西谷文和 路上のラジオ(2021/8/27更新) 敗戦76年、不発弾で両手と光を失った藤野高明さんのお話、障害を様々な方の尽力で乗り越えて今に至る戦後史を語る、未来に残すべきものは平和憲法、残してはならないものは原発&西谷さんによるアフガニスタン情勢解説、アメリカの帝国主義+無責任が中東の庶民を大変な目に合わせたことを語る
永岡です、西谷文和路上のラジオ、Radio on the Street第63回、今回は敗戦76年企画、敗戦の翌年の1946年7月、今年83歳の藤野高明さん、元教師はもう空襲におびえることはないと思っていたら不発弾で両手首と視力を失い、必死で障害の中で勉強、差別の中を活きられたお話をされました(https://www.radiostreet.net/radio/899/ )。概略追跡します。
中東、アフリカなどの紛争地を取材される西谷さんのラジオ発信、スポンサーもなく、何の自粛、忖度もなく放送されるもの、リスナーの声、Daigo氏の差別発言、出したメディアの責任、そしてアベスガの破綻、日本の文化の破綻との声があり、西谷さんのSNS炎上、アフガンの写真をネットから盗んだと誹謗中傷だが、もちろん盗んでいない、西谷さんの通訳のアブドラさんのもので、しかしネットで誹謗中傷するのは団体、ネトウヨの組織動員、木村花さんも自殺、命を軽視するものがインフルエンサー、そして根拠なく誹謗中傷は社会が壊れかけている、しかしリスナーや、ゲストの藤野さんを支える人はそれを何とかしないといけないと思っているもので、西谷さんは市民の力を信じて発信されると説かれました。
前半は西谷さんによるアフガンのこと、カブール陥落のアフガン、あっという間の陥落、米軍や有識者は一方的に撤退だとタリバンが3カ月で制圧と見て、西谷さんも同様、しかし西谷さんもアブドラさんもビックリ、原因はバイデン大統領の判断ミス、米軍はいずれ撤退すべき、しかしタリバン>アフガン政府軍、オバマ政権の時に完全撤退ではなく、少し残して、アフガン政府軍とタリバンは今まで米軍の協力で互角、しかし米軍の後ろ盾なし、さらに2021年にアフガンのいくつかの都市はタリバンに制圧されて、そしてこの戦争の「正当性」はタリバンにあり、米軍はタリバンか確認せず射殺。上から無人機で撮影して、子供が薪を拾うと爆弾を仕掛けているとして殺すと、その兄弟はタリバンに入り、アフガン政府軍は、ガニ政権は腐敗して給料もちゃんと払われず、アフガンの兵士は危険な任務なのに200ドルしか払われず、それも遅配、政府軍でやっていられず、タリバンになる人もあり、タリバンはアメリカの侵略に抗する大義はあるのに、バイデン氏は撤退。しかし和平合意はあり、タリバンを政党として、民主的な選挙を国連の監視の下でやってから米軍は撤退すべき。
原因はトランプ氏、アメリカファーストで、トランプ氏はズラトン+バイデン氏がそれを追認、アフガン人を見殺しにしてもズラトン、アフガンを攻撃して20年で無責任。しかし、西谷さんの予想で、今のタリバンは昔より丸くなっているものの、現場はアブドラさんの映像を見たら米軍に協力したものに公開リンチ、報復的なことをして、国際的な記者会見で否定している弾圧をタリバンはして、そして女性の人権は12歳までしか教育なし、女性は男性のものになれ、そしてアフガンのテレビ局の女性キャスターは追放されて、タリバンの幹部はきれいごとを言うが末端はこの始末。
内戦は終わったが、タリバンも一枚岩ではなく武闘派と穏健派があり、今は武闘派が主導権でも、政治はできず、カルザイ政権と穏健派で何とか連立政権で、イスラム色の薄れる政権ができたらいいが、悪い方向だとアフガンがテロの温床、ISはいて、欧米でテロもあるとまた中東で戦争だが、中村哲さんのやり方でみんな食べられたらタリバンはなくなる+国際社会が忘れない、こんな独裁を許さず、今回は武力の政府でいずれ潰れるが、国際社会の監視は必須だと説かれました。
