【現代思想とジャーナリスト精神】

価値判断の基軸は自らが判断し思考し実践することの主体であるか否かであると考えております。

『孫崎亨氏に学び考えること~「過激派学生の運動」と戦後日本史の現時点~』

2017-05-08 21:41:06 | 政治・文化・社会評論
(後述)『孫崎亨氏に学び考えること~「過激派学生の運動」と戦後日本史の現時点~』
--------------------------------------------
【孫崎享のつぶやき】2017-05-08 07:557


【今何故、60年安保の篠原浩一郎氏の話を聞くのか。火ニコニコ。「智恵子抄」(自力で得たのでない事が貴方の前では恥しい)。今危機。モリス「日本の戦後、肉体の安全が主張される為、精神の方が早逝して肉体が長生きするという人間が増えた。例外安保の学生」。】





1:「智恵子抄」

報告(智恵子に)

日本はすつかり変りました。

あなたの身ぶるひする程いやがつてゐた

あの傍若無人のがさつな階級が

とにかく存在しないことになりました。

すつかり変つたといつても、

それは他力による変革で

(日本の再教育と人はいひます。)

内からの爆発であなたのやうに、

あんないきいきした新しい世界を

命にかけてしんから望んだ

さういふ自力で得たのでないことが

あなたの前では恥しい。

あなたこそまことの自由を求めました。

求められない鉄の囲かこひの中にゐて、

あなたがあんなに求めたものは、

結局あなたを此世の意識の外に逐おひ、

あなたの頭をこはしました。

あなたの苦しみを今こそ思ふ。 日本の形は変りましたが、

あの苦しみを持たないわれわれの変革を

あなたに報告するのはつらいことです。

********************************

 日本は戦後民主主義を得た。しかしそれはまさに、「すつかり変つたといつても、それは他力による変革で 内からの爆発であなたのやうに、あんないきいきした新しい世界を命にかけてしんから望んだ さういふ自力で得たのでないことが あなたの前では恥しい」という他力への依存である。

2:そして今、安倍首相の独裁が始まり、民主主義体制が一つ一つはがれそうになっている。[今、「自らで守れるか」が問われている。

3: 大塩平八郎・心の死するを恨む モリス

アイヴァン・モリスは1925年生まれ。英国の日本研究学者。著書『高貴なる敗北 日本史の悲劇の英雄たち』(中央公論社、1981年)からの引用。

 大塩の乱は紛れのなく、挫折の一例である。1837年大飢饉による民衆の窮状を目の前にしつつ、無為無策のままの幕府に抗議して、大阪の儒学者大塩平八郎中斎は「救民」を旗識のもとに兵を挙げた。ところがその挙兵は完敗した。大阪町奉行与力として立派な業績をあげていたこの指導者、そして同志たちは、同じ町奉行の捜索によって、ことごとく逮捕され極刑に処された。

・私自身の思い出の中に、今三島(由紀夫)と最後にかわした会話が甦ってくる。もしも西洋人が日本精神の本質を理解したいならば、日本人の持つ勇健精悍なたけだけしい英雄の典型として大塩平八郎を研究したらよい。日本精神とは王朝女官の日記や優雅な歌と歌とをかわすならわし、あるいは儀式的なお茶会などだけで代表されるべきものではない。

・戦後の日本は、肉体の安全が主張されるため、精神のほうが早逝して肉体が長生きするという人間が増えた。そのような意気の上がらない日本人の画一的生活態度に対しての目覚ましい例外は、過激派学生の運動であった。保守政治体制を崩壊させるという、一見してすぐ無理だとわかる目標のために危険をいとわず、犠牲を覚悟で身を捧げるという運動に参加した学生たちだった。

・さまざまな思想、立場の人々が、大塩平八郎を崇拝してきたのであるが、それらの人々に共通分母があるとすれば、それは何であろうか。いかに危険な暴力的方法であっても、必要ならば使用して、既存の権力体制を崩す決意をしていること、その行動の効果がいかに頼りないものであっても、その決意を固く保っていたことも挙げられる。

