【現代思想とジャーナリスト精神】

価値判断の基軸は自らが判断し思考し実践することの主体であるか否かであると考えております。

【色平哲郎氏のご紹介】この重大な情勢下で日本には政治の指導者がいない

2021-06-16 22:29:36 | 転載
清水 潔 @ NOSUKE0607 3時間

NHKなどが首相、官邸情報として「G7各国首脳がオリンピック開催を支持」したように報じているが、これは事実なのか?海外メディアなどはほとんど触れていない。開催反対の意見を封じるためにG7まで利用したのなら断じて許されない。もはやこの国の政府はまったく信用できないところまできてしまった。


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<高見順『いやな感じ』角川文庫 p.154>
     
「あの中尉は俺にこう言ってた。軍人として国のために命を捧げるのはいいが、今の日本の、金儲けしか眼中にないような資本家階級のために命を捨てるんではやりきれない。奴らの手先をつとめさせられるのは、かなわない。こう言うんだが、あれも俺と同じ水呑み百姓のせがれなんだ。今のような世の中では、百姓が可哀そうだ。地主に搾取されてる百姓も惨めなら、資本家に搾取されてる労働者も惨めだ。彼らを縛ってる鎖を断ち切るために、世の中の立て直しが必要だと、こう言うんだ。自分たち軍人が、喜んで命を捧げられる国にしなければならない。今みたいでは、兵隊に向って、国のために命をささげろと言うのが苦痛だ。これでは、兵隊を戦場に連れて行って、むざむざ殺すのに忍びない……」


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<高見順『いやな感じ』角川文庫 p.425>
      
「どえらい戦争をはじめたら、きっと日本は、しまいには敗けるにきまってる。どえらい敗け方をするにちがいない。だって今の軍部の内情では、戦争の途中で、こりゃ敗けそうだと分っても、利口な手のひき方をすることができない。派閥争い、功名争いで、トコトンまで戦争をやるにきまってる。そうした軍部をおさえて、利口な手のひき方をさせるような政治家が日本にはいない。海軍がその場合、戦争をやめようと陸軍をおさえられれば別問題だが、海軍と陸軍との対立はこれがまたひどいもんだから、陸軍を説得することなんか海軍にはできない。逸る陸軍を天皇だっておさえることはできない。こう
見てくると、戦争の結果は、どえらい敗戦に決まってる。そのとき、日本には革命がくる」


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この重大な情勢下で日本には政治の指導者がいない。すでに多年来、政府は内蔵する力も、また決意も持たない。軍部と官僚と財界と政党の諸勢力のまぜものにすぎない。以前は強力であった政党も汚職と内部派閥の闘争のため、政治的には全く退化し、国民の大多数から軽蔑されている。

(リヒャルト・ゾルゲ『日本の軍部』)
      
・ゾルゲは事件後に陸軍統制派の覇権が確立し、日本は中国征服に向かうだろうということを正確に予言した。
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彦坂忠義氏(当時東北帝大理学部物理学科助手)が
原子核の「核模型論」を提唱(1934年)。しかし当時は大御所ニールス・ボーアの「液滴模型論」が主流で相手にされなかった。結局1963年にイェンゼン
やメイヤーが全く同じ図形でノーベル賞を受賞したのである。日本は全くナメられていたのであった。
        
(『20世紀 どんな時代だったのか 思想・科学編』)

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農民は「富国強兵」の犠牲者だった。
   
農民は明治政府の重要政策であった「富国強兵」の犠牲者であった。後進国が自らの原始的蓄積によってその資本主義を発展させる「富国」のために農民
は犠牲を求められた(地主金納、小作物納の租税体系と地租の国税に占める割合をみても判る)。

同時に「インド以下」といわれた農民は「強兵」のためにはあたかもグルカ兵のように、馬車馬的兵士として使われた。「富国」と「強兵」とは農民にとって本来結合しない政策であった。この農民の二重苦にもかかわらず、隊附将校は「富国」のために強兵を訓練し、「強兵」と生死をともにする立場に立たされていた。

