幸せに生きる(笑顔のレシピ) & ロゴセラピー 

幸せに生きるには幸せな考え方をすること 笑顔のレシピは自分が創ることだと思います。笑顔が周りを幸せにし自分も幸せに!

クミコさんのブログ 「二日間」 ”つんくさんと石巻の子どもたちと歌を!”

2016-03-13 11:34:17 | 生き方/考え方
http://ameblo.jp/kumiko926/entry-12138654810.html?frm_src=favoritemail 2016-03-13
一昨日。
サントリーホールでの「うまれてきてくれてありがとう」の合唱は本当に幸せだった。
つんく♂さんの指揮は、クラシックのオーケストラを前に、ひるむことなく、ロックしてた。

唄いながら指揮をする、その姿に、湯川さん率いる東京女声合唱団と、石巻から来てくださった「つながり隊」の皆さんは、もう胸がいっぱいになったという。

出演が終わって楽屋で。
大人も子供もぎっしり一部屋に集まる。
私は皆さんへの感謝で、もう涙がでてきてしまっている。

そして。
つんく♂さんが、皆さんへの感謝のメッセージをスマホで打ち、それを私が代読する。
そのたびにみんなが歓声を上げる。
泣き笑いみたいになってる。

私は、声を失ったつんく♂さんしか知らない。
でも、時々、つんく♂さんの声が聞こえる気がする。
深い声が聞こえる気がする。
それは、つんく♂さんが持っていた声ではないのに、勝手に変換されて聞こえてくる。
そんなつんく♂さんの深い声を、楽屋にいるみんなは共有して、そして別れた。

なんて幸せな一夜だったことだろう。
石巻から来てくれた子供たちは、五年の間にすっかり大きくなった。
そうなんだなあ、時は進んでいくんだなあ。
子供たちは大きくなって、私はやっぱり年をとった。

昨日は早朝と夜の生ラジオをはさんで、狭山と熊谷キャンペーン。
もう自分がどこにいるのか、わからなくなってきた。
お風呂に入って、一息ついた深夜。
徳光さんの番組に出たのが、もう昔のことのように思えた。

一日が千日になっている。
これじゃあ、年をとるわけだ。
気は焦るけど、カラダはとどまる。
こまったもんだなあ。
ふしぎなもんだなあ。
ニンゲンて。
ああ。

感想
人とのつながり。それを大切にして。
きっと子どもたちも元気を貰ったのではないでしょうか。
そして、つんくさん、クミコさんも。

自分のためだけにやっているとその元気は貰えないように思います。
誰かのために、何かのためにやっているとご褒美に元気をいただけるように思います。



小児甲状腺がん「家族の会」結成 福島県の調査で診断 ”因果関係がないことの説明責任は?”

2016-03-13 09:28:00 | 社会
http://news.goo.ne.jp/article/asahi/nation/ASJ3D5V94J3DUGTB00F.html朝日新聞
 東京電力福島第一原発事故後の福島県の県民健康調査で、小児甲状腺がんと診断された子どもたちの保護者による「311甲状腺がん家族の会」が12日、結成された。朝日新聞の取材に応じた家族らは、医師から原発事故との因果関係を否定され、手術後の再発の不安に苦しむ孤立感などを語った。

 5家族7人の結成メンバーのうち、2家族3人が福島県内で取材に応じた。福島県中通りの40代の母親は、検査・診断・手術の実施機関である県立医大の担当医が、いきなり高校生の長女本人の前でがん宣告をしたという。術前術後の体調不良についても「納得いく説明がもらえない。患者の家族同士で情報共有し、改善を求めたい」と家族会に参加した。

 別の家族の父親も、担当医が本人に突然、がん宣告し、「息子は顔面蒼白(そうはく)となり、数日立ち直れなかった」と憤る。原発事故との関係を尋ねても否定され、事故後の福島県で100人以上の小児甲状腺がんが発生している理由について「説明してほしい」と訴える。

