【色平哲郎氏のご紹介】「身中の虫」==馬に賭けても人に賭けるな==
今では成長率が鈍り、米国との対立もますます先鋭化しており、指導部は共同繁栄と国家安全というこれまでとは異なる目標を強調しつつある。
プロスペクト・アベニュー・キャピタルを創業した廖明氏(北京在勤)は、「これは中国の政策優先度における分水嶺的転換だ」と分析。「中国政府は最も強い社会的不満を生み出している産業を狙っている」と話す。
共産党の原点を踏まえれば、国内の発展計画と相反するなら指導部にはベンチャーキャピタルやプライベートエクイティー(PE、未公開株)、株式投資家の利益を踏みにじることに抵抗はない。現在の焦点は「三座大山(3つの大きな山)」と呼ばれ、過度に負担がかかっている教育と医療、不動産の支出に移っていると廖氏は指摘する。
https://bit.ly/3imR5s2
中国共産党が原点回帰、投資家の果実縮小か-党大会控え「共同繁栄」
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野口悠紀雄さん 経済学者
技術革新、日本は再び跳べるのか
朝日新聞2021/7/31夕刊「いま聞く」
■レガシーが強すぎ困難、人々の「不満」を変革の力に
一昔前は技術で遅れていた中国が、世界の先端を行っています。「リープフロッグ(カエル跳び)」と呼ばれる一足飛びの発展です。日本に巻き返しの可能性はあるのでしょうか。この現象に注目してきた経済学者の野口悠紀雄さん(80)に聞きました。(福田直之)
遅れていた者が先行者を一気に抜き去るリープフロッグ。カエルが高く跳躍するさまから、こう名付けられた。野口さんは、中国で近年起きた技術の発展の多くはリープフロッグで説明できる、と言う。
■「不便さ」が原動力
「重要なのは中国が遅れていた点。そのため新しい技術を導入するにあたって社会的な制約がなく、積極的に採り入れられました。これがリープフロッグを起こす大事な要素です」
典型例はIT分野だ。中国では高齢者の多くがスマートフォンを使いこなす。電子商取引やキャッシュレス決済も幅広く普及している。原動力は、それまでの「不便さ」だったという。
「高齢者でもスマートフォンを使いこなせるのは、固定電話がほとんど普及していなかったから。便利なので登場すると、高齢者にも一気に普及しました。電子商取引は、小売業のネットワークが弱かったため、一気に広まりました。キャッシュレス決済も、中国ではビジネス上の信頼関係が不足していたため、ネット通販大手のアリババ集団が、代金と品物の受け渡しを確実にしようと取り組んだのが原点です」
野口さんは、技術革新をビル建設にたとえる。「ビルを建てるには更地の方が簡単。既存のものがあれば、ビルは建てにくい。これが今の日本の姿です」
■コロナ禍でも不変
低成長が続く日本では豊かさを感じることは減ったものの、不足を感じることも少ない。たとえば、古くから各地に小売店があり、電子商取引に頼らなくても、多くの人が便利に暮らせる。そんな日本はこの先、リープフロッグできるのだろうか。
この問いをぶつけると、野口さんはまず、こう力説した。「日本が今の状態から抜け出すには、リープフロッグが必要だと私は思っています。日本がこれから逆転することを心から望んでいるのです」
続いて出たのは厳しい言葉だった。「現実を見ると、日本はレガシー(遺産)の力があまりにも強く、社会の構造が古い技術に固定されてしまっています。これをどう改革していくかが重要ですが、決して簡単ではありません。非常に難しいと言わざるを得ない」
技術革新が起きるかどうかは、社会的なニーズに加え、既存の仕組みの強さにも左右される。では、野口さんが悲観的なのは、どうしてなのか。
「私は去年の今ごろ、新型コロナウイルスは日本がリープフロッグするきっかけになる可能性があると思っていました。日本政府がITをまったく使えないのを見て、社会の現状がどうしようもないと多くの人が気づき、災いを福に転じると期待したのです」
コロナ禍は、日本社会のデジタル化の遅れをあぶり出した。在宅勤務が呼びかけられたのに、印鑑を押すだけのために出社せざるを得ない人がいた。
「それから1年。全体として見れば、ほとんど何も変わっていないと言わざるを得ません。大変残念です。在宅勤務が当初要請されたように広がれば、働き方は変わらざるを得ず、成果主義への転換も進んだはず。生産性の向上に大いに役立ったと思います」
■デジタル化阻む壁
経済協力開発機構(OECD)によると、日本の2019年の時間あたりの労働生産性は米ドルベースで調査対象の加盟37カ国のうち20位と低い。主要7カ国の中では、1970年以降最下位が続く。社会の変化を阻んできたものは何か。
「在宅勤務について言えば、企業で仕事の評価方法が変わらないからです。成果によってではなく、職場に『いるか』どうかによって評価するといったことです。私は、この基準にこだわる人々を『イルカ族』と呼んでいるのですが、イルカ族が横行している限り、事態は変わりません。もう一つは、組織のリーダーがITに無理解であることです」
こうした問題点は以前からたびたび指摘されてきた。菅政権はデジタル庁を近く設立し、デジタル化の旗振り役にしようとしている。ただ野口さんは、この動きにも懐疑的だ。
「デジタル化を阻む原因が、『中央政府と地方公共団体の仕組みの不整合』『日本企業の閉鎖性』『組織リーダーの無理解』にある以上、デジタル庁をつくったところでデジタル化が進むことはないと思います。むしろ、デジタル庁が民間へ行政のデジタル化事務を委託する統一的な窓口になることによって、新しい利権構造がつくられていくことを危惧します」
それでは、日本でリープフロッグを起こすには何が必要なのだろうか。野口さんは、人々の「不満」が変革の力となる可能性に一縷(いちる)の望みをかける。
「社会の不満がこれだけ高まったにもかかわらず、何も変わらない日本の状況に絶望感を持っています。政治メカニズムが人々の不満を吸い上げる機能をまったく果たしていません。この状況を少しでも変えていくために、マスメディアと学者に託された役割は重要だと思っています」
*