そして幕僚は「富国」への体制に専念した。この「富国強兵」策のもつ矛盾は、大正九年の経済恐慌、昭和二年の金融恐慌、昭和五年の農業恐慌によって激化された。このことは、「武窓に育って」社会ときりはなされていた青年将校に、軍の危機イコール国の危機であるという彼ら特有の信念を、いよいよ自明のものとしてうけとらせるのに十分であった。
              
(高橋正衛『二・二六事件』中公新書、p.148)

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永田鉄山(総動員国家推進者、陸軍統制派)暗殺される(陸軍派閥抗争)
(1935年、昭和10年8月12日)--->二・二六事件(昭和11年2月26日)へ
(東条英機は、このあと永田鉄山に代わり、統制派のエース格となっていった)

永田鉄山殺害は、軍を内閣の管理下におこうとした政府の企画への陸軍の反革命だった(皇道派と統制派の対立抗争の帰結)。

詳細に語らなかったけれど、弁護人の鵜沢ははっきりと理解していたように、弁護側が主張したのは、陸軍とは、そのメンバーを合意なしには代えてはならないとする、三長官(注:陸軍統制の三長官は参謀総長、陸軍大臣、教育総監だった)の恒久的寡頭制によって管理される自主的な自治団体だ、と見なすことであった。この自治団体は「天皇の軍隊」であり、それを内閣の管理下におこうとするいかなる企図も、「軍を私的軍隊に変えること」なのである。したがって、相沢のような人物の、たとえ言葉になってはいないにしても、頭のなかでは、天皇は帝位に装われたお神輿にすぎないことになる。1000年の歴史が、これこそまさしく日本の天皇概念であることを立証している。天皇は神人、つまり、国家の永遠性の象徴である。天皇は、その職にある人間が行なう進言には異議をさしはさむことなく裁可する自動人形(オートマトン)である。

1868年の明治維新は、天皇にそうした地位を創りだしたのだと言えよう。永田殺害は、陸軍の反革命の一部だったのである。
       
(ヒュー・バイアス『昭和帝国の暗殺政治』内山秀夫・増田修代訳、刀水書房、p.101)

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二・二六事件 (1936年)

歩兵第一・三連隊、近衛兵第三連隊の20人余りの将校と部下約1500名が参加し、約1時間ほどの間に日本の中枢を手中に治めてしまった。
       
皇道派の首魁は真崎甚三郎、決起隊の中心人物は野中四郎(のち自決)だった。
      
歩兵第三連隊安藤輝三大尉の決意と兵を想う気持ちを覚えておこう。
      
真崎甚三郎の卑怯、狡猾さは忘れてはならない。
       

あてにもならぬ人の口を信じ、どうにもならぬ世の中で飛び出して見たのは愚かであった。(竹島継夫の遺書より)
       

国民よ軍部を信頼するな。(渋川善助)
          

ここで真崎甚三郎を縛ってしまったら、日本の陸軍は全滅するといってもいい。そこで、当時、北一輝のところに若い将校が出入りしていたものだから、結局北一輝らのこの責任を押しつけて、死刑にした。

(むのたけじ『戦争絶滅へ、人間復活へ』岩波新書、p.13)
       

昭和史に造詣の深い高橋正衛氏によれば「二・二六事件は真崎甚三郎の野心とかさなりあった青年将校の維新運動」(『二・二六事件』、中公新書p.175)と結論づけられるが、真崎の卑しさとでたらめは粟屋憲太郎『東京裁判への道<下>』(講談社、pp.129-136)にも簡潔にまとめてある。
日本ではいつもこういう卑怯で臆病なものどもがはびこるのである。

