奈川県版は、5月3日に以下の記事を掲載した。

====転載開始============

【東京新聞 神奈川版】転載
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9条とあゆむ(上) 「軍国少年」反戦訴え
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2016年5月3日

◆「憲法9条にノーベル平和賞を」実行委共同代表・落合正行さん(83)
実行委メンバーで打ち合わせ中の落合さん(中)。左奥は鷹巣さん=座間市で 写真(写真はここはひとわくしかないので割愛)

 かつての軍国少年は戦争や病床体験を経て、平和の大切さを痛感、反戦を訴えるようになった。「憲法9条にノーベル平和賞を」実行委員会に届く賛同署名には、「九条は世界の宝」「九条の考えを国内外に発信する取り組み」などと書かれた手紙が添えられている。目を通すたび、「この九条を守らなければならない」と気持ちを新たにする。
 小学六年だった一九四五年七月、疎開先の甲府市が米軍の空襲を受けた。焼夷(しょうい)弾が降り注ぎ、上空が真っ赤に染まった。当時は軍国少年。耐えて勝つんだと信じていただけに、空襲ですべてが焼き尽くされ、桑の葉や白湯(さゆ)しか口にできない現実に強い衝撃を受けた。高校時代は肺結核が再発して三年間休学。病床で思うようにならない体になったことでも命の大切さ、平和の尊さを痛感した。
 療養中、父の知人で、社会運動家の妹尾義郎氏が自宅を訪ねてきて、無抵抗主義が人類を救うというガンジーの平和思想に触れた。四六年に公布された九条は、武力を保持しない無抵抗主義だと理解した。ただし、「九条だけだと絵に描いた餅。九条を守る市民運動があってはじめて平和を実現できる」と考えた。社会に出てからは労働組合活動に力を入れ、安保闘争やベトナム反戦運動に積極的に関わった。
 私立大事務局長を定年退職後、九条の会を知人と発足させて勉強会を重ねたが、市民を巻き込んだ運動としての広がりに限界を感じていた。そんな時、勉強会に顔を出していた主婦鷹巣直美さん(39)=座間市=から、九条をノーベル平和賞に推薦するアイデアを聞かされた。「面白いと思った。九条を広く伝えられるぞと」  実行委を立ち上げ、署名活動を始めると、安倍政権が集団的自衛権行使容認を閣議決定した一四年夏ごろから署名数が急速に伸びた。現在は約七十二万筆。支援の輪は海外にも広がり、旧日本軍の侵略行為を受けたアジア諸国からも「九条を守れ」との声が届くようになった。
 一方、「平和ボケ」「他国から攻められた時にどうするのか」といった反対意見も受けるようになった。九条をなくそうと必死なのは、九条があることで、やりたくてもできないことがあるからだ、と気付く。「九条は決して抽象的概念にとどまらず、現実的な力を持っていることの証しだ」。若い頃から平和運動を続けてきたが、九条の「力」を知ったのは鷹巣さんと運動を始めてからだった。
 落合さんは表情を引き締めて言う。「国家間の関係を強者と弱者で捉えるのは浅はかだ。九条を持つ日本人だからこそもっと高い次元で動けるはずだ。不断の努力で九条を守らねばならない」 (寺岡秀樹)
     ◇
 安全保障関連法が施行され、平和を希求する憲法九条の存在があらためて問い直されている。具体的な行動に移しながらその大切さを訴えている県内の三人を紹介し、私たちの生活に息づく九条の意味について考えてみたい。
 <「憲法9条にノーベル平和賞を」の活動> 2013年1月、鷹巣さんが「9条を広め、世界中の子どもを戦争から守りたい」との思いから一人で活動を開始。同年8月、落合さんらと9人で実行委を発足させ、「憲法9条を保持している日本国民」を候補にして署名活動などを展開。14、15年は候補としてノーベル賞委員会に正式受理されたが、受賞を逃した。今年は大学教授、国会議員らからなる推薦人が15年の倍の181人に上っている。

====転載終了=====

 新聞が紹介、掲載した落合功さんは、和光大学の良心的職員で、教務課長など実務の要職を歴任され、大学実務のトップである大学事務局長として、困難な運営の重責を担われた。 私が学問と人生の師と仰ぐ芝田進午先生。落合功氏は、芝田先生もお若い頃に、法政大学社会学部の芝田ゼミナールで学んだ生粋の教え子である。温和で公正なひととなりは、若い頃から現在に至るまで変わることのない誠実のひとでもある。この「平和のためのコンサート」でも会場でよくお見受けする。
 このように芝田ご夫妻が企画した実践は、広く大きな連なりを形成して、日本社会が豊かで温かな「人間連繋」(疎外された「人間関係」にかわる本質的な人間的関わり合いを示して提示された芝田先生の言葉)が蓄積されていることも、「平和のためのコンサート」の意外で充実した成果でもある。

 《あなたもご一緒に、第17回平和のためのコンサートをお聴きになりませんか!》