のぐち・ゆきお 1940年、東京都生まれ。64年、大蔵省(現財務省)に入省。72年、米イエール大で経済学博士号を取得。一橋大教授、東京大教授などを歴任し、現在は一橋大名誉教授。専門は日本経済論。「『超』整理法」「リープフロッグ 逆転勝ちの経済学」「良いデジタル化、悪いデジタル化」など、幅広い分野の多くの著書で知られる。
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「CIP症候群」を警戒せよ
(CIP三徴候とは : Complacency, Ingratitude, Provincialism)
1994年に86歳で亡くなった秋元寿恵夫(あきもと・すえお)ドクターは、戦時中、「731部隊」に強制徴用されている。
そこで人体実験を見聞したことが、秋元ドクターの生き様に深刻な影響を及ぼした。のちに病態生理研究所を立ち上げ、臨床検査法を確立し、検査技師の教育・育成に心血を注がれた。原水爆禁止運動にも積極的に参加している。が、常に人体実験の過去が脳裏から離れなかったようだ。
秋元ドクターは、懺悔の気持ちをこめて『医の倫理を問う-第731部隊での体験から』(勁草書房)を著した。
その著書のなかで、ロックフェラー財団の医学部長グレッグ博士が46年3月にニューヨーク市のコロンビア大学医学部医学科の卒業式で行った講演を翻訳し、紹介している。
グレッグ博士は、優秀とされる医学校の卒業生が社会に出て活動する過程で「身中の虫」として常に心せねばならない要素として「うぬぼれ Complacency」「忘恩 Ingratitude」「地方人気質Provincialism」をあげ、これらを医師に限らずエリートなる人々が陥りやすい病いに見立てて「CIP症候群」と命名。
世の中に出てからも「CIP症候群」には用心しろと警鐘を鳴らしている。
具体的には「うぬぼれ」とは、その字義のとおり、優秀とされる学校を卒業した者が抱きがちな自己満足感。自信過剰になる一方で育ちのよさ特有の「けだるい無気力」にもつながると述べている。
「地方人気質」とは、狭くて自分の立場に凝り固まる傾向で、コロンビア大学などの場合では「医者としてのそれ、ニューヨーク子としてのそれ、及びアメリカ人としてのそれ、というふうに三重のものとなっている」と痛烈に批判している。
都会育ちであろうが、井の中の蛙は狭い地方人気質にとりつかれているのだ。
「忘恩」とは、深く物事を考えずに何でも鵜呑みにすることから生じるようだ。
グレッグ博士は、大学が医学生を教育する総コストに対して授業料は「七分の一以下」と概算し、医学生は大きな利益を享受していると指摘したうえで、次のように語っている。
「この並外れた利益を諸君にもたらしてくれた人々は、いまはすでに親しくことばを交わせる間柄からはほど遠い世代に属している。またこのような計算は、医師に託したそのあつい信義に対して、いつかは諸君が報いてくれるであろうと期待していた人々に、深く頭をたれて感謝の意を表するのもまた当然であることを思わせるに十分であろう。
いわば諸君は賭けられているのだ。それも六対一の勝負で。諸君は必ずや自分が受け取ったものを、のちに社会へ引き渡す立派な医師であることに、 多くの人々が賭けているのであるから、どうか諸君、下世話にいう『馬に賭けても人に賭けるな』の実例にならぬように十分に心掛けていただきたいのである」
エリート医師を養成するといわれる大学の卒業式で、馬より劣る人間になるな、と言っているわけで、そのシニカルで旺盛な批評精神には脱帽するばかりだ。
日本の国立大学医学部の卒業式で、これだけのスピーチができる「教授」がはたして何人いるだろうか。
米国の懐の深さを感じざるをえない。
さて、秋元ドクターは著書の「あとがき」をこう書き結んでいる。
「ひとりでも多くの若い諸君に、この新刊本(『医の倫理を問う』)と併せて『医療社会化の道標~25人の証言』(医学史研究会・川上武編 1969年 勁草書房)とを読まれるようおすすめしたい。
なぜなら、現在わたくしたちが置かれている社会のありようは、無念なことながら、またもやあの当時に逆戻りしてしまったので、二度とふたたびあのような無法な暴力は絶対に許すまいと、決意を新たにする上でも、 これらの書物で当時の状況を正確に知っておくことがどうしても必要になってくるからであり、それがまた本書のしめくくりとしてのわたくしの切なる願いともなっているのである」
この本が、世に出たのは1983年だった。
もう20年以上も前なのだが、日本の社会はさらに「逆戻り」の度を深め、抜き差しならない地点にきてしまった感を禁じえない。
(佐久総合病院 色平哲郎)
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東京五輪、国家の思惑
東京大学大学院情報学環教授・吉見俊哉さん
今回の東京五輪は安倍政治、ひいてはこの20年ほどのこの国のあり方そのものだと思う。ノスタルジーと嘘で塗り固められた開発への執着と現実の否認。
朝日新聞2021/8/3
画像)「東京という都市はブラックホールです。東京を立派にすればするほど、地方は貧しくなる」=瀬戸口
翼撮影
五輪選手たちの健闘をよそに、新型コロナ感染拡大が日本の首都を脅かしている。もしコロナ禍に見舞われていなかったら、五輪は日本に益をもたらしたのか。今回の五輪を「敗戦処理」と表現する社会学者の吉見俊哉さんは、東京という都市の実相を研究し続けてきた。これからの東京はどこへ向かうべきなのかを尋ねた。
――開催前から、今回の東京五輪を批判していました。
「多くの意味で、1964年の東京五輪の『神話』から抜け出せていないことが最大の問題です。根本的な価値観の転換もなく、前回の延長線上で、2020年東京五輪を迎えてしまいました。6月の党首討論で五輪の意義を問われた菅義偉首相が、女子バレーの『東洋の魔女』などを挙げて前回の東京五輪の思い出を長々と語ったことがその象徴です。一国の首相ですら、半世紀以上前の成功体験しか語ることがない。なぜ東京で再び五輪をするのか、誰も分からないまま突っ走ってしまった。開会前から、敗戦処理をしているようでした」
――当初は東日本大震災からの「復興五輪」とうたわれました。
