黒田イズムを受け継ぐ記者たち/「新聞うずみ火」傲慢な権力、差別のシステムに怒りのペン
著者 朴日粉
(*写真 右から黒田脩さん、城戸久枝さん、大谷昭宏さん 【私見にかえて】にコメントあり)
【お元気な頃の黒田清さん】
黒田清さんとの出会い
黒田清さんとの最初の出会いは、読売新聞を退社したばかりの頃だった。1988年の8月。気温は33度。その日、奈良の取材先から大阪の黒田さんの事務所に着いたのは、約束時間の直前だった。全身から汗が吹き出す。そんな私に黒田さんは満面の笑顔で「まあ、冷たい麦茶でも一杯どうぞ」とさりげない気配りを。
この日から、交流の輪が格段と広がった。チマ・チョゴリ事件が頻発した時には、在京の記者50人ほどを緊急に集めて、事件について話す機会を設けてくれた。あの時の怒りの激しさと素早い行動力。記者はただ書くのだけではなく、周囲を動かし、社会を変革する力を持たねばと思い知らされた。
【大阪朝高の快挙を喜ぶ】
弱者への限りない共感と権力に屈せぬ反骨精神。威張るもの、傲慢な権力、差別のシステムに容赦ない怒りのペンを向けた。それが骨太のジャーナリスト活動を貫いた。
東京、大阪を往復しながらの激務とストレス。97年夏、すい臓ガンが見つかった。大手術に耐え、1年後に復帰した。その直後には、東京で開かれた「日本の戦時下での強制連行に関するシンポジウム」にパネラーとして参加。ふっくらとした体型は細くなったが、柔和な面立ちはそのまま。戦争法案の新ガイドラインを非難しながら、「新たな戦争をしかけようとする勢力と闘わずして平和を獲得することはできない」と力強く訴え、「エセ学者、エセ漫画家、エセ政治家らの主張がアメーバーのように日本の隅々まで浸透している」と警鐘を鳴らしていた。
99年の夏、大阪朝高サッカー部がインターハイ出場を決めた時には「長い間の差別に負けないで、よくチャンスをものにしてくれた」と、わがことのようにその快挙を喜んでくれた。
しかし、1年後の2000年7月23日、黒田さんは帰らぬ人に。まだ69歳だった。病魔とたたかいながら最後の気力を振り絞って、自らが発行するミニコミ紙のコラム「もぐらのたわごと」にこう書いた。
「さて、入院中、パッとしたニュースはほとんどなし。ただ一つ朝鮮半島の南北統一会談の成功です。韓国の金大中大統領の誠実さ、朝鮮民主主義人民共和国の金正日総書記の明るさが将来に希望を感じさせてくれました。それに比べて、私たちの国はどうですか…」。これが絶筆となった。
一週間後の30日、大阪市北区の太融寺で営まれた葬儀には、メディア関係者を含め1300人が参列した。黒田さんがいつも気にかけていた在日朝鮮人をはじめ差別で苦しむ人たちが、流れる涙も拭かずに焼香の列を作っていた。人は一生の間にこんなにも多くの人を励まし、慕われるのかと私はその時、実感したのだった。
かつて、読売新聞大阪社会部長として百人近い部下を率いた。「黒田軍団」と呼ばれた
その時代に、戦争や差別反対の粘り強いキャンペーンを手がけ、当時、軍拡路線を鮮明にした中曽根政権や新聞社の上層部と対立した。87年退社し、「黒田ジャーナル」を創設。以来、読者との濃やかな交流を柱にした窓友新聞を発行しつづけた。
黒田さんの口癖はこうだった。
「世の中には弱者がいっぱいいる。幸せな人には、少しでも長く幸せが続くように、不幸な人には少しでも幸せにちかづけるようにしてあげたい」
【黒田イズムを体現しながら、取材活動に励む矢野宏記者】
「森友学園」のヘイト発言を追及
黒田さんの死去から17年。高層ビル化が進み、すっかり様変わりしたJR大阪駅から歩いて10分ほどのビルの一室に、黒田イズムを受け継ぐ「新聞うずみ火」(月刊誌)が元気よく息づいていた。現在は矢野宏さん、栗原佳子さんらが中心メンバー。矢野さんは地方紙の記者だったが、黒田さんの「泣いている人の側に立つと、色んなことが見えてくるよ」の考えに共鳴して、飛び込んだ。今も、迷ったり、悩んだりするたびに、黒田さんと一緒に作った当時の紙面を読み返して、元気を取り戻すという。