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陸軍士官学校や陸軍大学校から軍の高級官僚が供給されるようになって以来、彼等の人事権が確立し、外部の干渉を排して自らの組織を編成するという、官僚機構独特の行動が目立ちはじめた。ここに陸軍省と参謀本部の内部で、陸軍の主導権をめぐって皇道派と統制派の対立が生まれた。二・二六事件は権力闘争に敗れた皇道派の青年将校のやぶれかぶれの行動であった。いつの時代も官僚は白蟻のごとく国家に寄生しつつ権力闘争に明け暮れている。結局依拠する基盤もろともに壊滅し、時には国家の存亡を殆うくする。日本は21世紀に入っても相も変わらず、全く懲りることなく同じ状況を呈している。


桐生悠々(政次)、二・二六事件から十日ほど後の発行
(三月五日の『他山の石』で「皇軍を私兵化して国民の同情を失った軍部」という見出しのもと、次のような批判を行った。

「だから言ったではないか。国体明徽よりも軍勅瀾徽が先きであると。だから言ったではないか、五・一五事件の犯人に対して一部国民が余りに盲目的、雷同的の讃辞を呈すれば、これが模倣を防ぎ能わないと。だから、言ったではないか。疾くに軍部の盲動を誡めなければ、その害の及ぶところ実に測り知るべからざるものがあると。だから、軍部と政府とに苦言を呈して、幾たびとなく発禁の厄に遭ったではないか。国民はここに至って、漸く目
さめた。目さめたけれどももう遅い」
(保阪正康『昭和史の教訓』朝日新書、p.43)

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軍人その本務を逸脱して余事に奔走すること、すでに好ましくないが、さらに憂うべきことは、軍人が政治を左右する結果は、もし一度戦争の危機に立った時、国民の中には、戦争がはたして必至の運命によるか、あるいは何らかのためにする結果かという疑惑を生ずるであろう。

(河合栄治郎「二・二六事件について」、帝国大学新聞 S11.3.9) 
     
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二・二六事件の本質は二つある、第一は一部少数のものが暴力の行使により政権を左右せんとしたことに於て、それがファシズムの運動だということであり、第二はその暴力行使した一部少数のものが、一般市民に非ずして軍隊だということである。
         
二・二六事件は軍ファシズムによる「自ら善なりと確信する変革を行うに何の悸る所があろうか」という根本的な社会変革への誤りから出発した事件である。
(河合栄治郎、『中央公論』巻頭論文) 
              
(高橋正衛『二・二六事件』中公新書、p.23)


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石原莞爾: 石原が中心になってこの事件を終息させたといえる。
         
「この石原を殺したかったら、臆病なまねをするな。直接自分の手で殺せ。兵隊の手を借りて殺すなど卑怯千万である」
       
(石原莞爾は統制派の指導者武藤章とともに、鎮圧に向いて動き始めていた)
         
「貴様らは、何だ、この様は。陛下の軍を私兵化しおって。即座に解散し、原隊に復帰せよ。云う事をきかないと、軍旗を奉じて、討伐するぞ!」
        

事件後の陸軍を牽引したのは石原莞爾、梅津美治郎、武藤章だったが、後二者は官僚色、統制色の強い輩であり、精神的に皇道派的な石原莞爾は彼等(幕僚派、東条英機も)との軋轢をもつことしばしばであった。結局このことが石原の軍人としての経歴に終止符をうつことになった。

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昭和天皇

「朕ガ股肱ノ老臣ヲ殺戮ス、此ノ如キ凶暴ノ将校等、其精神ニ於テモ何ノ恕スベキモノアリヤ」
         
「朕ガ最モ信頼セル老臣ヲ悉ク倒スハ真綿ニテ朕ガ首ヲ締ムルニ等シキ行為ナリ」

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斎藤隆夫氏の粛軍演説

斎藤隆夫氏のこの憲政史上に残る名演説も、当時の広田弘毅首相、寺内寿一陸相をして、軍部に対して大した措置をとらせるには至らなかった。結局は皇道派の首脳を退陣させただけで、残った統制派が、我が世の春を謳歌することになっただけだった。

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二・二六事件を官僚の視点で整理すると

(佐藤優・魚住昭『ナショナリズムという迷宮』朝日新聞社 pp.168-169)

        
魚住 二・二六事件は統制派に対する闘争の面は否めませんよね?
        