「13年に開催権を獲得する際に使われた『復興五輪』という言葉には深刻なうそが含まれていました。それは、震災の被災地は東北なのに、東京で開催するという点です。首都圏の1都3県は総人口3600万人を抱える世界最大の都市圏です。日本の資本の半分近く、情報や知的活動の大半が集中しているのに、さらに五輪のために資源を投下してインフラ整備を進めた。東北の復興という目的とは完全に矛盾していました。被災地の人々は『復興五輪』というスローガンはだしに使われただけ、と見抜いています。本当に東北の復興を目指すなら、東京への集中を逆に抑えるべきでした」
■ ■
――なぜ日本は東京で再び五輪をしようと考えたのでしょうか。
「理由は三つあります。一つ目はノスタルジー。64年の五輪の成功イメージは、メディアなどで繰り返し語られてきました。普通は時間が経つにつれて露出量が減るものですが、90年代半ばから再び増え始めました。バブル崩壊後に経済が低迷し、年配者を中心に『未来を向いていた60年代』を懐かしく思い出したからです。前回の五輪がそのシンボルとして神話化され、誘致時の国民の支持につながりました」
「二つ目は、東京都の悲願ともいえる臨海副都心の開発です。80年代から90年代にかけて鈴木俊一都知事は、湾岸地区の開発を目指し、世界都市博を計画します。青島幸男知事が中止を決めて計画は止まる一方、六本木や丸の内などは2000年代に再開発が進みました。取り残された湾岸という不良債権を何とかしようと、五輪誘致で一気に開発推進をもくろんだのが、石原慎太郎知事でした」
――残る三つ目は、国家の思惑でしょうか。
「その通りです。日本では都市開発に巨額の国家予算を投入するため、いつも五輪が利用されてきました。五輪というイベントで国民の同意をとりつけ、特定の都市への集中投資を可能にする。64年の東京五輪が原型です。その後、72年に札幌冬季五輪、88年の夏季五輪ではソウルに敗れたものの、名古屋が手を挙げました。98年には長野冬季、そして2008年夏季には大阪が立候補しています」
「振り返れば、日本という国は10年に1度、五輪をやろうとしてきた。これは偶然ではありません。国家として『システム化』されているということです」
――五輪が「システム化される」とは、どういう意味ですか。
「カナダ生まれのジャーナリスト、ナオミ・クライン氏は、テロや災害など大きなショックのさなかに乱暴に政策が変更され、新自由主義的な施策が断行されることを『ショック・ドクトリン』と呼びました。同様の意味で、日本では『お祭りドクトリン』が行われてきたと私は考えています」
「五輪に代表されるメガイベントを成功させるという名目で一気に物事を進める。日本では途上国のような開発独裁は成立しませんが、『お祭り』と結びつけることで可能になる。この仕組みがシステムとして繰り返されてきたのです。この方式は、ソウル五輪や北京五輪にも引き継がれており、いまや東アジア型五輪とも言える仕組みになっています」
■ ■
――64年の東京五輪では、「お祭りドクトリン」によって何が行われたのでしょうか。
「東京をより速く、高く、強い都市にすることが前面に打ち出されました。川や運河にふたをして首都高速道路が造られ、路面電車のネットワークが廃止されました。当時、都民の多くは反対していましたが、住民の暮らしよりも経済発展が重視された。開発の結果、東京という都市は著しく効率的になった半面、無味無臭の街になってしまいました」
「東京が、明治時代から続く『軍都』だったことも再開発には好都合でした。明治維新で薩長が江戸を占領し、中心部から離れた現在の港区、渋谷区のような西南部に軍事施設が集中しました。敗戦後は米軍に接収されて、代々木のワシントンハイツなど米軍施設になります。しかし、反米意識を抑えたい米国の意向で、こうした施設は徐々に返還され、国立代々木競技場などの五輪施設に生まれ変わりました。六本木や原宿は流行の先端を行く街となり、東京五輪神話へとつながっていきます」
――前回の五輪というお祭りが終わった後も、東京への一極集中は止まっていません。
「明治以降の近代化は、地方から人や資源を東京に集めることで成し遂げられました。地方には江戸時代から多くの藩校が整備され、人的なポテンシャルが蓄積されていたのです。しかし、地方から収奪するこのやり方は、少産少子化でもはや限界を迎えています。にもかかわらず、日本は2020年の五輪で一極集中をさらに加速させようとした。これは自殺行為です」
「今回の『敗戦』で日本ではもう誰も五輪をやりたいとは思わなくなるでしょう。政治家がいくら開催を唱えても、国民の支持は得られない。お祭りドクトリンの化けの皮はすでに剥がれています」
――東京を、国際的な情報・金融都市にして世界での競争に打ち勝とうという動きもあります。
「うまくいかないでしょう。戦後の日本経済はタテ方向の『垂直統合』を得意とし、それで成長を成し遂げました。親会社から孫請けまでの連携を緻密(ちみつ)に組み立て、質の高い大量生産を実現する。この垂直統合の中心地が東京でした。しかし、90年代以降のグローバル資本主義では、ヨコ方向にネットワークを作り、状況に応じてかたちを変えていく『水平統合』が主流です。日本は、この変化に乗り遅れています」
「では、東京が水平統合の中心となるべきかといえば、違います。むしろ東京以外の拠点都市を多核分散的に作っていく方がいい。グローバル都市に数千万の人口は必要なく、福岡や仙台ほどの規模があれば十分です。垂直統合の頂上である東京を強くするだけではふもとがやせ細り、地方の可能性を潰します。いま日本全体を見ると、東京がむしろ最大のリスクなのではないかと思います」
■ ■
――今回の五輪はコロナ禍に見舞われ、目算が崩れました。
「パンデミック(感染大流行)は、大都市ほどリスクが高まります。100万人あたりの感染者数でみると首都圏が異様に多い。他方、オンライン化により東京都心のオフィス空き家率が上昇している。本社機能の地方移転が始まり、人口も郊外に逆流する動きが起きています。こうした一極集中と逆の動きは、過去30年にはなかった。将来的にどんな東京があり得るのかを考えるうえで、とても重要なことが起きています」
「今回の五輪は『半世紀前の栄光よ再び』ではなく、あの時に失ったものの復興を目指すべきでした。これからは未来の方向を逆にしていくことが、東京の可能性を開くのではないでしょうか」
――未来の方向を逆にする、のですか?
