700キロ弱の長さを誇る山陰本線も今となってはそれを通しで乗ろうとすると何本もの列車を乗り継がなくてはならず、
本線とは名ばかりの長大ローカル線と化してしまっている。
電関人が足しげく通った頃の山陰本線には、特急、急行が頻繁に走りその間を数百キロのロングランの各駅停車が人と物資を運んでいた。
まだまだ鉄道による旅客輸送が主体だった時代だったが、こと貨物においては既に斜陽化が始まっていたらしく縦の物流は全線単線だけに
効率が悪く、横の陰陽輸送が主でそれもどんどんトラック化が進んでいた時代で本線で目にする貨物はせいぜい10両ほどの長さになっていた。
そしてここ餘部鉄橋を渡る貨物は、記憶の限り70年後半には午前7時代の上下1本ずつの定期列車があったのみだったのではないかと。
上りは、山陰本線で良く見かけたトラにネットをつけたチップ輸送だろうか。
そして下りは、この時期大切な燃料系の輸送と正月物資を運んでいたのではないかと思う。
大晦日の日も粛々と定期貨物が大鉄橋を渡っていった。
1978年大晦日
最新の画像[もっと見る]
カラーで撮ると派手な鉄橋の色が前に出過ぎますが、
モノクロで撮ると静かに里に溶け込んでそれを見守るような、もうひとつの餘部を見るようです。
足しげく通った70年後半は暖冬期に当たり結局雪化粧した
餘部には会えずじまい。
雨天と若かりし頃の単視眼的視点しかなくてアングルに乏しいのが
とても残念です。
鉄橋末期は、単に遠いということとお立ち台ができたり
段々と観光地化してきて記録欲が失せてしまいました。