佐藤 それはそうでしょう。そこで、逆にお聞きします。全共闘運動の中ではいろいろな内紛がありましたが、それぞれのグループは何で対立していたと思いますか。
        
魚住 私は全共闘世代よりも少し後の世代で、端から見ている立場でしたが、正直、どこが違うのかよくわかりませんね。
        
佐藤 そうでしょ。まさにそれが皇道派と統制派の対立なんです。彼らの中では大変な対立で、場合によっては殺し合わなくてはならなくなるのですが、私たちにはわからないんですよ。全共闘型の内紛が軍事官僚の中で起きたと考えればいいんです。
        
魚住 なるほどなあ。二・二六事件を官僚という視点で整理すると、30年代までの平和な時代において軍縮条約が結ばれるなど、軍事官僚の存在意義を問われるような状況が起きた。そんな時代に自分たちの自己保存を図ろうとした象徴的な行動が二・二六事件だったということでしょうか。
        
佐藤 そうだと思います。蹶起することで非日常的な状況を日常的な状況にする、つまり、常に軍事官僚の存在意義があり、自分たちの安楽な椅子を増やせるような状況を作り出すということですね。
        
魚住 二・二六事件で皇道派は潰されましたが、結果としては少なくとも軍事官僚の自己保存運動としては成功したわけですね。
        
佐藤 そう、うまくいったんです。しかし彼らは国家全体が萎縮した: 軍が動くことの恐ろしさを目の当たりにすることで、マスコミも学者も経済人も政治家も萎縮した)ところで勢力を伸張したものですから、ビューロクラシー(官僚政治)に陥ってしまったのです。社会全体を自分たちが理解し、統治できると。実際、後に1940年体制と呼ばれる統制経済システムの構築に成功しましたね。
           
   一方で、戦争を機能的に遂行できるテクノクラート(技術官僚)の側面が弱くなり、太平洋戦争で悲惨な敗北を喫し、軍事官僚システムは崩壊してしまいましたが。しかし、非軍事官僚は整理されずに生き残って、戦後の官僚機構を形成していきます。彼らもビューロクラシーに染まっていた。これは感覚的なレベルですが、現在にまで続く日本の官僚制の宿痾は1930年代の軍事官僚にあるのではないでしょうか。


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・スペイン内乱(1936~1939年): 航空戦力が現実に試された。
       
都市爆撃で都市は破壊したが、人々の戦意を奪うことはできなかった。爆撃機は予想外に撃墜されやすいことも判明。航空輸送の重要性も判明。
      
(リチャード・P・ハリオン『現代の航空戦 湾岸戦争」服部省吾訳、東洋書林)


・1937年4月26日、ドイツのコンドル部隊 Legion Condor が、バスクの山村ゲルニカ Guernica を強襲空爆して死者千数百人を出して壊滅させた。
再建されて僅か4年のドイツ空軍力の飛躍的充実を見せつけるとともに戦略爆撃のおそるべき破壊力をも見せつけた。

ゲルニカ爆撃がアメリカ、イギリス、フランスなどの報道機関によって伝えられると、フランコ反乱軍を非難する声が世界的に巻き起こった。この反響を危惧したフランコやコンドル軍団指揮官フーゴ・シュペルレらは「ゲルニカで都市を破壊し、子供や尼僧までを殺傷したのは、我々に敵対するバスク民族主義者やアナーキストの犯行である。ゲルニカ爆撃は捏造である」という謀略宣伝に努めた。画家のパブロ・ピカソはパリ万国博覧会のため壁画を依頼されており、憤怒を込めて『ゲルニカ』を描きあげた。


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