「猛スピードで回転を上げて、拡大していくのではなく、都市の生活の速度を遅らせるのです。より愉(たの)しく、しなやかに、末永く循環する都市を目指す。巨大再開発は必要ありません。東京は、意外に古いものが残っている。この多様性が強みです。前回の五輪以降の再開発で西南部には超高層ビルが林立していますが、東北部はそれほど変化していません。首都高速をとっぱらい、水辺を呼び戻し、路面電車を復活させれば、各地区が独自の魅力を放ち始めるでしょう」
――東京以外の都市はどうすればよいのでしょうか。
「多様性を生かす循環都市は、日本全国の都市で適用可能なモデルです。スピードや効率で競うのではない。ひとつひとつの都市の核は小さいが、宝石のような輝きがある。その宝石が数珠つなぎになる日本にこそ、未来があると考えています」(聞き手・真鍋弘樹)
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よしみしゅんや 1957年東京都生まれ。主な専攻は社会学、都市論、メディア論。東京大学副学長など
を歴任。著書に「五輪と戦後」「東京裏返し」など。
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少年院・茨城農芸学院の日々:1
送致に「ホッ」、もとは被害者
編集委員・大久保真紀
朝日新聞2021/8/2夕刊「現場へ!」
「むしろホッとした。このままではダメだとわかっていたから」
茨城県牛久市にある少年院「茨城農芸学院」の面会室。私と向かい合って座る少年(19)が、家庭裁判所の少年審判で少年院送致と言われたときの心境を語った。
*
少年は17歳のころから、家出を繰り返した。寒さに震えながら公園で寝泊まりし、食べるものを手に入れるために万引きをした。ショッピングモールでおにぎりや飲み物を盗んだり、すし屋で無銭飲食をしたりして2度逮捕された。
幼いときに父母が離婚、精神疾患を患う母に引き取られた。母に暴力を振るわれ大けがをして保護され、小学1年から児童養護施設に入った。
そこも安心できる場所ではなかった。年上からいじめられ、殴られた。殴り返すようになった。
中学3年のとき、先輩の顔を数発殴り、児童自立支援施設へ移された。2年ほど生活して、大工をしていた祖父に引き取られた。が、まもなくして祖父はけがをして働けなくなり、年金生活に。「お前がいると金がかかる」「大変だ」と繰り返し言われた。
通っていた通信制高校の先生に相談すると、祖父に「家のことを外で言うな」と怒られた。だれにも相談できなくなった。18歳で少年院に入った。
*
少年の話を聞きながら、私は思った。もっと早くだれかが手を差し伸べていたら、彼が非行をすることも少年院に入ることもなかったのではないか、と。少年たちは加害者となって、いまは少年院に送致されているが、もともとは「被害者」なのだと感じた。
私が少年院の取材をしようと考えたのは、少年による非行も凶悪事件も減っているのに厳罰化を求める声が世の中で大きくなっているからだ。どんな少年が少年院に入り、どんな矯正教育が行われているのかを知りたいと思った。
茨城農芸学院には、発達の課題や知的な制約があるなど他人とのコミュニケーションに課題を抱える男子が収容されている。
最近の在院者数は70人前後で、基本的には三つの寮に分かれて集団生活をする。午前6時45分の起床から午後9時15分の就寝まで、食事、農園芸作業、勉強、体育、入浴など日課はすべて時間で区切られ、基本的に私語は禁止だ。
作文を書き、本を読み、教官と面接する。自分の生い立ちや家族への思いなどを整理し、自分の犯罪行為を見つめる。毎日日記も書く。指先まで伸ばして整列し、大きな声で返事をする。何をするにも申告しなければならず、勝手に動くことはできない。
規律、規則に縛られた生活だが、この少年は「寝るところと食べるものがあるだけで幸せだと感じる」と言った。
少年院が刑務所と違うのは、番号ではなく、教官も院生も名前で呼び合い、人間的な関わりの中で教育が行われていることだ。
少年も教官が自分の話を真剣に聞いて助言してくれることが心に響いたという。「ひとりで抱え込まず相談していいんだと思えた」
ある教官は言う。「信頼関係がなければ少年たちには何を言っても無駄。彼らは聞く耳を持てない。『信用できる大人』という思いが生まれると変わってくる」(編集委員・大久保真紀)
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日本育ちのミャンマー人映像作家「解放を」 仲間ら動く
朝日新聞2021/7/26
クーデターで国軍が権力を握ったミャンマーで、6歳から日本に暮らし、日本の永住資格を持つミャンマー人の映像作家の男性が政治犯として拘束されている。日本の友人らは男性が手がけた映画の上映会を手始めに、解放のために何ができるかを模索し始めた。
最大都市ヤンゴンのインセイン刑務所に拘束されているのは、モンティンダン=本名・テインダン=さん(37)。友人で自らも国軍に4月から約1カ月拘束されたジャーナリストの北角裕樹さんらによると、4月に逮捕され、北角さんに映像を売って得た2千ドルでクーデターに反対するデモを支援したとして起訴された。北角さんによると、映像や金銭のやりとりはなかったという。
父の仕事で6歳で来日し、茨城県の小学校に入学。映画が好きで、中学生の時に子役養成学校に通い始め、俳優を目指した。高校卒業後、日本映画学校(現・日本映画大学、川崎市)で演出などを学び、映画の助監督などをしていた。
友人らには「ダン」と呼ばれる。ずっと日本で暮らしてきたが、2018年に公開された日ミャンマー合作映画の製作に関わったことをきっかけに、日本と行き来しながら母国でも映像や映画に関する仕事を始め、ヤンゴンに会社を設立。昨年には短編映画を完成させ、ミャンマーの映画祭などで賞を得ていた。
そんな矢先に今年2月、クーデターが起きた。1カ月ほど前からヤンゴンに滞在していたダンさんは市民らのデモの様子を撮影。デモに参加していた若者らとも親しかったことから国軍の取り締まりの対象になったとみられている。
ヤンゴンでは4月17日に日本人外交官らが住むコンドミニアムに軍人や警察が踏み込み、外交官宅に押し入る事案があったが、事情を知る住民らによると、この時に国軍側が捜していたのがダンさんだった。ダンさんはこの日に市内のホテルで逮捕されたという。
翌日に逮捕された北角さんは5月に刑務所内でダンさんに再会した。ダンさんは元気だったが、軍の施設で拷問を受け、虚偽の供述調書にサインさせられたと話していた。「頑張ろうな」と励ましあったが、「自分はミャンマー国籍なので日本大使館は助けてくれないのではないか」とも語ったという。
ダンさんの裁判は継続中で、最高で禁錮3年が科される可能性がある。現地の人権団体によると、24日時点で5360人が政治犯として拘束されたままだ。