そして、藤野さんを通しての戦争の愚かさを考えるもの、敗戦間もない1946年、小学校の際に不発弾の爆発に巻き込まれて、あの夏の朝から75年、7月18日に、朝7時に不発弾暴発で視力と手先を失い、弟は5歳で即死、第2次大戦の翌年、藤野さんも後で5000万人世界でなくなり、その数倍障害を負ったと知り、しかし敗戦でもう空襲はないと思い、食糧難とインフレで人間は大変でも、空襲なし+先生は優しくなり、男女同権、言論の自由、当時深い意味は分からずとも、新しい時代が来たと思った。
弟さんと川、田んぼで遊んで、川岸に廃棄物が無数あり、小さい電池のようなものを拾い銀色、それを拾い集めて、まさか爆弾とは思わず、父は大工で朝は早く、拾ってきたもので遊ぼうとして、片方に穴、何かあると思い、叩くと砂粒が出てきて、釘でそれを出そうとして爆発、その時何もわからず、担架にのせられて大変、福岡であり、父、母も大変、父は当時34歳、母は31歳、敗戦後、子供を戦火から救い出したもの。
藤野さん、それで学校に行けず、それも13年、怪我をして、顔、手に包帯、目は見えず、視覚障害者は盲学校もあり、理解はしていたが絶望、しかし手がなくなったのを知ったのはその後、不自由で、食事も一人でできず、そして包帯が取れて、しかし弟の死も後で知り、自分のこと、弟のこと、深刻。いつか目は見えると思っていた、親も励ましてくれたが、15歳から視力回復のため入院、しかし18歳で全盲になり、今の眼科の力ではどうにもならないと言われて落胆。
いつか目は見えると思い亡くなり、精神も抑圧、ぐれるともできず、不良にもなれず、自暴自棄、母親、看護師に当たり、そんな生活を半年。そして19歳の時に転機、目は見えないと通告されて、看護実習の女性、3歳年上の方熊本さんが看護学生、藤野さんと話をされて、野球は西鉄ライオンズを応援、ラジオにかじりついて、そして自分のことを、看護師さんも高校を出てデパートに入り、その後別の道を、として看護師になり、藤野さんに親身になってくれて、その方と藤野さん穏やかにやれて、その方が命の初夜を読んでくれて、作者はハンセン病、腸結核で亡くなつた方だが、川端康成も認めた作家、それを読んでもらい、藤野さん、深刻なテーマだが、熊本さん読んでくれて、すると患者さんは他の方も聞きたいとなり、ハンセン病の患者さんたちのことを知り、命を削り闘い、社会の差別に押し潰れそうになりながら、必死で闘ったもの、ハンセン病患者は隔離などされて、すると熊本さん、資料を取り寄せてくれて、その際に点字を知り、点字は指で読むが、藤野さんは手がないものの、盲学校の生徒と一緒になり、点字は面白いと教えてくれて、藤野さんそれを覚えて、西谷さんも覚えられる、システマティックにできて、藤野さん覚えて、数時間で覚えられたが、指がないものの、唇で点字を覚える方法もあり、継続は力なり、点字をマスターして、一つ分かると、手掛かりが一つあると、次から次に道は開けて、点字を読めるようになり、唇で点字を読んで、足がかりをつかむと、読むスピードが上がり、盲学校に入学できて卒業。
そして、教師になりたく、教員採用試験を受けて、盲学校に5年いて先生になりたい、大学に行かないとならないが、当時の60年代の大学は障碍者の入学を想定せず、ごく少数の、同志社、関学は入れていたが、国公立も大半の私立も障害者お断り、通信教育で日本大学に入り、願書に身体の状態を書くところがない、それを書いたら過去は排除されて、日大には障害のことを書く欄はなく、9歳下の妹の協力で入り、しかし単位を取るのは大変、東京の水道橋に行かないとならず、福岡からの通信教育のみでは困難、65年に入学、68年に単位を取り、そして日大に行き、二重の障害で福岡から東京まで40日のスクーリングは大変、お金も要り、母が出してくれて、当時の100万を親は、無駄遣いしないと知っていたから、当時29歳、妹さん、仕事を休み1週間付き添ってくれて、そして日大は応じてくれて、藤野さんが重度の障害でも努力に頭が下がる、しかし4年生大学は大変、それで帰ってくれと、しかし単位はあり、短大の資格はあり、教員免許は高校はダメだが、中学の2級は取れて、藤野さん努力されて、ここまできてあきらめず、頑張って卒業。