 県立医大の担当医は取材に対し、広報コミュニケーション室を通じて「心のケアの専門家が不安や疑問を口にできる環境作りに心を砕いてきた。未成年へのがん告知はケア担当者が入り、事前に保護者と相談し、確認している」などとメールで回答した。(本田雅和)

感想
専門家は「放射能と甲状腺がんが因果関係があるとは言えない」と発言しています。
PL法では、「被害者が因果関係を証明する」のではなく、製造物を造った側が、「製造者が因果関係を否定することを証明しないと責任を製造者に取らします」。
専門家、国は「放射能と甲状腺がんが因果関係ないことを証明する」ことが求められるのではないでしょうか?

胃レントゲン検査のほんのわずかな放射線も影響があるとのことで、若い世代が胃レントゲン検査の放射線を受けるのはマイナス面が多いとのことである年代以下は受けないことを推奨しています。
つまり、あるレベル以下は放射線の影響なし、あるレベル以上は放射線の影響あるというものではなく、連続なのです。
人によって放射線の影響を受けやすい人は少量でも受けるのです。
ほかの地域に比べ20~50倍の甲状腺がん発症です。それに対して検査しているから見つけているのは詭弁の何者でもありません。
血液製剤も因果関係があるとは言えないと責任者/国が判断して血友病の患者さんにエイズの感染を止めることができませんでした。
今やることは因果関係があると考えてとるべき手をきちんとやることなのだと思います。


批判に反論「あなたはあなた、私は私」 ”ゲシャルトの祈り”

2016-03-13 08:48:41 | 生き方/考え方
http://ima.goo.ne.jp/word/67897/批判に反論「あなたはあなた、私は私」?from=gootop_srchbox キム・カーダシアン
自撮りの全裸写真をツイッターに公開したキム・カーダシアンが、女優のベット・ミドラー、クロエ・モレッツ、ジャーナリストのピアーズ・モーガンら有名人を始め数多くの人から受けた批判に対して、反論を展開。自身の写真が自分を強くしてくれる感覚を持っているというキムは「今は2016年。体のことで辱めたりするのはもうたくさん。あなたたちの抱いている不満を気にして人生を送ったりしないわ。あなたはあなた、私は私でいさせて」と語り、夫カニエ・ウェストについて「カニエは私を私のままでいさせてくれる。無条件に愛してくれているのよ」と称賛した。

感想
http://inorinohinshitu.sakura.ne.jp/care31.htmlゲシャルトの祈り
私は私の信じることをします。
貴方は貴方が信じることをします。
私は貴方が私に期待することをするために生きているのではありません。
貴方は私が貴方に期待することをするために生きているのではありません。
貴方は貴方であり、私は私です。
もし出逢い、縁があればそれはとても人生において美しいことです。
でも、縁がなければそれはそれでよいことです。

それまでは、周りの目をとても気にしていました。
自分が信じることをやれば善いのだと受け取りました。
自分が信じることが周りの人の幸せになると信じることをすれば良いのだと理解しました。




入院児と遊ぶボランティアが生まれた背景-闘病生活を送った子どもと親の声に押されて-

2016-03-13 02:51:10 | 生き方/考え方
第4回 全国遊びのボランティア
日時:2016年3月12日(土)10時~16時50分
場所:エーザイ株式会社ホール

ボランティアが生まれた背景-闘病生活を送った子どもと親の声に押されて-
総合司会 高橋美佐子(朝日新聞文化くらし報道部記者)

開会あいさつ:(ぷくぷくばるーん理事)
ボランティアでやっているが、他のボランティアの交流がなかった。問題を自分たちで解決していた。坂上さん、ニコニコトマトとの神田さんとはいろいろと教えていただいた。私は患者の家族だった者がボランティアをやるようになった。