日本外務省はダンさんについて、「認識はしており、この方も含めた拘束者の解放を(国軍に)働きかけている」としている。
解放へ仲間が動く
日本映画大学で24日、ダンさんが06年に卒業制作として監督・脚本を担当した映画「エイン」の上映会が開かれ、大学関係者や在学生、ダンさんの同期生ら約70人が参加した。
エインは「家」を意味するミャンマー語。家族でミャンマーから来日したものの、学校でいじめられ、日本社会になじめない少年が、弟とともに家出して海に向かう途中で様々な大人に出会い成長する物語だ。
上映後にあったシンポジウムで、作品の指導をした天願大介学長はダンさんが「自分のことを書きたい」と言って脚本を仕上げたと明かした。ダンさんについて「同世代の日本人と同じ感性がある」とし、「忘れてはいないし、心配しているということを本人に伝えたい」と述べた。
北角さんも登壇し、「一刻も早い釈放を求めたい。まずはダンさんのことを多くの人に知ってもらうことから始めたい」と話した。ダンさんは日本国籍ではないものの、日本政府にも支援を働きかけたいとの考えを示した。
上映会に参加した同期生の稲垣壮洋さん(42)は「(ダンさんは)日本とミャンマーの架け橋になりたいと話していた。参加できなかった他の同期にも今日のことを伝える」と語った。自分たちに何ができるか考えるつもりだ。
ダンさんについては、日本映画監督協会(崔洋一理事長)が21日、即時解放を求める声明を出した。(五十嵐誠)
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今では成長率が鈍り、米国との対立もますます先鋭化しており、指導部は共同繁栄と国家安全というこれまでとは異なる目標を強調しつつある。
プロスペクト・アベニュー・キャピタルを創業した廖明氏(北京在勤)は、「これは中国の政策優先度における分水嶺的転換だ」と分析。「中国政府は最も強い社会的不満を生み出している産業を狙っている」と話す。
共産党の原点を踏まえれば、国内の発展計画と相反するなら指導部にはベンチャーキャピタルやプライベートエクイティー(PE、未公開株)、株式投資家の利益を踏みにじることに抵抗はない。現在の焦点は「三座大山(3つの大きな山)」と呼ばれ、過度に負担がかかっている教育と医療、不動産の支出に移っていると廖氏は指摘する。
https://bit.ly/3imR5s2
中国共産党が原点回帰、投資家の果実縮小か-党大会控え「共同繁栄」
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野口悠紀雄さん 経済学者
技術革新、日本は再び跳べるのか
朝日新聞2021/7/31夕刊「いま聞く」
■レガシーが強すぎ困難、人々の「不満」を変革の力に
一昔前は技術で遅れていた中国が、世界の先端を行っています。「リープフロッグ(カエル跳び)」と呼ばれる一足飛びの発展です。日本に巻き返しの可能性はあるのでしょうか。この現象に注目してきた経済学者の野口悠紀雄さん(80)に聞きました。(福田直之)
遅れていた者が先行者を一気に抜き去るリープフロッグ。カエルが高く跳躍するさまから、こう名付けられた。野口さんは、中国で近年起きた技術の発展の多くはリープフロッグで説明できる、と言う。
■「不便さ」が原動力
「重要なのは中国が遅れていた点。そのため新しい技術を導入するにあたって社会的な制約がなく、積極的に採り入れられました。これがリープフロッグを起こす大事な要素です」
典型例はIT分野だ。中国では高齢者の多くがスマートフォンを使いこなす。電子商取引やキャッシュレス決済も幅広く普及している。原動力は、それまでの「不便さ」だったという。
「高齢者でもスマートフォンを使いこなせるのは、固定電話がほとんど普及していなかったから。便利なので登場すると、高齢者にも一気に普及しました。電子商取引は、小売業のネットワークが弱かったため、一気に広まりました。キャッシュレス決済も、中国ではビジネス上の信頼関係が不足していたため、ネット通販大手のアリババ集団が、代金と品物の受け渡しを確実にしようと取り組んだのが原点です」
野口さんは、技術革新をビル建設にたとえる。「ビルを建てるには更地の方が簡単。既存のものがあれば、ビルは建てにくい。これが今の日本の姿です」
■コロナ禍でも不変
低成長が続く日本では豊かさを感じることは減ったものの、不足を感じることも少ない。たとえば、古くから各地に小売店があり、電子商取引に頼らなくても、多くの人が便利に暮らせる。そんな日本はこの先、リープフロッグできるのだろうか。
この問いをぶつけると、野口さんはまず、こう力説した。「日本が今の状態から抜け出すには、リープフロッグが必要だと私は思っています。日本がこれから逆転することを心から望んでいるのです」
続いて出たのは厳しい言葉だった。「現実を見ると、日本はレガシー(遺産)の力があまりにも強く、社会の構造が古い技術に固定されてしまっています。これをどう改革していくかが重要ですが、決して簡単ではありません。非常に難しいと言わざるを得ない」
技術革新が起きるかどうかは、社会的なニーズに加え、既存の仕組みの強さにも左右される。では、野口さんが悲観的なのは、どうしてなのか。
「私は去年の今ごろ、新型コロナウイルスは日本がリープフロッグするきっかけになる可能性があると思っていました。日本政府がITをまったく使えないのを見て、社会の現状がどうしようもないと多くの人が気づき、災いを福に転じると期待したのです」
コロナ禍は、日本社会のデジタル化の遅れをあぶり出した。在宅勤務が呼びかけられたのに、印鑑を押すだけのために出社せざるを得ない人がいた。
「それから1年。全体として見れば、ほとんど何も変わっていないと言わざるを得ません。大変残念です。在宅勤務が当初要請されたように広がれば、働き方は変わらざるを得ず、成果主義への転換も進んだはず。生産性の向上に大いに役立ったと思います」
■デジタル化阻む壁
経済協力開発機構(OECD)によると、日本の2019年の時間あたりの労働生産性は米ドルベースで調査対象の加盟37カ国のうち20位と低い。主要7カ国の中では、1970年以降最下位が続く。社会の変化を阻んできたものは何か。
「在宅勤務について言えば、企業で仕事の評価方法が変わらないからです。成果によってではなく、職場に『いるか』どうかによって評価するといったことです。私は、この基準にこだわる人々を『イルカ族』と呼んでいるのですが、イルカ族が横行している限り、事態は変わりません。もう一つは、組織のリーダーがITに無理解であることです」
こうした問題点は以前からたびたび指摘されてきた。菅政権はデジタル庁を近く設立し、デジタル化の旗振り役にしようとしている。ただ野口さんは、この動きにも懐疑的だ。