藤野さん、学友会の方が福岡に帰らなくてもいいと言ってくれて、友人がローテーションで教室の移動を手伝ってくれて、友達もできて、農業青年や自衛隊に行っている青年が助力してくれて、東京の生活を支えてくれて、5年半かけて日大を卒業。
71年に卒業の予定、通常の教員採用試験は前年に受けられるのに、障害者で断られて、点字の試験を作れないというのは嘘、相手は無知をさらけ出して、当時でも点字は把握できるものなのに断られて、そして全国に前例がない、毎度お馴染み役所の始末、しかし誰かが始めないといけない、そして過去にも受けたかった人がいて断った=みんな差別してきたから藤野さんも差別すると恥ずかしげもなく公言。今なら問題になるが、当時はエセ左翼、暴力集団もいたが、藤野さんは平和的に、冷静にやったのに、それで1回目は受験させてもらえず。
そして、71年に黒田革新府政が大阪に出来て、憲法を生活に生かすものになり、教育委員会は前年と同じでも、しかし知事は憲法を生かすというのを主張したら力になり、障害者差別は許されないとして、何とか折れてくれて、そして藤野さん以外にも受けたい人がいたのに、藤野さんは特例だと教育委員会はしてしまい、他の人はダメ、役人は前例を作りたくない。そして、藤野さん、役所に実績を作るために受験して100人のうち24人合格。
しかし、教育委員会は空きがないと発令、藤野さんのために設備、人材がいると尻込み、教育委員会は入れないであり、春には入れず、しかし6月になり、採用を求めて、教育委員会は非常勤講師で世界史の授業をできて、給料は16900円の手取り、はっきり覚えていて、母親に3000円送金、しかし母はそれを仏さまに置いていた。
仲間も、障害者差別を越えるために協力してくれて、そして1年で教員採用試験の効力がなくなり、行政はそのタイムリミットを狙う、黒い雨、福島原発事故も同じ、それでもう一度受けろ、しかし特例で受けさせて、それで期限だと排除はおかしいとして、何とかフルタイムで働いて、涙を呑んでもう一度受けて9月に本採用。
63歳まで教師をされて、今82歳、最近本を出版、今までに3冊出されて、人と時代のもの、時代は、戦後、平和憲法ができて、しかし戦争だと障害者は非国民、ナチスは障害者を殺害。そんな時代ではなく、親、妹、ボランティアにお世話になり、手助けしてくれる人、同僚、教職員組合にも恵まれて、本を書くのに寄稿を350人に依頼、その一人は西谷さん、今年には出るがコロナではあるが、何とか訴えたい。
藤野さん、人生は様々なことがあるが、あきらめない、死なない、藤野さんも死にたいと思ったことはあったが、母は死んで花実は咲かないと教えてくれて、そして人間は一人ではなく、自分一人で生きるのではない。藤野さんの思想信条、子供たちに残したいのは平和と人権、今の憲法を守り「残してはいけないのは原発」、大事故を起こして無数の人間を不幸にしてしまう、核廃物を処分できずモンゴルに捨てるなどというさもしいものを残してはならないと締めくくられました、以上、藤野さんのお話でした。
路上のラジオ、こういう内容はラジオならではです。この番組、企業スポンサーはありません、皆さんの協力をよろしくお願いいたします。障害を越えて活きられた藤野さんのお話、いくらでも拡散してください!