・1830年大塩平八郎の評判は最高潮に達していた。与力としての職務も、目付役筆頭である。ところがその年、突然大塩は、家禄を養子格之助に譲る。

・大塩は読書と執筆のために時間を惜しみなく使った。最も有名なものが『洗心洞箚記』だ。

・禅と同様、(大塩の傾倒した)陽明学は画一主義を排する。大塩の哲学は陽明学のどの点を特に重要なものとみていたであろうか。「太虚」である。太虚とは創造力である。「身の死するを恨まずして、心の死するを恨む」と『『洗心洞箚記』』上巻に記す。

・大塩が一般庶民のために正義を生涯の目標に選んだことは、支配者である幕府当局と真っ向から衝突する道についたことを意味していた。

*********************************

モリスは「戦後の日本は、肉体の安全が主張されるため、精神のほうが早逝して肉体が長生きするという人間が増えた。そのような意気の上がらない日本人の画一的生活態度に対しての目覚ましい例外は、過激派学生の運動であった」と指摘した。

4:それなら私達は、この学生達の動きを今一度学ぶ必要があるのでないか。


==================
------------------------------------
(私見)
  孫崎亨氏に学び考えること~「過激派学生の運動」と戦後日本史の現時点~
                                櫻井智志

 前掲の孫崎論文に思う。
高村光太郎の『智恵子抄』に、私も感動した。東宝映画で原節子と山村聡だったと思うが、幼い頃に父に連れられ『智恵子抄』(映画のタイトルは不明)を見た。大塩平八郎についても、歴史で学び共感をもつ。「学生達の動き」の項目を読み、思案にくれる。戦後学生運動は、青年たちの個々人の人生と、総体としての政治力学としての学生運動のいくつかの潮流と、二つの視点があろう。


 私は軽々しく論じては論じきれない問題の重みを感じる。もともと日本共産党の指導と学生達の信頼をもとに実践しつづけた全学連。政治の激動の中で、全学連から反共産党の組織が生まれる。初期の全学連委員長・副委員長を担った東京教育大学の学生は、生涯を学問と社会進歩のために費やした。私心や私利、虚栄心とは無縁な人物だった。全学連委員長を務めたその方は、研究に対しても厳格で誠実だった。その生き方は、戦後学生運動の典型的な良質の人物像だった。

 一方、私は中学生の時知り合った若者がいる。彼は、同じ高校で生徒会長として、保守的風土で学生自治の精神をもち、京都大学物理学科に現役入学した。激しい政治の季節、誠実な彼は共産党とは異なる党派で活躍した。高校生の時に、彼なら湯川秀樹らが学んだ京大で次の物理学者として大成するだろうと同級生は話していた。学生党派の争いで、付け狙われて、ついに大学で学ぶ安全が担保されず、身の安全でやむなくも中途退学した。しかし、尊敬する彼は、郷里で苦労に苦労を重ねた。いま県内の古代史研究者として成果を著作化し、県立大学の教授として学生を指導し地道な研究を蓄積するとともに、地域のコミュニテイ作りと都市計画プランナーとして、保守県の最も保守的な地方都市の住民本位の行政に関与している。

 「過激派学生の運動」は、連合赤軍の連合赤軍事件・あさま山荘事件によって、急速に国民から失望をかい、終焉のようにしぼんでいく。だが、過激派と目される「非・反日本共産党」派の学生運動史で、60年安保で警官と学生の衝突で悲劇的な圧死に至った樺美智子さん以外にも、短歌集『意思表示』を表し自死した岸上大作さん、1960年代なかばに日韓条約闘争時代に革共同の中核派に属し恋人で革マル派の女生徒の恋愛にやぶれ、自死し『青春の墓標』を遺した奥浩平さん、70年前後に同志社大で学生運動に加わり『二十歳の原点』など数冊の随想をのこし、自死した高野悦子さん。連合赤軍事件は、立松和平の小説『光の雨』を映画化した映画や若松孝二監督が映画化した『実録・連合赤軍事件』となっている。私はレンタルDVDで二つの映画を見たが、最後まで正視できなかった。ロシア革命よりも前のロシアの若者たちの重い実態を作品化したドストエフスキーの世界が残酷で無惨な日本の現実としてたちあらわれた。
 