「デジタル化を阻む原因が、『中央政府と地方公共団体の仕組みの不整合』『日本企業の閉鎖性』『組織リーダーの無理解』にある以上、デジタル庁をつくったところでデジタル化が進むことはないと思います。むしろ、デジタル庁が民間へ行政のデジタル化事務を委託する統一的な窓口になることによって、新しい利権構造がつくられていくことを危惧します」
それでは、日本でリープフロッグを起こすには何が必要なのだろうか。野口さんは、人々の「不満」が変革の力となる可能性に一縷(いちる)の望みをかける。
「社会の不満がこれだけ高まったにもかかわらず、何も変わらない日本の状況に絶望感を持っています。政治メカニズムが人々の不満を吸い上げる機能をまったく果たしていません。この状況を少しでも変えていくために、マスメディアと学者に託された役割は重要だと思っています」
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のぐち・ゆきお 1940年、東京都生まれ。64年、大蔵省(現財務省)に入省。72年、米イエール大で経済学博士号を取得。一橋大教授、東京大教授などを歴任し、現在は一橋大名誉教授。専門は日本経済論。「『超』整理法」「リープフロッグ 逆転勝ちの経済学」「良いデジタル化、悪いデジタル化」など、幅広い分野の多くの著書で知られる。
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「CIP症候群」を警戒せよ
(CIP三徴候とは : Complacency, Ingratitude, Provincialism)
1994年に86歳で亡くなった秋元寿恵夫(あきもと・すえお)ドクターは、戦時中、「731部隊」に強制徴用されている。
そこで人体実験を見聞したことが、秋元ドクターの生き様に深刻な影響を及ぼした。のちに病態生理研究所を立ち上げ、臨床検査法を確立し、検査技師の教育・育成に心血を注がれた。原水爆禁止運動にも積極的に参加している。が、常に人体実験の過去が脳裏から離れなかったようだ。
秋元ドクターは、懺悔の気持ちをこめて『医の倫理を問う-第731部隊での体験から』(勁草書房)を著した。
その著書のなかで、ロックフェラー財団の医学部長グレッグ博士が46年3月にニューヨーク市のコロンビア大学医学部医学科の卒業式で行った講演を翻訳し、紹介している。
グレッグ博士は、優秀とされる医学校の卒業生が社会に出て活動する過程で「身中の虫」として常に心せねばならない要素として「うぬぼれ Complacency」「忘恩 Ingratitude」「地方人気質Provincialism」をあげ、これらを医師に限らずエリートなる人々が陥りやすい病いに見立てて「CIP症候群」と命名。
世の中に出てからも「CIP症候群」には用心しろと警鐘を鳴らしている。
具体的には「うぬぼれ」とは、その字義のとおり、優秀とされる学校を卒業した者が抱きがちな自己満足感。自信過剰になる一方で育ちのよさ特有の「けだるい無気力」にもつながると述べている。
「地方人気質」とは、狭くて自分の立場に凝り固まる傾向で、コロンビア大学などの場合では「医者としてのそれ、ニューヨーク子としてのそれ、及びアメリカ人としてのそれ、というふうに三重のものとなっている」と痛烈に批判している。
都会育ちであろうが、井の中の蛙は狭い地方人気質にとりつかれているのだ。
「忘恩」とは、深く物事を考えずに何でも鵜呑みにすることから生じるようだ。
グレッグ博士は、大学が医学生を教育する総コストに対して授業料は「七分の一以下」と概算し、医学生は大きな利益を享受していると指摘したうえで、次のように語っている。
「この並外れた利益を諸君にもたらしてくれた人々は、いまはすでに親しくことばを交わせる間柄からはほど遠い世代に属している。またこのような計算は、医師に託したそのあつい信義に対して、いつかは諸君が報いてくれるであろうと期待していた人々に、深く頭をたれて感謝の意を表するのもまた当然であることを思わせるに十分であろう。
いわば諸君は賭けられているのだ。それも六対一の勝負で。諸君は必ずや自分が受け取ったものを、のちに社会へ引き渡す立派な医師であることに、 多くの人々が賭けているのであるから、どうか諸君、下世話にいう『馬に賭けても人に賭けるな』の実例にならぬように十分に心掛けていただきたいのである」
エリート医師を養成するといわれる大学の卒業式で、馬より劣る人間になるな、と言っているわけで、そのシニカルで旺盛な批評精神には脱帽するばかりだ。
日本の国立大学医学部の卒業式で、これだけのスピーチができる「教授」がはたして何人いるだろうか。
米国の懐の深さを感じざるをえない。
さて、秋元ドクターは著書の「あとがき」をこう書き結んでいる。
「ひとりでも多くの若い諸君に、この新刊本(『医の倫理を問う』)と併せて『医療社会化の道標~25人の証言』(医学史研究会・川上武編 1969年 勁草書房)とを読まれるようおすすめしたい。
なぜなら、現在わたくしたちが置かれている社会のありようは、無念なことながら、またもやあの当時に逆戻りしてしまったので、二度とふたたびあのような無法な暴力は絶対に許すまいと、決意を新たにする上でも、 これらの書物で当時の状況を正確に知っておくことがどうしても必要になってくるからであり、それがまた本書のしめくくりとしてのわたくしの切なる願いともなっているのである」
この本が、世に出たのは1983年だった。
もう20年以上も前なのだが、日本の社会はさらに「逆戻り」の度を深め、抜き差しならない地点にきてしまった感を禁じえない。
(佐久総合病院 色平哲郎)
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東京五輪、国家の思惑
東京大学大学院情報学環教授・吉見俊哉さん
今回の東京五輪は安倍政治、ひいてはこの20年ほどのこの国のあり方そのものだと思う。ノスタルジーと嘘で塗り固められた開発への執着と現実の否認。
朝日新聞2021/8/3
画像)「東京という都市はブラックホールです。東京を立派にすればするほど、地方は貧しくなる」=瀬戸口
翼撮影
五輪選手たちの健闘をよそに、新型コロナ感染拡大が日本の首都を脅かしている。もしコロナ禍に見舞われていなかったら、五輪は日本に益をもたらしたのか。今回の五輪を「敗戦処理」と表現する社会学者の吉見俊哉さんは、東京という都市の実相を研究し続けてきた。これからの東京はどこへ向かうべきなのかを尋ねた。
――開催前から、今回の東京五輪を批判していました。
「多くの意味で、1964年の東京五輪の『神話』から抜け出せていないことが最大の問題です。根本的な価値観の転換もなく、前回の延長線上で、2020年東京五輪を迎えてしまいました。6月の党首討論で五輪の意義を問われた菅義偉首相が、女子バレーの『東洋の魔女』などを挙げて前回の東京五輪の思い出を長々と語ったことがその象徴です。一国の首相ですら、半世紀以上前の成功体験しか語ることがない。なぜ東京で再び五輪をするのか、誰も分からないまま突っ走ってしまった。開会前から、敗戦処理をしているようでした」