永岡です、西谷文和路上のラジオ、Radio on the Street第63回、今回は敗戦76年企画、敗戦の翌年の1946年7月、今年83歳の藤野高明さん、元教師はもう空襲におびえることはないと思っていたら不発弾で両手首と視力を失い、必死で障害の中で勉強、差別の中を活きられたお話をされました(https://www.radiostreet.net/radio/899/ )。概略追跡します。
中東、アフリカなどの紛争地を取材される西谷さんのラジオ発信、スポンサーもなく、何の自粛、忖度もなく放送されるもの、リスナーの声、Daigo氏の差別発言、出したメディアの責任、そしてアベスガの破綻、日本の文化の破綻との声があり、西谷さんのSNS炎上、アフガンの写真をネットから盗んだと誹謗中傷だが、もちろん盗んでいない、西谷さんの通訳のアブドラさんのもので、しかしネットで誹謗中傷するのは団体、ネトウヨの組織動員、木村花さんも自殺、命を軽視するものがインフルエンサー、そして根拠なく誹謗中傷は社会が壊れかけている、しかしリスナーや、ゲストの藤野さんを支える人はそれを何とかしないといけないと思っているもので、西谷さんは市民の力を信じて発信されると説かれました。
前半は西谷さんによるアフガンのこと、カブール陥落のアフガン、あっという間の陥落、米軍や有識者は一方的に撤退だとタリバンが3カ月で制圧と見て、西谷さんも同様、しかし西谷さんもアブドラさんもビックリ、原因はバイデン大統領の判断ミス、米軍はいずれ撤退すべき、しかしタリバン>アフガン政府軍、オバマ政権の時に完全撤退ではなく、少し残して、アフガン政府軍とタリバンは今まで米軍の協力で互角、しかし米軍の後ろ盾なし、さらに2021年にアフガンのいくつかの都市はタリバンに制圧されて、そしてこの戦争の「正当性」はタリバンにあり、米軍はタリバンか確認せず射殺。上から無人機で撮影して、子供が薪を拾うと爆弾を仕掛けているとして殺すと、その兄弟はタリバンに入り、アフガン政府軍は、ガニ政権は腐敗して給料もちゃんと払われず、アフガンの兵士は危険な任務なのに200ドルしか払われず、それも遅配、政府軍でやっていられず、タリバンになる人もあり、タリバンはアメリカの侵略に抗する大義はあるのに、バイデン氏は撤退。しかし和平合意はあり、タリバンを政党として、民主的な選挙を国連の監視の下でやってから米軍は撤退すべき。
原因はトランプ氏、アメリカファーストで、トランプ氏はズラトン+バイデン氏がそれを追認、アフガン人を見殺しにしてもズラトン、アフガンを攻撃して20年で無責任。しかし、西谷さんの予想で、今のタリバンは昔より丸くなっているものの、現場はアブドラさんの映像を見たら米軍に協力したものに公開リンチ、報復的なことをして、国際的な記者会見で否定している弾圧をタリバンはして、そして女性の人権は12歳までしか教育なし、女性は男性のものになれ、そしてアフガンのテレビ局の女性キャスターは追放されて、タリバンの幹部はきれいごとを言うが末端はこの始末。
内戦は終わったが、タリバンも一枚岩ではなく武闘派と穏健派があり、今は武闘派が主導権でも、政治はできず、カルザイ政権と穏健派で何とか連立政権で、イスラム色の薄れる政権ができたらいいが、悪い方向だとアフガンがテロの温床、ISはいて、欧米でテロもあるとまた中東で戦争だが、中村哲さんのやり方でみんな食べられたらタリバンはなくなる+国際社会が忘れない、こんな独裁を許さず、今回は武力の政府でいずれ潰れるが、国際社会の監視は必須だと説かれました。
