【現代思想とジャーナリスト精神】

価値判断の基軸は自らが判断し思考し実践することの主体であるか否かであると考えております。

国語教育学者、故江口季好氏を支えた妻江口皐月さんの8月15日 ~補充NHKBS1番組のご案内~

2021-08-19 15:11:14 | 社会思想史ノート

国語教育学者、故江口季好氏を支えた妻江口皐月さんの8月15日
~補充NHKBS1番組のご案内~

【序にかえて】
 90歳代の江口皐月さんは、江口季好氏が亡くなられた後も、江口氏の論文や遺稿を整理し、多くの教育学者、教師などへこまめに紹介する一方、成人に達したお子さんたちお孫さんたちに慕われている。
 以下のインタビュー記事は、別に記載するNHKBS番組で番組中に江口皐月さんの回想が使われるのでぜひ見てほしいという手紙とご案内を横山百合子さん、三上晶子さんおふたりからいただいた。以前一度江口宅をおうかがいした時にお二人は教師や都教育委員会勤務とうろおぼえに聞いたように思うが定かではない。

【昭和20年8月15日 天皇の終戦の詔勅】

―どこで聞きましたか?
当時私(江口皐月)は佐賀県小城市西小路町にいました。小さな飛行機製作工場の庭です。
主として飛行機の羽根を作っていました。私は二十歳。志願して工員になったが、製作の材料・部品が無くなり羽根を止める鋲を数えていた。

―この工場の建物は今日どうなっていますか?
私にはわかりません。

―終戦の詔勅を聞いた時にどんな気持ちでしたか?
 天皇がじきじきに放送されると聞き、これは大変なことだと緊張していた。ラジオ放送
に雑音が多くはっきりと聞こえなかった。
 最初にアナウンサーが「かしこき あたりに おかれましては」といいだしたので、ヴぃっくりして気を付けの姿勢になった。
天皇らしい声の中に「耐えがたきを耐え しのびがたきをしのび」という言葉だけがきこえたので、ああ これは戦争が終わったのかなあと直感した。
 しかしかんたんに終わらないだろうとも考えた。私は暑さに耐えながら、しばらくじっと
立っていた。

―まわりの様子はどうでしたか?

 工場の中にいた十人位の男女工員もあまり声を出す人もなく、みんなぼうっと立っていた。しばらくして工場の主任がでてきて弱々しい態度を今日はこれで帰って良い、あとのことは明日知らせますと告げた。
 私ははいていた杉下駄の鼻緒がゆるんでいたので、はき直して工場の外の道路に出た。
すると突然空の方から拡声器がきこえてきた。同時に小さなビラが無数にひらひら降りてきた。
 拡声器の声はとても大きくはっきり聞こえた。
「日本のみなさん 戦争は終わりました。安心してお家にお帰りください」
私はどうしてこのように計画的にことが進むのか。こわい気持ちでその小さなビラを拾っ
た。その時。近くにいた警察官らしい人が「ひろっては駄目だ」とどなった。
 私はあわててビラを放したが、すぐに後悔した。一枚だけならすぐに隠して持って帰れたのに。ビラを見ればいろいろわかしているのに・・・・・・七十年経過した今でも後h
している。
 工場の匂い側は小城町の中学校と女学校があるので、そこから生徒たちがぞろぞろ出てきた。
―やっぱり負けたんだ。
―先生たちは泣いてたねえ
―切腹する人もいるかな、  そんなことはしないよ。
 急に、にぎやかになったが、私はだまったまま町の駅の方に歩いた。戦争は負けたとはっきりしたのに・・・  私は涙は出なかった。
 小城駅は単線列車の通る駅なので、唐津線という一本線が通っている
その日も3輌編成の列車が停車したが、乗客も少なく無言の人が多く、中学生らしい男の
子が泣き顔で乗っていた。
 とにかく、家に帰りたい!!
その気分で私は夕方近い空をながめていた。

―8月の終わりまでの自分をふくめた人々の様子は?
 8月15日の夕方、父母が待っていた家も大変だった。信心深い母は仏壇にご灯明をつけて拝んでいた元小学校の教員だった父はしっかりと上着を着て姿勢正しく私に「天皇陛下の放送をきいたか」とたずねた。
 そして座敷の方に向かってていねいにおじぎして言った。
「ありがたいことだ。天皇陛下が国民を代表して終戦を知らせてくださったのだ。このことを忘れては、いけないよ」とおごそかな声で私に言い聞かせた。

 このあと母が
「こんなこともあるかと思うて大切な白米を五合ばかりかくしていたので、今夜はそれをたいて食べようよ」と言った。
 それまで神妙にしていた小学生の弟2人が、急に
「やったぁ、うれしかね」と飛び上がって喜んだ .
私は姉らしく、
「これでおしまいよ。あとはお米はないかも「しれない」と弟たちをたしなめた。

 8月16日以降は家の前の県道を知らない人がぞろぞろ歩くようになった。以後長崎方面の人も逃げてきた。
みんなおびえたような青白い顔だった。

「おそろしかよ。
 新型爆弾が落ちた
 何万人の人が死んだか
 わからんよ」

 ふるえながら、8月9日のことを告げた。
佐賀と長崎は隣りの県で近いのに、私たちは知らなかったのだった。 



 新聞は「新型爆弾」の被害は軽微なり  とだけ報じていた。
 広島に8月6日原爆が落ちたと知ったのは、ずっと先の昭和21年すぎだった。




補充:江口皐月さんら当時の人々の生きた証しとして以下の番組が放映されます
ぜひご覧くださるようお願い申しあげます。

【NHK BS1】
番組名 マッカーサ―が来るまでに、何が起きていたのか?
    日本人、逆転への“戦後復興”
放送日時    8月21日(土)午後9時~9時49分
製作協力     テレビ朝日映像
江口皐月さんの甥にあたるテレビ朝日第一制作部勤務小柳健太さんを中心に制作された番組です。戦争の愚かさと反戦を語り続け、今年初めに亡くなられた作家半藤一利氏を追悼する番組です。
人々が敗戦という歴史的転換点をどう乗り越えてきたかを探ります。戦後最大の危機のコロナ禍と向き合っていく視点を見出したいという制作の主眼であるそうです。