――当初は東日本大震災からの「復興五輪」とうたわれました。
「13年に開催権を獲得する際に使われた『復興五輪』という言葉には深刻なうそが含まれていました。それは、震災の被災地は東北なのに、東京で開催するという点です。首都圏の1都3県は総人口3600万人を抱える世界最大の都市圏です。日本の資本の半分近く、情報や知的活動の大半が集中しているのに、さらに五輪のために資源を投下してインフラ整備を進めた。東北の復興という目的とは完全に矛盾していました。被災地の人々は『復興五輪』というスローガンはだしに使われただけ、と見抜いています。本当に東北の復興を目指すなら、東京への集中を逆に抑えるべきでした」
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――なぜ日本は東京で再び五輪をしようと考えたのでしょうか。
「理由は三つあります。一つ目はノスタルジー。64年の五輪の成功イメージは、メディアなどで繰り返し語られてきました。普通は時間が経つにつれて露出量が減るものですが、90年代半ばから再び増え始めました。バブル崩壊後に経済が低迷し、年配者を中心に『未来を向いていた60年代』を懐かしく思い出したからです。前回の五輪がそのシンボルとして神話化され、誘致時の国民の支持につながりました」
「二つ目は、東京都の悲願ともいえる臨海副都心の開発です。80年代から90年代にかけて鈴木俊一都知事は、湾岸地区の開発を目指し、世界都市博を計画します。青島幸男知事が中止を決めて計画は止まる一方、六本木や丸の内などは2000年代に再開発が進みました。取り残された湾岸という不良債権を何とかしようと、五輪誘致で一気に開発推進をもくろんだのが、石原慎太郎知事でした」
――残る三つ目は、国家の思惑でしょうか。
「その通りです。日本では都市開発に巨額の国家予算を投入するため、いつも五輪が利用されてきました。五輪というイベントで国民の同意をとりつけ、特定の都市への集中投資を可能にする。64年の東京五輪が原型です。その後、72年に札幌冬季五輪、88年の夏季五輪ではソウルに敗れたものの、名古屋が手を挙げました。98年には長野冬季、そして2008年夏季には大阪が立候補しています」
「振り返れば、日本という国は10年に1度、五輪をやろうとしてきた。これは偶然ではありません。国家として『システム化』されているということです」
――五輪が「システム化される」とは、どういう意味ですか。
「カナダ生まれのジャーナリスト、ナオミ・クライン氏は、テロや災害など大きなショックのさなかに乱暴に政策が変更され、新自由主義的な施策が断行されることを『ショック・ドクトリン』と呼びました。同様の意味で、日本では『お祭りドクトリン』が行われてきたと私は考えています」
「五輪に代表されるメガイベントを成功させるという名目で一気に物事を進める。日本では途上国のような開発独裁は成立しませんが、『お祭り』と結びつけることで可能になる。この仕組みがシステムとして繰り返されてきたのです。この方式は、ソウル五輪や北京五輪にも引き継がれており、いまや東アジア型五輪とも言える仕組みになっています」
■ ■
――64年の東京五輪では、「お祭りドクトリン」によって何が行われたのでしょうか。
「東京をより速く、高く、強い都市にすることが前面に打ち出されました。川や運河にふたをして首都高速道路が造られ、路面電車のネットワークが廃止されました。当時、都民の多くは反対していましたが、住民の暮らしよりも経済発展が重視された。開発の結果、東京という都市は著しく効率的になった半面、無味無臭の街になってしまいました」
「東京が、明治時代から続く『軍都』だったことも再開発には好都合でした。明治維新で薩長が江戸を占領し、中心部から離れた現在の港区、渋谷区のような西南部に軍事施設が集中しました。敗戦後は米軍に接収されて、代々木のワシントンハイツなど米軍施設になります。しかし、反米意識を抑えたい米国の意向で、こうした施設は徐々に返還され、国立代々木競技場などの五輪施設に生まれ変わりました。六本木や原宿は流行の先端を行く街となり、東京五輪神話へとつながっていきます」
――前回の五輪というお祭りが終わった後も、東京への一極集中は止まっていません。
「明治以降の近代化は、地方から人や資源を東京に集めることで成し遂げられました。地方には江戸時代から多くの藩校が整備され、人的なポテンシャルが蓄積されていたのです。しかし、地方から収奪するこのやり方は、少産少子化でもはや限界を迎えています。にもかかわらず、日本は2020年の五輪で一極集中をさらに加速させようとした。これは自殺行為です」
「今回の『敗戦』で日本ではもう誰も五輪をやりたいとは思わなくなるでしょう。政治家がいくら開催を唱えても、国民の支持は得られない。お祭りドクトリンの化けの皮はすでに剥がれています」
――東京を、国際的な情報・金融都市にして世界での競争に打ち勝とうという動きもあります。
「うまくいかないでしょう。戦後の日本経済はタテ方向の『垂直統合』を得意とし、それで成長を成し遂げました。親会社から孫請けまでの連携を緻密(ちみつ)に組み立て、質の高い大量生産を実現する。この垂直統合の中心地が東京でした。しかし、90年代以降のグローバル資本主義では、ヨコ方向にネットワークを作り、状況に応じてかたちを変えていく『水平統合』が主流です。日本は、この変化に乗り遅れています」
「では、東京が水平統合の中心となるべきかといえば、違います。むしろ東京以外の拠点都市を多核分散的に作っていく方がいい。グローバル都市に数千万の人口は必要なく、福岡や仙台ほどの規模があれば十分です。垂直統合の頂上である東京を強くするだけではふもとがやせ細り、地方の可能性を潰します。いま日本全体を見ると、東京がむしろ最大のリスクなのではないかと思います」
■ ■
――今回の五輪はコロナ禍に見舞われ、目算が崩れました。
「パンデミック(感染大流行)は、大都市ほどリスクが高まります。100万人あたりの感染者数でみると首都圏が異様に多い。他方、オンライン化により東京都心のオフィス空き家率が上昇している。本社機能の地方移転が始まり、人口も郊外に逆流する動きが起きています。こうした一極集中と逆の動きは、過去30年にはなかった。将来的にどんな東京があり得るのかを考えるうえで、とても重要なことが起きています」
「今回の五輪は『半世紀前の栄光よ再び』ではなく、あの時に失ったものの復興を目指すべきでした。これからは未来の方向を逆にしていくことが、東京の可能性を開くのではないでしょうか」
――未来の方向を逆にする、のですか?