(若年性がん患者STANDUP会員)
悪性リンパ腫を患った。6年間介護福祉士をして、それからフードコーディネイターの資格取り、今料理教室の仕事をしている。
中学の時に病気を。その時にボランティアの人が1回/週の1時間が楽しみだった。治療は辛かった。ボランティアがいてくれたことが支えだった。退院した後もボランティアの交流ができるのが嬉しい。メンバーは小児がんを発症した人々。1回/月交流会とHP上で情報交換。同世代の悩みに対して情報提供をしよう。10代の半分を入院とか過ごして来たので。高校受験も限られた中でしか選択肢がなかった。定時制の高校も病気により6年かかった。悔しい思いをたくさん経験してきた。話し合うことで共感とか、力づけられている。

(患者の家族の一人として)
息子が11か月で骨髄性白血病。7か月入院に付き添っていた。なかなか現実が受け入れられなかった。泣いているばかりだった。2か月経過して、隣のお母さんと「私たち刑務所の生活でもやれるね」と言っていた。その中でボランティアの人との交流ができた。90分/週ボランティアが来てくれて、その時間、自分の時間を持てるありがたさを痛感した。付き添いにとって遊びのボランティアの意味は、ボランティアがおもちゃを持って来て一緒に遊んでくれた。たくさんのおもちゃを持って来てくれた。それまでは限られたおもちゃだった。子どもがどこまで指先を使えるかなどチェックしていてすごいなと思った。また子どもの安全をとても気を使ってくれるとわかって、ボランティアさんに任せることができた。いつ退院できるかがわかなかったので、カレンダーは意味なかった。ボランティアさんが来て、スケジュールを感じた。退院しても数値が回復しなかった。そんな時にボランティアさんに外来の時に、だったら遊びましょうと言われた。坂上先生に相談したら遊びをボランティアの人がビデオを撮って先生に見せてはとアドバイスをもらった。とても助けられた。息子は発達障害と3歳の時に診断された。入院中ボランティアさんとの交流がなかったらもっと成長が遅れていたのではないかと。とても感謝している。療育施設に通っている。発語がオウム返しに出て来た。他人と遊んでいただくことは大きかった。

(こどものちから)
病気の子どもの兄弟支援をしてきたのは、きっかけはたくさんの失敗だった。息子が3歳で小児がんになった。9か月入院して亡くなった。上の子どもたち3人に伝えたと思っていたが、娘が「私は蚊帳の外だった」と言った。娘との関係修復に2年かかった。「病気がよくなるのは本人が頑張っているから。悪くなるのは自分が頑張っていないから」と自分を責めている。普通の生活をしている兄弟でも深く傷ついているのだと。娘はもう結婚して子どもがいるが、アルコールが入ると「蚊帳の外だった」と言っている。国立がんセンターで勝手に兄弟支援のボランティアをやっていた。「ここで遊んでいても良いですか?」と言ってやっていた。2回/月やっていた。子どもが「ぼくはバイキンマンが好きだ」と言ってバイキンマンの遊びをした。遊びを終わった顔はアンパンマンの顔だった。6年が過ぎたことで一人では限界を感じてNPOを立ち上げた。人数が増えていろいろな支援ができるようになった。通信をフェイスブックで発信をしている。10回/月になると、お友達になる子どもがいる。遊ぶことができるので子どもが病院に行くのが嫌にならなくなった。絵本もおもちゃも増えたと嬉しいこともいっぱいあるが、どうしても資金が必要で苦しい。助成金を申請したりと苦手なことがあり、それが解消できたらよいなと思う。ボランティアをやりたいと言う人が増えて来たのは嬉しい。