読者参加型の紙面作りの姿勢に変化はない。大阪府豊中市の国有地の格安取得をめぐる学校法人「森友学園」(大阪市)について、一連の疑惑追及の先陣を切った豊中市議の木村真さんは、「新聞うずみ火」の読者だ。国有地の売却結果は公表が原則。木村さんが売却額の公表を求めて大阪地裁に提訴した翌日、朝日新聞が提訴の事実とでたらめな売却額を報じて、この問題に火がついた。3月号の「新聞うずみ火」は木村さんによる詳しい説明などを載せながら、特集記事を組んでいる。
とりわけ矢野さんたちが怒りの矛先を向けているのは、学園のヘイト発言だ。副園長からある保護者に渡された直筆の手紙にはこう書かれていた。「韓国人とかは、整形したり、そんなものをのんだりしますが(炭酸飲料水のこと)、日本人はさせません。根っこが腐ることを幼稚園では教えていません」。その保護者が在日であることを説明して、思いのたけを綴った手紙で反論した。「…はい、私自身韓国人です。この手紙を読んで私は言葉を失いました。数分固まってしまいました。私が中学生の時、韓国人だといじめにあったことを思い出しました」。しかし、2日後に届いた副園長からの返信はさらにエスカレートしていた。そこには「私は差別していません。公平に子供さんを預かっています。しかしながら韓国人と中国人は嫌いです。お母さんも日本に嫁がれたのなら日本精神を継承なさるべきです」「勝手なことをいいなさんな! 腹が立って仕方がありません」などと記されていた。
【黒田イズムが息づく「新聞うずみ火」 】
辞任したとはいえ、こうした小学校の教育方針に「感銘を受け、名誉校長に就任した」安倍首相夫人。「優れた道徳教育を基として、日本人としての誇りを持つ、芯の通った子どもを育てます」とホームページに一文を寄せた。矢野さんは、「まさしく戦前の日本人優越思想を地でいくあからさまな『ニッポン礼賛』に世界中が驚いたことであろう」と指摘する。
差別と戦争への動きに怒りを向け続けた黒田さんの背中に多くを学んだという矢野さん。「あの悲惨な戦争を引き起こした日本社会の構造が、今なお変わりなく続いているのはなぜか」「社会が一丸となって無謀で愚かな戦争に突っ走ったのはなぜか」という問いを記者として探し続ける。日本社会に幾重にも張り巡らされた重層的な差別構造に目を向けると、戦前も戦後も切れ目なく続く差別という巨大なブラックホールに行き着く。今も差別の連鎖の中でしか自我が保てぬしくみが継続している。そこで脚光を浴びつづける安倍晋三という存在に焦点を当てると日本社会の歪みがより解きやすくなると指摘する。
「朝鮮学校を高校無償化から除外し、これまで続いてきた自治体からの補助金まで打ち切れと文科省から通達を出す。朝鮮学校を潰せという意図があからさまだ。それなのに、なぜ、高い支持率を維持するのか。それは彼が日本人がもつ差別意識を丸ごと肯定してくれる、日本人にとって居心地がいいからだ」と怒る。しかし、この状況に絶望してはならないと矢野さんは語る。
黒田さんは「よい新聞は、よい読者が作る」とよく言っていたという。「一般紙の記者のときは、読者にほめられたり、手紙をもらったことも余りなかった。読者の顔がみえる新聞を作るということは、人々の苦痛と喜びを分かち合えるということ。その感性を持って、今後も差別や戦争の動きに抗っていかなければ」と熱い心情を吐露した。
【私見にかえて】 櫻井智志
#スーパーJチャンネル ずっと見ていた番組から大谷明宏さんが消え、ずっと懸念を持っていた。渡辺宜嗣キャスターの公正な報道人ぶりと他のアナウンサーが番組を支えている。大谷さんが他局に出ても、黒田ジャーナルの良識がいつも発言にあふれ勇気づけられてきた。
(黒田脩、城戸久枝、大谷昭宏)
#スーパーJチャンネル
#大谷昭宏事務所サイトより
#黒田清JCJ新人賞 2008
2002年からは亡き黒田清さんを偲んで「黒田清JCJ新人賞」が設けられている。7回目となる今年の新人賞は『あの戦争から遠く離れて/私につながる歴史をたどる旅』(情報センター出版局)の著者、#城戸久枝さんが受賞。