そして、藤野さんを通しての戦争の愚かさを考えるもの、敗戦間もない1946年、小学校の際に不発弾の爆発に巻き込まれて、あの夏の朝から75年、7月18日に、朝7時に不発弾暴発で視力と手先を失い、弟は5歳で即死、第2次大戦の翌年、藤野さんも後で5000万人世界でなくなり、その数倍障害を負ったと知り、しかし敗戦でもう空襲はないと思い、食糧難とインフレで人間は大変でも、空襲なし+先生は優しくなり、男女同権、言論の自由、当時深い意味は分からずとも、新しい時代が来たと思った。
弟さんと川、田んぼで遊んで、川岸に廃棄物が無数あり、小さい電池のようなものを拾い銀色、それを拾い集めて、まさか爆弾とは思わず、父は大工で朝は早く、拾ってきたもので遊ぼうとして、片方に穴、何かあると思い、叩くと砂粒が出てきて、釘でそれを出そうとして爆発、その時何もわからず、担架にのせられて大変、福岡であり、父、母も大変、父は当時34歳、母は31歳、敗戦後、子供を戦火から救い出したもの。
藤野さん、それで学校に行けず、それも13年、怪我をして、顔、手に包帯、目は見えず、視覚障害者は盲学校もあり、理解はしていたが絶望、しかし手がなくなったのを知ったのはその後、不自由で、食事も一人でできず、そして包帯が取れて、しかし弟の死も後で知り、自分のこと、弟のこと、深刻。いつか目は見えると思っていた、親も励ましてくれたが、15歳から視力回復のため入院、しかし18歳で全盲になり、今の眼科の力ではどうにもならないと言われて落胆。
いつか目は見えると思い亡くなり、精神も抑圧、ぐれるともできず、不良にもなれず、自暴自棄、母親、看護師に当たり、そんな生活を半年。そして19歳の時に転機、目は見えないと通告されて、看護実習の女性、3歳年上の方熊本さんが看護学生、藤野さんと話をされて、野球は西鉄ライオンズを応援、ラジオにかじりついて、そして自分のことを、看護師さんも高校を出てデパートに入り、その後別の道を、として看護師になり、藤野さんに親身になってくれて、その方と藤野さん穏やかにやれて、その方が命の初夜を読んでくれて、作者はハンセン病、腸結核で亡くなつた方だが、川端康成も認めた作家、それを読んでもらい、藤野さん、深刻なテーマだが、熊本さん読んでくれて、すると患者さんは他の方も聞きたいとなり、ハンセン病の患者さんたちのことを知り、命を削り闘い、社会の差別に押し潰れそうになりながら、必死で闘ったもの、ハンセン病患者は隔離などされて、すると熊本さん、資料を取り寄せてくれて、その際に点字を知り、点字は指で読むが、藤野さんは手がないものの、盲学校の生徒と一緒になり、点字は面白いと教えてくれて、藤野さんそれを覚えて、西谷さんも覚えられる、システマティックにできて、藤野さん覚えて、数時間で覚えられたが、指がないものの、唇で点字を覚える方法もあり、継続は力なり、点字をマスターして、一つ分かると、手掛かりが一つあると、次から次に道は開けて、点字を読めるようになり、唇で点字を読んで、足がかりをつかむと、読むスピードが上がり、盲学校に入学できて卒業。
そして、教師になりたく、教員採用試験を受けて、盲学校に5年いて先生になりたい、大学に行かないとならないが、当時の60年代の大学は障碍者の入学を想定せず、ごく少数の、同志社、関学は入れていたが、国公立も大半の私立も障害者お断り、通信教育で日本大学に入り、願書に身体の状態を書くところがない、それを書いたら過去は排除されて、日大には障害のことを書く欄はなく、9歳下の妹の協力で入り、しかし単位を取るのは大変、東京の水道橋に行かないとならず、福岡からの通信教育のみでは困難、65年に入学、68年に単位を取り、そして日大に行き、二重の障害で福岡から東京まで40日のスクーリングは大変、お金も要り、母が出してくれて、当時の100万を親は、無駄遣いしないと知っていたから、当時29歳、妹さん、仕事を休み1週間付き添ってくれて、そして日大は応じてくれて、藤野さんが重度の障害でも努力に頭が下がる、しかし4年生大学は大変、それで帰ってくれと、しかし単位はあり、短大の資格はあり、教員免許は高校はダメだが、中学の2級は取れて、藤野さん努力されて、ここまできてあきらめず、頑張って卒業。