「猛スピードで回転を上げて、拡大していくのではなく、都市の生活の速度を遅らせるのです。より愉(たの)しく、しなやかに、末永く循環する都市を目指す。巨大再開発は必要ありません。東京は、意外に古いものが残っている。この多様性が強みです。前回の五輪以降の再開発で西南部には超高層ビルが林立していますが、東北部はそれほど変化していません。首都高速をとっぱらい、水辺を呼び戻し、路面電車を復活させれば、各地区が独自の魅力を放ち始めるでしょう」
――東京以外の都市はどうすればよいのでしょうか。
「多様性を生かす循環都市は、日本全国の都市で適用可能なモデルです。スピードや効率で競うのではない。ひとつひとつの都市の核は小さいが、宝石のような輝きがある。その宝石が数珠つなぎになる日本にこそ、未来があると考えています」(聞き手・真鍋弘樹)
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よしみしゅんや 1957年東京都生まれ。主な専攻は社会学、都市論、メディア論。東京大学副学長など
を歴任。著書に「五輪と戦後」「東京裏返し」など。
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少年院・茨城農芸学院の日々:1
送致に「ホッ」、もとは被害者
編集委員・大久保真紀
朝日新聞2021/8/2夕刊「現場へ!」
「むしろホッとした。このままではダメだとわかっていたから」
茨城県牛久市にある少年院「茨城農芸学院」の面会室。私と向かい合って座る少年(19)が、家庭裁判所の少年審判で少年院送致と言われたときの心境を語った。
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少年は17歳のころから、家出を繰り返した。寒さに震えながら公園で寝泊まりし、食べるものを手に入れるために万引きをした。ショッピングモールでおにぎりや飲み物を盗んだり、すし屋で無銭飲食をしたりして2度逮捕された。
幼いときに父母が離婚、精神疾患を患う母に引き取られた。母に暴力を振るわれ大けがをして保護され、小学1年から児童養護施設に入った。
そこも安心できる場所ではなかった。年上からいじめられ、殴られた。殴り返すようになった。
中学3年のとき、先輩の顔を数発殴り、児童自立支援施設へ移された。2年ほど生活して、大工をしていた祖父に引き取られた。が、まもなくして祖父はけがをして働けなくなり、年金生活に。「お前がいると金がかかる」「大変だ」と繰り返し言われた。
通っていた通信制高校の先生に相談すると、祖父に「家のことを外で言うな」と怒られた。だれにも相談できなくなった。18歳で少年院に入った。
*
少年の話を聞きながら、私は思った。もっと早くだれかが手を差し伸べていたら、彼が非行をすることも少年院に入ることもなかったのではないか、と。少年たちは加害者となって、いまは少年院に送致されているが、もともとは「被害者」なのだと感じた。
私が少年院の取材をしようと考えたのは、少年による非行も凶悪事件も減っているのに厳罰化を求める声が世の中で大きくなっているからだ。どんな少年が少年院に入り、どんな矯正教育が行われているのかを知りたいと思った。
茨城農芸学院には、発達の課題や知的な制約があるなど他人とのコミュニケーションに課題を抱える男子が収容されている。
最近の在院者数は70人前後で、基本的には三つの寮に分かれて集団生活をする。午前6時45分の起床から午後9時15分の就寝まで、食事、農園芸作業、勉強、体育、入浴など日課はすべて時間で区切られ、基本的に私語は禁止だ。
作文を書き、本を読み、教官と面接する。自分の生い立ちや家族への思いなどを整理し、自分の犯罪行為を見つめる。毎日日記も書く。指先まで伸ばして整列し、大きな声で返事をする。何をするにも申告しなければならず、勝手に動くことはできない。
規律、規則に縛られた生活だが、この少年は「寝るところと食べるものがあるだけで幸せだと感じる」と言った。
少年院が刑務所と違うのは、番号ではなく、教官も院生も名前で呼び合い、人間的な関わりの中で教育が行われていることだ。
少年も教官が自分の話を真剣に聞いて助言してくれることが心に響いたという。「ひとりで抱え込まず相談していいんだと思えた」
ある教官は言う。「信頼関係がなければ少年たちには何を言っても無駄。彼らは聞く耳を持てない。『信用できる大人』という思いが生まれると変わってくる」(編集委員・大久保真紀)
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日本育ちのミャンマー人映像作家「解放を」 仲間ら動く
朝日新聞2021/7/26
クーデターで国軍が権力を握ったミャンマーで、6歳から日本に暮らし、日本の永住資格を持つミャンマー人の映像作家の男性が政治犯として拘束されている。日本の友人らは男性が手がけた映画の上映会を手始めに、解放のために何ができるかを模索し始めた。
最大都市ヤンゴンのインセイン刑務所に拘束されているのは、モンティンダン=本名・テインダン=さん(37)。友人で自らも国軍に4月から約1カ月拘束されたジャーナリストの北角裕樹さんらによると、4月に逮捕され、北角さんに映像を売って得た2千ドルでクーデターに反対するデモを支援したとして起訴された。北角さんによると、映像や金銭のやりとりはなかったという。
父の仕事で6歳で来日し、茨城県の小学校に入学。映画が好きで、中学生の時に子役養成学校に通い始め、俳優を目指した。高校卒業後、日本映画学校(現・日本映画大学、川崎市)で演出などを学び、映画の助監督などをしていた。
友人らには「ダン」と呼ばれる。ずっと日本で暮らしてきたが、2018年に公開された日ミャンマー合作映画の製作に関わったことをきっかけに、日本と行き来しながら母国でも映像や映画に関する仕事を始め、ヤンゴンに会社を設立。昨年には短編映画を完成させ、ミャンマーの映画祭などで賞を得ていた。
そんな矢先に今年2月、クーデターが起きた。1カ月ほど前からヤンゴンに滞在していたダンさんは市民らのデモの様子を撮影。デモに参加していた若者らとも親しかったことから国軍の取り締まりの対象になったとみられている。
ヤンゴンでは4月17日に日本人外交官らが住むコンドミニアムに軍人や警察が踏み込み、外交官宅に押し入る事案があったが、事情を知る住民らによると、この時に国軍側が捜していたのがダンさんだった。ダンさんはこの日に市内のホテルで逮捕されたという。
翌日に逮捕された北角さんは5月に刑務所内でダンさんに再会した。ダンさんは元気だったが、軍の施設で拷問を受け、虚偽の供述調書にサインさせられたと話していた。「頑張ろうな」と励ましあったが、「自分はミャンマー国籍なので日本大使館は助けてくれないのではないか」とも語ったという。
ダンさんの裁判は継続中で、最高で禁錮3年が科される可能性がある。現地の人権団体によると、24日時点で5360人が政治犯として拘束されたままだ。
日本外務省はダンさんについて、「認識はしており、この方も含めた拘束者の解放を(国軍に)働きかけている」としている。
解放へ仲間が動く
日本映画大学で24日、ダンさんが06年に卒業制作として監督・脚本を担当した映画「エイン」の上映会が開かれ、大学関係者や在学生、ダンさんの同期生ら約70人が参加した。
エインは「家」を意味するミャンマー語。家族でミャンマーから来日したものの、学校でいじめられ、日本社会になじめない少年が、弟とともに家出して海に向かう途中で様々な大人に出会い成長する物語だ。
上映後にあったシンポジウムで、作品の指導をした天願大介学長はダンさんが「自分のことを書きたい」と言って脚本を仕上げたと明かした。ダンさんについて「同世代の日本人と同じ感性がある」とし、「忘れてはいないし、心配しているということを本人に伝えたい」と述べた。
北角さんも登壇し、「一刻も早い釈放を求めたい。まずはダンさんのことを多くの人に知ってもらうことから始めたい」と話した。ダンさんは日本国籍ではないものの、日本政府にも支援を働きかけたいとの考えを示した。
上映会に参加した同期生の稲垣壮洋さん(42)は「(ダンさんは)日本とミャンマーの架け橋になりたいと話していた。参加できなかった他の同期にも今日のことを伝える」と語った。自分たちに何ができるか考えるつもりだ。
ダンさんについては、日本映画監督協会(崔洋一理事長)が21日、即時解放を求める声明を出した。(五十嵐誠)
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