(東京女子医大病院脳神経外科・家族の会)
息子は小学校2年生の時に脳腫瘍を発症して1年2か月入院した。発症する前はとても元気で運動している子どもだった。入院するとベットに閉じ込められた状態で、食器をバーンと投げつけたりした。主治医の先生からストレスを発した方が良いからと言われてほっとした。子どもは副作用がなくなり余力ができると、遊びたいと言った。ちょうど遊びのボランティアが入りだしたころだった。化学療養中は入れないけど主治医に頼んでマスクをしてボランティアさんに入ってもらった。しかし、ボランティアが入らない時は子どもと私の二人だけなので限界でゲームに頼ってしまうことが多かった。こんなにゲームさせてよいのだろうかと不安があったけどゲームに頼るしかなかった。親と子どもだけで接するよりも、ボランティアと接している時の子どもの顔が生き生きしていた。当時仕事をしていたが、退職した。夫が夜勤をやっていたが、子どもが3人いて、勤務時間を短くして手伝ってくれた。下の子を接することができるのは1回/週だった。その子から、「今日は一緒に寝られるの」といつも言われた。自分が誰かに話す場が欲しかった。入院中は他の親と話していたが退院してから話す場がなくなり、家族の会を立ち上げた。仲良しグループよりも会にした方が新しい人が入りやすいので。子どもが笑顔になるのは、子どもが遊んでいた時だけだった。放射線で髪の毛が抜けだすと鏡の中で皆が抜け出したねと話し合っているのは救けでもあった。
活動し始めて10年経過して、子どもたちが大きくなり、その子どもたちがボランティアのお手伝いに入るようになった。

(ぷくぷくばるーん)
息子が急性リンパ性白血病。病院は個室で出られなくてプレールームにも行けなかった。5か月ずっと一緒だった。ボランティアさんに遊んでもらえるとの概念もなかった。また再発して、大宮日赤に入院した。カードゲームで遊んでいた。新作がでたら買い与えていた。今から思うと何をしていたのかと思うが。その時の私の夢は小学校に戻す。引きづっても勉強させた。小学校5年生の時に学校に戻ったのは嬉しかった。でも子どもが12歳で亡くなって、その時子どもに強制的に勉強させてから私のエゴだったなと思った。立ち上げたのは、病院に恩返ししたいとの気持ちと、子どもの生きた証を残したいと思ったから。最初からNPOを立ち上げた。主治医の先生たちと患者の家族で一緒に立ち上げた。バルーンで遊ぶ活動をしている。先ずはお母さんを笑顔にしないと子どもは笑顔にならない。立ち上げてから、ボランティアが病院に入りにくい。私たちは訪問すると入らせてもらえるが、他のボランティアが入ろうとすると病院が拒否することも。窓口が事務だと仕事が増えると思われている。チャイルドスペシャリストが病院にいると入りやすい。そのため入りやすい病院に行くことが多くなっている。もう一つは財源でどうしても100万円かかっている。それをどのように集めるかを苦労している。ボランティアの交通費とか材料費にかかっている。寄付とか助成金に頼らなくてもよいようにしたい。

(京都大学附属病院にこにこトマト)
活動が20年以上。原点は患者の親だった。子どもが突然白い壁の病院に入院した。
親は先ずは子どもの病気が自分のせいかと自分を責める。死ぬときは、「ああ面白かった」と死にたいと思っている。後悔したくないけどどうしたらよいか。病気を治すことが出来ればよいが、自分には何もできない。病院には不備がたくさんあったけど忙しい中ではそれを責めることはできない。今一番楽しいことはどうしたらよいか。病院にボランティアは受け入れるべきだと主張する気持ちはなかった。子どもの笑顔を見て悪く思う人はいないだろうと思っている。病棟の助けになることは何だろうかと考えた。看護師さんがプレー係をしている。折り紙を友達がやっているので紹介しましょうか?と言ったら、看護師が助かると言われて始まった。それから一歩ずつ始まった。ボランティアはまだ居候の状態だったが、私の活動が評価されて病院にも悪い団体ではないと思ってくれた。自宅が事務所で倉庫になっていた。バザーの様子(自宅)を写真に撮って、病院に事務の方に院長先生に見せても良いですか?と言って見せたら、2か月後に場所を提供して貰えた。相手の心に伝われば動いてくれるんだと思った。そういう感性を持っている人が病院内に一人でもいると病院内で動いてくれる。時間をかければ上手く行くんだなと思うようになった。元気な内に交代して出来ることをこれからも指定校と。