藤野さん、学友会の方が福岡に帰らなくてもいいと言ってくれて、友人がローテーションで教室の移動を手伝ってくれて、友達もできて、農業青年や自衛隊に行っている青年が助力してくれて、東京の生活を支えてくれて、5年半かけて日大を卒業。
71年に卒業の予定、通常の教員採用試験は前年に受けられるのに、障害者で断られて、点字の試験を作れないというのは嘘、相手は無知をさらけ出して、当時でも点字は把握できるものなのに断られて、そして全国に前例がない、毎度お馴染み役所の始末、しかし誰かが始めないといけない、そして過去にも受けたかった人がいて断った=みんな差別してきたから藤野さんも差別すると恥ずかしげもなく公言。今なら問題になるが、当時はエセ左翼、暴力集団もいたが、藤野さんは平和的に、冷静にやったのに、それで1回目は受験させてもらえず。
そして、71年に黒田革新府政が大阪に出来て、憲法を生活に生かすものになり、教育委員会は前年と同じでも、しかし知事は憲法を生かすというのを主張したら力になり、障害者差別は許されないとして、何とか折れてくれて、そして藤野さん以外にも受けたい人がいたのに、藤野さんは特例だと教育委員会はしてしまい、他の人はダメ、役人は前例を作りたくない。そして、藤野さん、役所に実績を作るために受験して100人のうち24人合格。
しかし、教育委員会は空きがないと発令、藤野さんのために設備、人材がいると尻込み、教育委員会は入れないであり、春には入れず、しかし6月になり、採用を求めて、教育委員会は非常勤講師で世界史の授業をできて、給料は16900円の手取り、はっきり覚えていて、母親に3000円送金、しかし母はそれを仏さまに置いていた。
仲間も、障害者差別を越えるために協力してくれて、そして1年で教員採用試験の効力がなくなり、行政はそのタイムリミットを狙う、黒い雨、福島原発事故も同じ、それでもう一度受けろ、しかし特例で受けさせて、それで期限だと排除はおかしいとして、何とかフルタイムで働いて、涙を呑んでもう一度受けて9月に本採用。
63歳まで教師をされて、今82歳、最近本を出版、今までに3冊出されて、人と時代のもの、時代は、戦後、平和憲法ができて、しかし戦争だと障害者は非国民、ナチスは障害者を殺害。そんな時代ではなく、親、妹、ボランティアにお世話になり、手助けしてくれる人、同僚、教職員組合にも恵まれて、本を書くのに寄稿を350人に依頼、その一人は西谷さん、今年には出るがコロナではあるが、何とか訴えたい。
藤野さん、人生は様々なことがあるが、あきらめない、死なない、藤野さんも死にたいと思ったことはあったが、母は死んで花実は咲かないと教えてくれて、そして人間は一人ではなく、自分一人で生きるのではない。藤野さんの思想信条、子供たちに残したいのは平和と人権、今の憲法を守り「残してはいけないのは原発」、大事故を起こして無数の人間を不幸にしてしまう、核廃物を処分できずモンゴルに捨てるなどというさもしいものを残してはならないと締めくくられました、以上、藤野さんのお話でした。
路上のラジオ、こういう内容はラジオならではです。この番組、企業スポンサーはありません、皆さんの協力をよろしくお願いいたします。障害を越えて活きられた藤野さんのお話、いくらでも拡散してください!