 戦後学生運動の中心であった日本共産党では、大学生協の誠実な実践家矢野常喜さんが糖尿病昏睡で逝去された。矢野氏を慕う友人たちが刊行した遺著を大学三年で読んだが、「彼女を生き生きと生かせ、ぼくが彼女の海となるように」という一節は今も鮮やかに記憶している。
 全学連がブンドなどによって分裂すると、再建運動によってふたたび全員加盟制の自治会運動として甦る。川上徹、宮崎学など日本共産党の活動家であった人々が、諸要因で除名除籍などでたともとをわかつ。

 ひとつの自明な流れがあって、その流れから逸脱した、と言う風に私は考えない。戦後史の激動のなかで、学生たちはさまざまな政治的潮流として歴史に奔流される。過激派学生の運動、総体としてはそう言えても、個々の学生達の試行錯誤は、歴史との激突であったかも知れない。

 学問上の恩師芝田進午氏は、文理書院版の『われ炎となりて』で、ある高校生からの手紙を紹介している。アリスハーズさんがベトナム戦争を拡大するジョンソン大統領の北爆拡大に抗議して焼身自死をとげる。アリスハーズさんと学生の頃から文通しつづけた芝田氏は、衝撃を受けて追悼の書簡集を出す。弘文堂版の『われ炎となりて』だったろうか。それを読み感激したある高校生は法政大学に進学し芝田先生にまなぶ。しかし、その学生松田恒彦さんは、学内で他党派の学生から突然集団暴力を受けて瀕死の重傷を負う。車椅子生活を余儀なくされる。「過激派学生の運動」といっても、戦後70年の歴史のなかで壮絶な他学生へのリンチや暴力が事実があった。

 日本共産党が、「ニセ左翼」というのには、それだけの学生運動史をふまえてのうらづけがある。

 ただ、1968年5月に、フランスはパリを中心にたちあがった学生たちと呼応して、労働総同盟や政党などが共闘した。「パリ五月革命」にはそれだけの歴史的実態がある。1960年代後半の世界的な運動のうねりは、その後のベルリンの壁崩壊や冷戦による軍事的な社会構成体へ変質したソ連の社会解体と国家解体、東欧社会主義国家の解体と続いていく。日本の「過激派学生運動」と目されるものに、歴史家羽仁五郎氏は著作『都市の論理』をはじめ過激派学生に理解を示した。
 いま孫崎亨氏が、「パリ五月革命の時代」を、ご自身がどのように生きていたか。外務省の要職にあり、世界各国の大使を務められた時代。学生たちが他の政治党派の学生たちによって、通学さえできぬまま退学せざるを得なかったり、重症を負ったり、そんな事実を踏まえると、この課題はリアリズムと歴史的見通しという要件を欠くと、大きな誤解をおかす。

 現代、ここ数年、日本ではSEALDsという新たな資質をもつ若者たち・学生達の運動が誕生した。シールズへの評価はさまさまである。しかし、戦後学生運動の歴史を、連合赤軍事件で終焉したわけではなく、日本社会に、個として個性として自立した個人が育ち、それは日本に新たな市民の登場と市民社会の予兆として、私は驚き、期待してもいる。

 さらに、代々木系・反代々木系とマスコミは呼んできたけれど、現代の日本共産党には、市民社会の成熟に対応した政治的展望がうかがわれる。大学の教養科目で原田勝正氏から、第八回コミンテルン大会でディミトロフの「反ファシズム統一戦線」報告を学んでから、私にとり「統一戦線論」は重要な関心を占めてきた。自らは政治的実践力は持たないけれど、「日本における国民統一戦線の結成」はずっと生涯の研究課題であり続けた。

 日本と国際社会の混乱と混迷とは、私たちに失意をもたらしやすいけれども、大きな可能性と変革主体誕生は、世界でも日本でも芽生えつつある。あせらず、そして根気強く、冷静さをもち同時代者として生きていこう。
                                〈了〉 

最新の画像もっと見る