著者 朴日粉
(*写真 右から黒田脩さん、城戸久枝さん、大谷昭宏さん 【私見にかえて】にコメントあり)
【お元気な頃の黒田清さん】
黒田清さんとの出会い
黒田清さんとの最初の出会いは、読売新聞を退社したばかりの頃だった。1988年の8月。気温は33度。その日、奈良の取材先から大阪の黒田さんの事務所に着いたのは、約束時間の直前だった。全身から汗が吹き出す。そんな私に黒田さんは満面の笑顔で「まあ、冷たい麦茶でも一杯どうぞ」とさりげない気配りを。
この日から、交流の輪が格段と広がった。チマ・チョゴリ事件が頻発した時には、在京の記者50人ほどを緊急に集めて、事件について話す機会を設けてくれた。あの時の怒りの激しさと素早い行動力。記者はただ書くのだけではなく、周囲を動かし、社会を変革する力を持たねばと思い知らされた。
【大阪朝高の快挙を喜ぶ】
弱者への限りない共感と権力に屈せぬ反骨精神。威張るもの、傲慢な権力、差別のシステムに容赦ない怒りのペンを向けた。それが骨太のジャーナリスト活動を貫いた。
東京、大阪を往復しながらの激務とストレス。97年夏、すい臓ガンが見つかった。大手術に耐え、1年後に復帰した。その直後には、東京で開かれた「日本の戦時下での強制連行に関するシンポジウム」にパネラーとして参加。ふっくらとした体型は細くなったが、柔和な面立ちはそのまま。戦争法案の新ガイドラインを非難しながら、「新たな戦争をしかけようとする勢力と闘わずして平和を獲得することはできない」と力強く訴え、「エセ学者、エセ漫画家、エセ政治家らの主張がアメーバーのように日本の隅々まで浸透している」と警鐘を鳴らしていた。
99年の夏、大阪朝高サッカー部がインターハイ出場を決めた時には「長い間の差別に負けないで、よくチャンスをものにしてくれた」と、わがことのようにその快挙を喜んでくれた。
しかし、1年後の2000年7月23日、黒田さんは帰らぬ人に。まだ69歳だった。病魔とたたかいながら最後の気力を振り絞って、自らが発行するミニコミ紙のコラム「もぐらのたわごと」にこう書いた。
「さて、入院中、パッとしたニュースはほとんどなし。ただ一つ朝鮮半島の南北統一会談の成功です。韓国の金大中大統領の誠実さ、朝鮮民主主義人民共和国の金正日総書記の明るさが将来に希望を感じさせてくれました。それに比べて、私たちの国はどうですか…」。これが絶筆となった。
一週間後の30日、大阪市北区の太融寺で営まれた葬儀には、メディア関係者を含め1300人が参列した。黒田さんがいつも気にかけていた在日朝鮮人をはじめ差別で苦しむ人たちが、流れる涙も拭かずに焼香の列を作っていた。人は一生の間にこんなにも多くの人を励まし、慕われるのかと私はその時、実感したのだった。
かつて、読売新聞大阪社会部長として百人近い部下を率いた。「黒田軍団」と呼ばれた
その時代に、戦争や差別反対の粘り強いキャンペーンを手がけ、当時、軍拡路線を鮮明にした中曽根政権や新聞社の上層部と対立した。87年退社し、「黒田ジャーナル」を創設。以来、読者との濃やかな交流を柱にした窓友新聞を発行しつづけた。
黒田さんの口癖はこうだった。
「世の中には弱者がいっぱいいる。幸せな人には、少しでも長く幸せが続くように、不幸な人には少しでも幸せにちかづけるようにしてあげたい」
【黒田イズムを体現しながら、取材活動に励む矢野宏記者】
「森友学園」のヘイト発言を追及
黒田さんの死去から17年。高層ビル化が進み、すっかり様変わりしたJR大阪駅から歩いて10分ほどのビルの一室に、黒田イズムを受け継ぐ「新聞うずみ火」(月刊誌)が元気よく息づいていた。現在は矢野宏さん、栗原佳子さんらが中心メンバー。矢野さんは地方紙の記者だったが、黒田さんの「泣いている人の側に立つと、色んなことが見えてくるよ」の考えに共鳴して、飛び込んだ。今も、迷ったり、悩んだりするたびに、黒田さんと一緒に作った当時の紙面を読み返して、元気を取り戻すという。
