幸せに生きる(笑顔のレシピ) & ロゴセラピー 

幸せに生きるには幸せな考え方をすること 笑顔のレシピは自分が創ることだと思います。笑顔が周りを幸せにし自分も幸せに!

阿川佐和子さん「サワコの朝 三宅裕司さん」 ”笑いを求めて”

2016-06-04 08:40:48 | 生き方/考え方
ダイエットで15kg減量。
1951年生まれ、「テレビ探偵団」の司会。100本以上の番組で司会を。
1979年「劇団スーパーエキセントリック・シアター」を立ち上げた。
2006年に新しい劇団を旗揚げ。「伊東四朗一座」を2004年に一緒に旗揚げ。
伊東四朗が出ない時用に「熱海五郎一座」を2006年に旗揚げ。
紆余曲折の喜劇人生について語る。

心はあくまで“喜劇俳優”。全ての作品の座長兼演出をした。
東京喜劇で出演者が皆受ける笑いが均等になるように苦労している。
劇団は男性なので常に大物女優が客演する。大地真央さんは笑いが好き。演出会議に必ず座っている。かっこよく出てきて、ずっこけて。笑いはその場で結果が出る。笑い声が聞こえるが、泣かせる劇はなかなかわからない。

今でも記憶に残る1曲目は、植木ひとし「馬鹿は死ななきゃ直らない」喜劇人生の原点。
しみじみと人生観を。馬鹿にならないと。馬鹿になることはなかなかできない。
母は9人兄弟の長女で、にぎやかな家族。皆の前で芸を子どもの時披露していた。映画撮影が趣味だった父が脚本を作ってやっていた。それを見ていて「大人は楽しいな。早く大人になりたい」
大学は経営学部に入った。大学に入った時に今の奥さんと付き合っていた。ちゃんとしたところに就職しようと思ってその学部を選択した。加山雄三みたいになりたいと思った。車の免許も取ってと。しかし、愛する彼女と別れてしまった。とても苦しくなり、落研に入った。

1979年「劇団スーパーエキセントリック・シアター」を立ち上げた。日本テレビタレントに入った。東京新喜劇が大江戸新喜劇に名前を変えた。でもその笑いが好きでなかったので、そのメンバー15人を引き連れて立ち上げた。28歳で座長になった。皆養成所を出ていた。笑いだったので座長ができた。実際にやりながら、どうしたら笑いが取れるかを一緒にやった。岸谷五郎や寺脇康文もいた。劇団を給料制にしたかった。バイトで皆働いていた。そこで自分の他の出演料をそこに入れた。そして稽古を一生懸命やって貰うようにした。

岸谷と寺脇はその給料で別の演技養成所で勉強して力を付けて行った。一方、自分は他の仕事もあり劇団に費やす時間も減っていた。そうすると皆が二人に付いていくようになった。「くそ、あいつの方が求心力があるな」。そんな時に、二人から劇団を辞めたいと言われた。看板スターがまさかの退団。「いつか最高の喜劇を作って、座長に出演を依頼したい」と言って辞めて行った。しかし、まだ二人から出演依頼は来ていない。人気者が劇団を去って小倉に人気が出た。二人は、「俺たちが辞めたから小倉は人気が出た」と言っている。

大阪の笑いが主流になって、東京の喜劇を追い求めて、萩本欽一さんと話した。「東京の喜劇を覚えている人はいなくなったから、三宅さんがやるのが東京喜劇になるのでは」と言われた。落差が大きいのを東京の笑いと考えている。

重度のヘルニアと狭窄で緊急入院した。実は俳優生命の危機だった。でもそれを医者から聞いたスタッフは妻に言わなかった。妻は2週間で治ると信じて私に言っていた。「奥さんが俳優危機だと言うこと隠していたとは思わなかった?」。リハビリが若い女性だった。そうしたら妻は「あなた若い人でリハビリ楽しくて良いわね」と言うのを聞いて、妻が隠しているとは思わなかった。隠していたなら、こんなときに嫉妬はしないだろうと。実は妻はかなりの“天然ボケ”。ジェットコースターで並んでいて、「こんなに並んでいたら座れないわね」と。コインロッカーをノックするとか。
2曲目は坂本冬美「また君に恋をして」。ヘルニアの手術して闘病中によく聴いた曲。女房に支えられたので、この気持ちになった。
「なんというラブラブ」(サワコさん)。「どうです、最後にまとめる」。落差が大きい女優さんを考えている。

感想
自分の収入を劇団員のお給料に回して、劇団員の成長を支援されていました。
まさに”人創り”です。
それと自分がそれに一生懸命取り組んで来られたからなのでしょう。
仲間と一緒に”笑い”の追究をして来られたのでしょう。