(ガラガラドン)
保育士で親ではない。国立国際医療センターに家族の会があった。新宿区から入院している子どもを見てもらえないかと言われて関わり始めた。一緒に遊ぶと子どもたちも友達ができる。親も子どもを通して知り合う。7人の小児がんの子どもを持っている親が新宿に依頼の手紙(子どもと遊んでくれる人を支援して欲しい)を出した。でもあなたたちは新宿区でないからダメだと言われた。そこで病院の師長さんが病院内の責任者の許可を取るのにとっても苦労したくれた。「続けてくださいね」と言われた。すぐに辞めてしまう。信用がないんだなと。ボランティアは自立して自分たちでやらないといけない。NPOを立ち上げて活動して来た。10周年の時の言葉「ボランティアはありがたい。でも事故があった時ボランティは責任を取ってくれるのか」と言われた。だったら海外はどうなっているんだろうと海外を見て回った。海外ではボランティの責任者が病院にいる。病院に泣いている子どもたちがいる。百貨店では子どもが泣いていると多くの人が声をかけてくれるが、病院では泣いている子どもがいても放っておかれる。

(モミジの家ホスピス 看護師)
何か参考になるのではと思って参加した。家で暮らしている子どもを家のように過ごしてもらおう。預かる子どもは重症。看護師としてボランティアを立ち上げるのは初めてなので模索している最中です。勉強に来た状態。

(大阪市立医療センター)
200人の難病の子どもたちがいる。イギリスの子どものホスピスを建てようとしている。退院した子どもたちのボランティアをしている。一人ひとり心に沁みる話だった。共通は子どもたちの笑顔なんだろなと思う。入院している子ども、家族にとっては必要なものだと思う。

(国立成育医療研究センター・小児がんセンターセンター医師)
東京に来たのは2年7か月前。それまでは名古屋にいた。3年前小児がん拠点病院(15病院)が出来た。それと束ねる役割として成育医療研究センターがその一つになっている。
小児がんに関しては多くの人がかかわって来た。目は小児がんだけを見ていたのでだめで、子どもの全体を見る。子どもが元気に遊んでいるかどうか。子どもは最後まで遊びたいと思っている。別の病棟に移る時、このゲーム機の通信ができるかを心配していた。トヨタ記念病院はゲームはダメ、本を読めと。本を読むのも遊びの一つかなと思うが。病院によってずいぶん違うなと思う。子どもサポートチームを作って子ども見て行きたいと思った。ホスピタルクラウン、最初は医者がやればよいと思ったが、1回/2週間来てくれる。楽しみにして待っている。
患者さんへの支援、親や兄弟への支援。この二つの視点から見て行かないといかない。子どもさんも大変だけど、親御さんも大変だね。親だけでなく兄弟のサポートも見て行かないといけない。資金面の課題もある。ここに来たのは2年半前だが、前に見ていた子どもがホスピタルクラウンでの感想を書いた。「入院していた弟は楽しいなと思っていたが、大変だったと知った。病院に行った時に、先生が『お兄ちゃんもよく頑張ったね』と言ってくれた。弟が良くなったのは、先生やスタッフやボランティアの支援があったからだと思った」。

午後は、「ボランティアが入った後はどうなるの-課題と解決の道のり」について、9人のパネリストで報告があった。

感想;
私自身も東京医科歯科大附属病院小児病棟で8年ほど、”遊びのボランティア”をしていました。
東京医科歯科大には固形がんや白血病の子どもたちが多く入院していました。
がんは大人も辛い病気です。子どもにとって遊ぶことがほっとできる楽しい時間です。
子どもの笑顔が生まれます。子どもに付き添っているお母さんにとって、子どもの笑顔がエネルギーになります。
また、子どもが遊んでいる時間は、買い物とか、お風呂とか、時にはほっとお茶を飲める時間にもなります。

遊びのボランティアについては下記のサイトをご覧ください。
http://inorinohinshitu.sakura.ne.jp/yokkun.html