読者参加型の紙面作りの姿勢に変化はない。大阪府豊中市の国有地の格安取得をめぐる学校法人「森友学園」(大阪市)について、一連の疑惑追及の先陣を切った豊中市議の木村真さんは、「新聞うずみ火」の読者だ。国有地の売却結果は公表が原則。木村さんが売却額の公表を求めて大阪地裁に提訴した翌日、朝日新聞が提訴の事実とでたらめな売却額を報じて、この問題に火がついた。3月号の「新聞うずみ火」は木村さんによる詳しい説明などを載せながら、特集記事を組んでいる。
とりわけ矢野さんたちが怒りの矛先を向けているのは、学園のヘイト発言だ。副園長からある保護者に渡された直筆の手紙にはこう書かれていた。「韓国人とかは、整形したり、そんなものをのんだりしますが(炭酸飲料水のこと)、日本人はさせません。根っこが腐ることを幼稚園では教えていません」。その保護者が在日であることを説明して、思いのたけを綴った手紙で反論した。「…はい、私自身韓国人です。この手紙を読んで私は言葉を失いました。数分固まってしまいました。私が中学生の時、韓国人だといじめにあったことを思い出しました」。しかし、2日後に届いた副園長からの返信はさらにエスカレートしていた。そこには「私は差別していません。公平に子供さんを預かっています。しかしながら韓国人と中国人は嫌いです。お母さんも日本に嫁がれたのなら日本精神を継承なさるべきです」「勝手なことをいいなさんな! 腹が立って仕方がありません」などと記されていた。
【黒田イズムが息づく「新聞うずみ火」 】
辞任したとはいえ、こうした小学校の教育方針に「感銘を受け、名誉校長に就任した」安倍首相夫人。「優れた道徳教育を基として、日本人としての誇りを持つ、芯の通った子どもを育てます」とホームページに一文を寄せた。矢野さんは、「まさしく戦前の日本人優越思想を地でいくあからさまな『ニッポン礼賛』に世界中が驚いたことであろう」と指摘する。
差別と戦争への動きに怒りを向け続けた黒田さんの背中に多くを学んだという矢野さん。「あの悲惨な戦争を引き起こした日本社会の構造が、今なお変わりなく続いているのはなぜか」「社会が一丸となって無謀で愚かな戦争に突っ走ったのはなぜか」という問いを記者として探し続ける。日本社会に幾重にも張り巡らされた重層的な差別構造に目を向けると、戦前も戦後も切れ目なく続く差別という巨大なブラックホールに行き着く。今も差別の連鎖の中でしか自我が保てぬしくみが継続している。そこで脚光を浴びつづける安倍晋三という存在に焦点を当てると日本社会の歪みがより解きやすくなると指摘する。
「朝鮮学校を高校無償化から除外し、これまで続いてきた自治体からの補助金まで打ち切れと文科省から通達を出す。朝鮮学校を潰せという意図があからさまだ。それなのに、なぜ、高い支持率を維持するのか。それは彼が日本人がもつ差別意識を丸ごと肯定してくれる、日本人にとって居心地がいいからだ」と怒る。しかし、この状況に絶望してはならないと矢野さんは語る。
黒田さんは「よい新聞は、よい読者が作る」とよく言っていたという。「一般紙の記者のときは、読者にほめられたり、手紙をもらったことも余りなかった。読者の顔がみえる新聞を作るということは、人々の苦痛と喜びを分かち合えるということ。その感性を持って、今後も差別や戦争の動きに抗っていかなければ」と熱い心情を吐露した。
【私見にかえて】 櫻井智志
#スーパーJチャンネル ずっと見ていた番組から大谷明宏さんが消え、ずっと懸念を持っていた。渡辺宜嗣キャスターの公正な報道人ぶりと他のアナウンサーが番組を支えている。大谷さんが他局に出ても、黒田ジャーナルの良識がいつも発言にあふれ勇気づけられてきた。
(黒田脩、城戸久枝、大谷昭宏)
#スーパーJチャンネル
#大谷昭宏事務所サイトより
#黒田清JCJ新人賞 2008
2002年からは亡き黒田清さんを偲んで「黒田清JCJ新人賞」が設けられている。7回目となる今年の新人賞は『あの戦争から遠く離れて/私につながる歴史をたどる旅』(情報センター出版局)の著者、#城戸久枝さんが受賞。