幸せに生きる(笑顔のレシピ) & ロゴセラピー 

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阿川佐和子さん「サワコの朝 大江千里さん」 "47歳からジャズピアノへの挑戦”

2017-01-28 08:28:18 | 本の紹介
ジャズピアニスト。十人十色。1980年代からポップ会をリード。現在56歳。渡辺美里さんや松田聖子さんに楽曲を提供。シンガーソングライター。ポップスからジャスに。
関学在学中にデビュー。ヒット曲を連発。俳優としても多くのドラマに出演。
47歳の時にニューヨークへ。ジャズの専門大学へ。自分の力が足らないことを痛感。

今はニューヨークに住んで、ジャズクラブで定期的に演奏している。アトランタジャズフェスティバルのオープニングで演奏する予定。

ピアノを始めたのは3歳。若い先生で、作曲をする才能を見出してくれて指導してくれた。4歳から自由に演奏(作曲)していた。ジャズも聞いていた。ジャズの夢はしまい込んだまま。心の憶測にはいつかジャズをやりたいなと思っていた。18歳でポップスを書き出した。
3回目の離婚調停は曲にならない。

1曲目。19歳の時。自分と同い年の人が作曲。音楽への道へ後押ししてくれた曲。父が読売新聞で働いていた。なので、自分もサラリーマンにならないといけないかなとも思っていた。EPOの「雨のケンネル通り」。後にEPOと友達になって、データして改札通る時、「十人十色」ができた。曲と同じポップなイメージだった。自分で演出していた。素質は生まれた時から関西のおばさんだった。
「REAL」の振り付けは初めは無茶な振り付けだった。常に不安はあった。気持ちは先に先に行っていた。作曲ができなくて、逃げ回っていた。そうしたら、関係者が飲み屋で待っていて、その前を通って捕まって2~3時間飲んでいたら作曲できた。

ジャズピアニストになるために47歳でジャズピアニストのピアニスト専門大学に行くため、クリスマスコンサートをキャンセルしてまで行った。47歳から金メダルを目指すのは不可能と言われた。クラス分けをするために、皆に演奏させた。音を出しただけでジャズでないことがわかった。ビートが身体が身に付かない。ジャズとポップスの違い。ちょっと待った、と足だけが先に行く感じがジャズ。ポップスの世界で身体がなじんでしまっていた。膝を揺らしなさいと言われた。ジャズの感覚をつかむのに苦労した。地下鉄に乗っていてジャズを聴きながら声を出していた。周りの人が不審に思って離れて行った。18歳のマットが演奏するのをビデオで撮影してそれを拡大して練習した。F7だけがジャズでそれ以外はポップス。18歳のマットの指使いを覚えた。友達が見直してくれたのは3年くらい経ってからだった。学校の前に来て、学校に行くのが嫌で、エィと思ってGood Morningと言って入っていった。演奏していたら黒人の配達人が踊り出したのでビートが合って来たと思った。まだポップスも体に残っている。

何で乗り越えられたのか?帰る道がない。退路がない。心の声に従ってアメリカに行って良かったなと思う。自分の責任ですから。選んで失敗しているのですから。悲しいことがあってもへらへら笑って。この歳だからこそ挑戦できる。二回目の青春だからこそできる。それまでの経験があるからできる場合もある。

2曲目はアンサンブルの課題曲として貰った。先生が書いてくれた曲。ジャスの先生に教えてもらった。「DUKE ELLINGTON’S SOUND OF LOVE」これに全てが書いてある。
一番好きなことをやる。燃焼したという気持ち。

感想
新しいことへの挑戦。
今あるものを捨てる勇気。
そして新しいことへの努力。
それは全て身体の声を聴いての行動でした。
後悔しない人生、ヒントをいただいたように思いました。